臆病な私は、今ある日々が変わるのが怖いのだ。
だから、せめて、今ある日々が輝いていますように。
眩しすぎて忘れたくなるほど、輝いていますように。
――自分の気持ちに正直になれ、とはずいぶん陳腐な言葉な様な気がする。
その分だけ、誰にでも言いやすいものだろう。言いやすくなければ、それを目標にすることは出来ない。
だとしたら、今の私の気持ちを正直に言う事は、簡単であってもいいはずだ。
もしそうであれば、どれほど気持ちが楽であっただろうか。
あの日抱いた、あの気持ちは、あの感情は。
今はまだ、正直に言えるものではない。
いえ、どう言えば正直なのかも、分からないでいるだけ。
でも、正直に言えるようになるのは、もっと先でもいい――そう心が、どこかで気付いている。
そうだというのなら、今はまだ、その気持ちに噓をついていよう。分かる時まで、嘘をついていよう。
苦しいのは、苦しくなるのは私だけ。トレーナーは苦しくならないから――
高松宮記念の翌日。3月26日月曜日。
「よし、今はあと二周だ」
「……分かったわ」
俺が声をかけると、アヤベさんは一言だけ返事をして、トラックを走るのを再開する。
なんとなく、あの日――おそらく土曜日なのだろう――以来、少し雰囲気がとげとげしているような気がする。身に覚えがなく、このままではまずいと思い聞いてみたのだが、『別に……』と一言。
なんだか、担当になったばかりの頃に戻ってしまった気がして、少し寂しさを覚える。走るその背中は、いつもと変わらないというのに。
トラックの端で、ボーっと走る様子を見ていた。その時だった。
「よっ、水無月」
「……なんだ、鏑矢か」
テイエムオペラオーの担当トレーナー、鏑矢が声をかけてきた。本人のまじめな性格を反映するかのように、上下ともスーツを着ている。
「ずいぶん郷愁漂う背中をしていたからね、声をかけたんだけど……」
「そう見えるか……」
どうやら、悪い意味で背中で語ってしまってたようだ。
「にしたって、アドマイヤベガさん、いつになくやる気みたいじゃないか」
「そうかね」
……やる気、か。
まあ、そう見えなくもないのだろう。だが俺には、あの走りは、何かを誤魔化すためのものに見える。本当は、その誤魔化しているものが何かを、聞くことができればよかったのだが。
「お前んところは、もう勝ってるから気楽でいいよな……」
「そんな訳ないよ。覇王たるためには、まずは春の盾を取らなきゃいけないんだし……」
覇王ことテイエムオペラオーは、今年に入って京都記念と阪神大賞典を連勝している。『世紀末覇王たる者、もちろん春の盾を、この手に収めて見せようっ!』と力強くオペラオーが宣言したので、鏑矢には思っていた以上に負担がかかっているようだ。
それを言えば、俺だって負担はあるのだが。
「これでアドマイヤベガさんが勝てなかったら、大変な事になるねぇ」
「シャレにならん事言わないでくれ……」
ぶっちゃけ、俺がアヤべさんの大阪杯出走を発表した時点で、『お前は自分の功績のために無理をさせるのか』などといった、誹謗中傷が来ている。それを言いたいのなら、中山記念出走の時点で言えばいいのだから、彼等の言葉など自己満足の正義感でしかない。
とはいえ、復活を期して出走したGI競走で大敗し、そのまま引退したウマ娘がいない訳ではない。そのウマ娘はメディア達に可愛がられ、トレーナーはそのメディア達に叩かれまくったらしい。
文句をつける人々の大半は、誰がそれを決めたのかを考えなどしない。ただ、目の前にある事実から、身勝手な――それは自分にとって都合のいい――憶測を立てる。そうして出来たありもしない事実が、独り歩きして人を傷つけるのだ。
そして彼等は、解き放ったその責任を、自覚していない。いや、自覚しようとはしないし、なんなら人になすり付ける。今度はそれが、自分にとって不都合な真実だから。
俺の考えを知ってか知らずか、鏑矢が口を開く。
「まあ、阪神競馬場は相性は悪くないからね。アドマイヤベガさんが選んだとしても、不自然ではないけど」
「そう言ってくれるだけ、ホントありがたいよ」
そう漏らした俺に対し。
「そんなに嫌なら、本気でアドマイヤベガさんを信用すればいいじゃないか」
「俺がそこまで言ったら、かえってアヤべさんが緊張しちまうだろうが。これくらいでいいんだよ」
「ふぅん……? そうは言うけどね、水無月の今の態度と行動こそ、アドマイヤベガさんを困らせているんじゃないかな?」
「何……?」
呆れた様な、しかしどこか諭すように。
「考えたことは無いのかな? 『まあそこそこでいいよ』なんて言われたり――まあ、顔がそう言ってたりすると、『自分はもうその程度なんだ』って普通は思うものさ」
「…………」
