だけど、それを人は求める。
傷つくことがあると、分かっていても。
傷ついた果てに得られるそれが、素晴らしいものだと信じているから。
この時期の朝の風は、温かさとどこか、突き放すような冷たさがある。少し使い古したコートの襟を寄せ、寒さを堪えようとする。
成功裏に終わったアヤベさんの誕生日パーティーの翌日。昨日がたまたま特別だったというだけで、日々は変わることなく流れてゆく。
トレセン学園の校門に、ウマ娘たちが入っていく。マフラーを付けたり手袋をしたり、人によってはポケットに手を突っ込んだりと、寒さをどうにかやり過ごそうとしている。
そんな彼女たちの後ろから、俺もトレセン学園に入ろうとする。
「……?」
歩きながらトレーナー室に向かう俺に注がれる目線が、普段とどこか違う気がした。何と言うのか、珍獣を見る目というか、噂の何かを見る野次馬のような。……何か顔についているのだろうか。顔を触ってみるが、特におかしな感じはしない。
釈然としないまま、トレーナー室に入る。ストーブの電源を入れ、冷え切ってしまった部屋を暖め始めた。机に家から持ってきたパソコンを置いて、こちらも電源を入れる。
暖まり始めたトレーナー室に、キーボードを叩く音が小さく響く。
仕事を始めて三十分ほど、もう授業は始まった頃だろうか。そんな事を考えていた時、メールが来た。
「……たづなさん?」
理事長秘書のたづなさんからのメールだった。内容は、今すぐ理事長室に来い、というものだった。秋川理事長やたづなさんがトレーナー室に来ることはあったが、このような形で呼び出されたのは初めてだ。
はて、なぜ直接呼び出されるのか。何かをやらかした覚えはないし、週刊誌に何かを嗅ぎつけられたわけでもない。……嗅ぎつけられるものなどないが。
寒いのは嫌だが、仕方なく廊下に出て理事長室に向かう。授業間の休みの時間や昼頃は、どこからかウマ娘たちの明るい声が聞こえるものだ。しかし授業中であれば、廊下に漏れるのは教師の声だけ(という訳でもないが)。
階段をのぼり、理事長室の前に立つ。重厚そうな扉が、今はなぜか怖い。『解雇ッ!!』とでも書かれたセンスを持った理事長が、笑顔で待っているのだろうか。……それはそれで怖い。
「水無月です、失礼します」
そう言いながら理事長室に入ると、秋川理事長は机に座っている。特に雰囲気に変化はないようだ。
だとすれば……。
「水無月さん?」
「……はい」
横に立つたづなさんの纏うオーラが、どこか違う気がした。
「えっと……俺が何をしたんですかね?」
覚えのないものはない。
そういう意思を込めて、たづなさんに返事をする。
「……水無月さんの事なので、きっとそういう事ではないと思うんですが、」
「?」
「これ、覚えはありますか?」
たづなさんが、画面にひび一つ入っていないスマホを見せる。ウマスタグラム……のようだが、それが何だというのか。
そこで何が映っているのかを理解した瞬間、俺の動きが止まる。
「……あぁ。これですか」
それは、俺が昨日アヤベさんにプレゼントした、バースデーリングだった。『♯トレーナーのプレゼント』だそうだ。コメントの数は、一桁も一桁な俺と違い、どえらい事になっている。
「これは、昨日アヤベさんにプレゼントした、バースデーリングですよ」
「……バースデーリング、ですか」
かくかくしかじか二人に説明し、何かは分からないが誤解は解けた。
◆◆◆
週末に高松宮記念が控える、22日の木曜日。
普通のウマ娘なら、まあレースに備えた練習をするのだろう。だが、カレンチャンは、いつも通り。
「アヤベさ~ん!」
「……何かしら」
アヤベさんに絡んでいた。
まあ確かに、レース前だからといって、緊張しすぎるのは良くないのだけど。
「こんにちは、水無月さん」
「あ、里宮さん。こんにちは」
