臆病な私は、今ある日々が変わるのが怖いのだ。
だから、せめて、今ある日々が輝いていますように。
眩しすぎて忘れたくなるほど、輝いていますように。
……ここ最近、ついトレーナーに当たってしまう。
知っている。別に、トレーナーは悪くないって事くらい。私が勝手に、あの出来事を引きずっているだけの事。トレーナーだって、あの事が原因だなんて、絶対に思っていない。
「今日は終わりよね? じゃあ帰るわ」
「あ、あぁ……。分かったよ……」
そう言って、木曜日になっても、さっさと寮に帰ろうとした。
どこかで期待しているから、こうやって振舞っているような気がしてしまった。わがままで甘えきりな、そんな自分が、ずるくて嫌になってしまいそうになる。
夕暮れ時の中途半端に深い青なら、今のこの気持ちもわだかまりも、溶かしてくれるのだろうか。この気持ちを忘れてしまうほど、心を奪ってくれるのだろうか。ふと見上げた空を見て、何となく考えてみる。
やっぱり、今日も――
「……なあ、アヤベさん」
「……何かしら?」
トレーナーが呼び止めた。声が明るくなりそうなのをどうにか抑え、なるべく同じ調子で声を返す。
トレーナーは、ちょっと困っているようなそぶりを見せると。
「――ちょっと出かけないか?」
「……え?」
心のどこかで期待していたような、しかしそれを越えるようなその言葉に、思わず変な声が出てしまった。
更衣室で、ジャージを脱ぐ。温かくなりつつあるこの季節だけど、夜が近づけば少しは寒くなる。かいた汗が冷えないように、タオルで丁寧に拭いた。
制服を着て時計を見ると、17時42分を指していた。早く着替えようとしたつもりだったが、たいして短くなってはいなかったらしい。急いでジャージを袋に入れ、人が残る更衣室を後にする。
寮室に着替えを置いて、走って正門に向かう。
その途中で、制服姿のカレンチャンとすれ違った。
「あれ、アヤベさん、こんな時間にどこ行くの?」
確かに、そろそろ夕食の時間だというのに、食堂に向かわず正門に向かおうとする私は、明らかに変だろう。
「ちょっと、トレーナーと外に……ね」
「……お兄ちゃんと?」
訝しげな目線を受けたが、目をそらさないでおく。
「そうよ。……何かおかしいかしら?」
「うぅん、そんな事ないよ。ただ……、……やっぱりなんでもない」
「……」
そう言うと、カレンチャンは食堂の方へと向かう。その姿が廊下の角を曲がり、見えなくなるまで私は立っていた。
見えなくなると、再び正門へ向かって走る。このくらいの時間には、大体の娘たちもトレーニングを終える。なので、大半は食堂に向かっているようだ。そんな中を逆走する私を、不思議そうな目で見る者もいた。だが、特に声をかけられることはない。
正門に着くと、そこには一台の濃紺のスポーツカーが止まっていた。5〜6年前、まだ私がトレセン学園に入学する前に発売され、話題になっていたもののようだ。
どうすればいいのかよく分からず、スポーツカーに近づく。すると、助手席の窓が下がり、トレーナーが顔を出す。
「ほら、乗っていいよ」
「……許可はもらっているの?」
「たづなさんにはちゃんと話してあるさ。気にしなくていい」
そう言われると、断る理由もないし、何より……。そう思い、助手席のドアを開け車に乗り込む。スポーツカーらしく、普段乗るようなバスよりもずっと視点は低い。走っている時の私たちくらいだろうか。
私がドアを閉め、シートベルトをつける。それを確認したトレーナーは、車を発進させた。
しばらくの間、沈黙が流れる。私とトレーナーの間を埋めるのは、エンジンの音と風を切る音だけ。せめて歌か何かが流れていればいいのに、こんな時に限って、トレーナーは何も流してはいない。
赤信号に引っかかり、車列の一番先頭で車が止まる。
