でも今となっては、それすらも最低限の事のようで。
きっと私じゃない誰かなら、知らない貴方の事を知っている。
でもそれは、私じゃない誰かだって同じ。
――ここは?
どこが終わりなのかも分からない暗闇の中に、一人立っていた。伸ばした手が壁に当たる事はなく、空を切るのみ。
足音が聞こえた。
助けを求めようと振り返った。
『お前に、助けを求める権利なんてあるのかい?』
――……っ!
そこには、もう一人俺自身がいた。
目元はさらに暗い闇に包まれ、目線の先を知ることは出来ない。
『逃げてばっかりのくせに、いっちょ前に助けばかり求めている』
――怖いんだよ。
『怖いんじゃなくて、逃げているだけじゃん』
――違う。怖いんだ。
『そんなの嘘だ。だって俺は、過去から目を背けているだけ』
――違う!
『言い訳ばかりだ、俺は何時だってそう。傷つきたくないからって、傷つけたくないからって……そうやって、逃げているだけ』
――だから、俺はっ……!
『何故逃げる? 何故誤魔化す? 何故言い訳をする? そんな事をしても、行いは正当化されないのに』
――俺は、そんなつもりなんて……!
『お前なんて、いるべきじゃないんだ。消えたところで、何も変わりはしない。……そうだ、お前なんて消えてしまえ、消えてしまえ、消えろ、消えろキエロキエロキエロ――』
闇に中から伸びるいくつもの手が、声と共に俺の首にかかり――
「――――ッ、はぁ、はぁ、はあ……」
がばっ、と体を勢いよく起こす。
目の前に広がるのは、暗がりの中の自分の部屋の壁。押した手に変えるのは、ベッドに敷かれた布団の柔らかさ。
壁にかけている時計(時針に蓄光剤がついている)の指し示す時間は、午前5時ごろだろう……か。見間違いでなければ。
「あれは……悪夢?」
それにしては、随分とリアルだったような。
怖くなって辺りを見回すが、人影などは無く、独りである事を嗤う様に沈黙が返ってくる。
――そんなの嘘だ。だって俺は、過去から目を背けているだけ
「……っ」
どこかからそんな声が聞こえた気がして、慌てて両耳を塞ぐ。目を閉じて蹲る。
「違う……違う! 俺は、目を背けてなんて……!」
その声を振り払おうと、必死で言葉を振り絞る。誰かが発した訳ではないのだから、無駄でしかないと言うのに。
俺の息遣いが響く部屋に、ピアノの軽やかな音が割り込む。
ベッドの下に落ちていたスマホを、腕を伸ばして拾い上げる。画面を見ると、ちゃんと日が進んで水曜日になっている事が分かった。それに、この音は目覚ましじゃない……。
「誰だこんな時間に……」
こんな朝っぱらから電話をかけた主は――
「……」
名前を見て、一瞬『拒否』を押そうかと迷う。だが、相手はそんな事をしても意味がない……いや、諦めないだろうと思い、『通話』を押した。
「おはよう、……葵ちゃん」
『おはよう結城君。……色々と、大丈夫そうね』
「え?」
何がどう大丈夫だと言うのか。訳が分からず、間抜けた声で返す。
「里宮さんから聞いたの、アドマイヤベガさんとカレンチャンさん……喧嘩しちゃったって」
「……」
どう返事をしたものか分からなくて、声が出ない。
『ねえ結城君、何があったのか……教えてくれない?』
スマホ越しの声に、心が揺らぐ。
何時までも優しさに縋ってはいけないと分かっていながら、縋ろうとする弱さが憎らしくてたまらない。
秘めていなければ――どこかでそう思っていたはずなのに、ぽつり、ぽつりと言葉が口から漏れる。
「……昨日の事なんだけど――」
俺の独り言のような説明を、邪魔もせずに最後まで聞いてくれた。
そして――
『そう、そういう事があったの……』
「……別に、俺は悪い事なんてしてない。してないのに――」
俺のそんな、怯えるような震えた声が、静かな部屋で木霊する。
『うん……結城君は、何にも悪くない。皆が感情的なだけで、何にも……何にも……』
まるで子供をあやすような優しい声が、俺の言葉を遮るように耳朶を打つ。
『悪くはないのよ。……だけど、』
「?」
『いつまでも”悪くない”人じゃいられないから……、どこかで変わらなくちゃいけないの。私も、……結城君も』
「…………」
俺は……だって、何も……。
『別に今すぐじゃなくたっていいんだけど、……ね?』
「……俺は、俺は――」
『とにかく、ちゃんと二人の話を聞いてあげてね? きっと最初はなかなか教えてくれなくても、根気強く接してあげれば大丈夫だから』
「あぁ……分かったよ」
プツン、と電話が切れる。耳から離したスマホの画面を、しばし無言で見つめていた。
電話帳を開く。
あまり多くない名前の中で、『アヤベさん』と『カレンチャン』の文字が、何故か浮き上がっているように見えた。
「俺は、……先に誰にかけるべきなんだ」
画面をタップしようとする右手が震える。
どちらを選んでも問題ないはずなのに、選んだら二度と何かが取り戻せないような、そんな気がした。
いまだ震えが収まらない指で、『通話』ボタンを押す。
幸いな事に、相手は数コールで出てくれた。何を言えばいいのか、まったく確証はない。だから、とりあえず当たり障りのない言葉を選ぶ。
「……もしもし、今だいじょ『――ッ』」
ブツっ、と電話を切られた。