邪魔するのもあれだし、遠巻きに二人を見ていると、カレンチャンの担当トレーナーの里宮さんが声をかけてきた。俺と同期の女性トレーナーで、昨年にはカレンチャンとスプリンターズステークスを制している。
……どうでもいい事だが、確かに美人さんではある。ストレッチ素材のパンツに、白いシャツ。その上から、薄い桃色のカーディガンを羽織っている。スニーカーにポニーテールで、健康そうな見た目だ。
トレーナーの間で流れる『里宮トレーナーはモテる』という噂が流れるのも、当然のような気がしてしまう。
「あの……うちのカレンチャンが、迷惑していますか?」
「そんな事ないですよ。カレンチャンがいたから、アヤべさんも笑ってくれるようになったので」
何がどう見ればそう思うのか分からないが、ちゃんと事実を伝える。カレンチャンがアヤべさんに絡んだおかげで、最初の頃とは随分雰囲気が変わった。
「それにしても、随分余裕そうですね」
「あぁ……そうかもしれませんね」
俺の言葉に、里宮さんが苦笑いする。
前走オーシャンステークスで、カレンチャンは微妙に伸びあぐね四着に敗れた。高松宮記念に出走予定のメンツの中では、明らかにカレンチャンが格上ではある。しかし前走の敗北が、一抹の不安をファンに与えた。
緊張しすぎるのは良くない。だが、あそこまで余裕そうだと、かえって心配してしまうのが人の性だろう。
「もし良ければ、一緒に行きませんか? 高松宮記念に」
「……予定は無い、からなぁ」
里宮さんにそう誘われる。
3月の最終日曜日に行われる高松宮記念に対し、アヤべさんが出走予定の大阪杯は4月の最初の日曜日に行われる。つまり、ちょうど大阪杯の一週間前になる。もちろん、アヤべさんに連闘させるつもりは無いし、そんな予定もないので行くことは出来る。
「水無月さん、カレンチャンの知り合いでしょう? 心配なようですし、一緒に行くのも悪い話じゃないと思うんですが……」
「まあ、知り合いですね」
知り合い、というより、家族ぐるみの付き合いがあるレベルだが。
カレンチャンのトレーナーではない以上、関係ないと言い張ることも出来る。だが、気にならないと言ったら嘘になる。
「……せっかくなので、行かせてもらいます」
まあ、言われなくとも誘われなくとも、行く予定ではあったのだけど。
……だとしたら、なんで俺は行くか迷うような素振りを見せたのだろう。まあ、……そういう事なのだ。
怖いから、近付きたくないから、嘘をつき欺瞞する。身勝手極まりない行為に、反吐が出そうになる。自己防衛――そういえば聞こえはいいが、それは醜い自分を着飾るものでもあるのだ。
「良かった。じゃあ、LINEの交換しておきましょう」
「……『良かった』?」
その言葉の真意を問おうとする前に、スマホの画面を突き出される。ここまで来て拒否する事も出来ず、バーコードを読み込む。ピロン♪ という音とともに、『友達が追加されました』という通知が来た。
「LINE……交換してなかったんですね、俺達って」
「……私が交換しよう、って言っても『まあまた今度』って、水無月さんがかわし続けてたんですよ」
「……そうだっけ?」
言われてみればそんな気もする。正直なところ、同期トレーナーのグループLINEに入っていれば、事は足りるのだ。人とわちゃわちゃするのも苦手なので、飲み会にも行ったことは無い。
人と必要以上に繋がりを持つことに、いまいちメリットを感じられない。……まあ、里宮さんとの繋がりは、意味の無いものではないと思うが。
そんなやり取りをしていたのに気が付いたのか、二人がこちらを見ている。何かマズイ話をしていたわけではないが、一応手を振ってみた。カレンチャンは振り返してくれたが、アヤべさんはぷいっとそっぽを向いている。
「……あの感じだと、心配しなくても良さそうだな」
「やっぱり、そう思います?」
「そう思いますよ」