「アヤべさん……、俺が何かしちゃったかな?」
その機会を待っていたのか、トレーナーが声をかけてくる。
「……『何か』?」
「ほら、月曜日あたりから、何かぶっきらぼうって言うのかな……? まあ、俺とあんまり話したくなさそうだからさ」
分かってはいたけど、それが聞きたくて『出かけないか』なんて言ったようだ。ええ、知っているわよ。トレーナーがそんな人って事くらい。
「カレンチャンにも聞いたんだけど、」
「……――っ」
その言葉を聞いた瞬間、小さく息を吸ったのが、自分でも分かった。
「理由が分からないって言うからねぇ。直接聞いた方がいいかな、と思ったんだけど……」
「その――」
――その名前を言わないで。
何故そう言おうとしたのか、自分でもよく分からなかった。それでも、言葉が形となって口から出てしまう前に、どうにか抑え込む。
幸い、トレーナーは気づかなかったらしい。何も無かったのかのように、車を発進させながら言葉を続ける。
「俺に不満な事があったり、やって欲しい事があるなら教えてくれないか? ……あの頃に戻っちゃったようで、寂しいからさ」
あまり聞かないようなその声に、思わずトレーナーの顔を見る。そう言ったトレーナーの瞳は、確かに寂しげだった。
私のせい……よね。
一時の出来事を、いつまでも引きずって、勝手に閉ざして。傷ついたのは自分だけだなんて、ひとりよがりの言い訳を盾に、結局はトレーナーを傷つけていた。
「やって欲しい事……」
無いわけではない。
ただ、それが酷く甘えん坊で、ずるいお願いだったから、口にする気にはなれなかった。口にしてしまうと、何かが変わってしまいそうで。
「あるわよ、やって欲しい事」
「っ、そうか……」
「でも、今は言えないわ」
「……」
私がそう言うと、トレーナーは露骨に悲しそうな顔になる。……そういう顔が見たくて言ったわけじゃないんだから、本当はやめて欲しい。
「そうね……。じゃあ、私が大阪杯に勝ったら、何をやって欲しいか教えてあげるわ」
「……そういう形でもったいぶるものなの?」
「別にいいじゃない、今すぐに言わなくたって」
今すぐになんて、本当に言えないから。
トレーナーとの距離は、縮まっていたようで、心の距離は大して変わっていないのかもしれない。それが望まない結果だとしても、そうなってしまったのは、きっと私のせいだろう。
「……まあ、そうだけど」
「だから……期待してくれないかしら、私が大阪杯で勝つことを」
「……それは最初から期待してるけど?」
何を当たり前の事を、と言わんばかりの顔のトレーナー。……それでも隠しているつもり、なのだろうけど。
「知ってるわよ。……私の中山記念の着差が不安だとか、そのせいで色々言う人がいるのが怖いとか」
追い込みが決まりづらい事も。
そのくらいの事、私だって調べれば分かってしまう。
きっと、私への気遣いなのだろうけど。どうせなら、その不安も怖さも、全て打ち明けて欲しいと思ってしまう。代わりに抱えられる訳でもないのに、そう思ってしまう。
「……ばれてたか」
「当たり前でしょ? これでも、トレーナーと同じ道を進み始めて、三年目になるのよ?」
「そうだよな……」
でもそれは、ウマ娘とトレーナーという、ごく当たり前の関係での時間でしかない。三年目が終わって、そうしたら、私達は同じ道を進んでいるのだろうか、と不安になってしまう。
「大丈夫よ、私は負けないわ」
「……随分自信があるね」
「負ける気がしないもの。……トレーナーが……」
「……俺が?」
運転が乱れない程度に、トレーナーが私の方へ顔を向ける。続きを促そうとするその顔には、期待とも恐れとも言えない、そんな感情が揺れていた。
「……何でもないわ」
「……そうか」
今すぐ言えないのは、恥ずかしさではない。
きっと……恐れ、いえ、それ以外の何か故なのだろう。