「それに、これで勝てなかったら……なんて君があまりにも気にしていると、『絶対に勝たなきゃいけない』ってプレッシャーになると思うけどね。中途半端にそんな感じより、いっそ『勝って来い』の方が、頑張れるものじゃないかな」
「そりゃ、分からない訳ではないが……」
『勝って来い』と言った方がいい、というのは分かる。だが今回は、正直不安要素があるから強く言えない。
アヤべさんの前走中山記念は、焦った娘のお陰でハイペースとなり、結果最後尾から差し切って勝利した。しかし、追い込みが決まりやすいとされるハイペースだったにも関わらず、着差はクビ差だった。
そういうのもあり、メディアでは脚部不安が治りきってないのではないか。そんな中出走させるトレーナーは、自己顕示欲にまみれた悪い人間だ――みたいなことを言っている。
大昔でもあるまいし、出走するかしないかは本人が決めるので、俺が無理やり走らせようとしている訳ではないのだが。
「まあこの話は、君の心がけ次第だと思うから、これ以上は言わないけど」
「……」
「それより、アドマイヤベガさんが走り終わりそうじゃないか。担当トレーナーは君なんだから、ちゃんと見てなきゃいけないでしょ」
「……話しかけてきたのはお前だろ?」
ネチネチ文句を言っていても仕方が無いので、走り終わりゴール板の近くにいるアヤべさんの所に行く。
「次は何をするの?」
「五分くらい休憩したら、次は坂路で走るか。ラストのあがり勝負に備える必要があるし、それで良いかな?」
「……分かったわ」
そう言うと、一人でスタスタと水筒などを置いてある方へ行ってしまう。……やっぱり、何か様子がおかしいんだよなぁ。
「随分嫌われているようだね」
「そう見える?」
「むしろ、それ以外にどう見えると思ってるのさ」
「……反抗期?」
そうは言っても、俺はアヤべさんの親ではない。冗談交じりのつもりで言ったのだが。
「それも……あるのかなぁ」
「は?」
「いや、だから反抗期ってのも、あながち間違ってないような気がするって事」
「……」
意味も理由も分からないよ。
それにしても――と鏑矢が話題を変える。
「昨日のアレ、もっとネタにされると思ってたんだけどねぇ」
「あ? ……あ、それの事? 前にも言ったろ、取材ならもうされてたって」
俺とカレンチャンが一緒にいる事は、結構前から知られていた事だ。
まったく、メディアはお暇なヤツばかりなのか、その事をカレンチャンとカレンチャンの両親に取材したのである。その結果、カレンチャンは夢を追いかける健気な少女、と見られるようになった。
逆に、俺はヘタレだとか情けない男みたいな、ありがたくない評価を頂いたが。
「記事は見たけどねぇ……。言われたい放題だったな」
「うるさいやい」
一度見たが、あんなもの、とっとと黒歴史入りである。月光蝶で消し飛ばしてしまいたい。
「その記事に書いてあったけど、」
「?」
「自信が無くてアドマイヤベガさんを選んだ、って訳じゃないよね?」
……はぃ?
「自信が無い? そんな事書かれてたっけ?」
「……無意識に忘れようとしていたね? 書いてあったから」
「……言っておくが、自信が無いって訳じゃないぞ。お互い、存在に気がついてなかっただけだからな」
後で二人で確認したので、間違いないはずだ。
「ところで、急にこの話に変えてきたけど、今のアヤべさんの態度に関係あるからなのか?」
「……さあ?」
鏑矢が肩をすくめる。
「何だと?」
「気になったから聞いただけで、深い理由は全く無いから。それに、僕が話を聞いただけで分かるようなことなら、君はとっくに原因に気がつけると思うけどね」
「…………」
ぐうの音も出ない正論に、反論する事は叶わない。
「そろそろ、休憩の五分が経つ頃かな。僕はこれでおさらばするよ」
そう言うと、手を振りながらトレーナー室のある方へ歩き去って行く。その姿を、ただ見送るしか出来なかった。
「私をほうっておいて世間話……どういうつもり?」
いつの間にか、アヤべさんが来ていた。……耳を絞ってるんですけど。
「いや、声を掛けてきたのは向こう――」
「何の話をしていたのよ?」
言い訳がましく口をついた言葉は、アヤべさんの声に遮られた。
「……話す必要ある?」
「……別にいいじゃない」
むぅ。プライベートな事、とか言ってすっとぼけるべきか。まあ別に、言って困るような事を話していた訳じゃないし、答えてもいいか。
「アヤべさんの大阪杯と、カレンチャンの事だけど」
「……そう。じゃあ、トレーニング始めようかしら」
「あ、ちょっ、待ってくれ……」
俺の答えを聞くと、アヤべさんはさっさと坂路に向かってしまう。俺は荷物を抱え、慌てて追いかけた。
完全にアドマイヤベガ編。まあ、主人公はアヤべさんのトレーナーなんで、仕方がないんです