臆病な私は、今ある日々が変わるのが怖いのだ。
だから、せめて、今ある日々が輝いていますように。
眩しすぎて忘れたくなるほど、輝いていますように。
四月一日日曜日。阪神競馬場。
地下バ道にも、観客席からの喧騒が聞こえる。スタンド全体が揺れているのが分かる。先週の中京競馬場にも引けを取らない、いや、それ以上の熱気を感じる。
「……緊張してるの?」
半年ぶりの勝負服姿のアヤべさんが、少し心配そうに声をかけてくる。
「そりゃ、するに決まってるでしょ。……アヤべさん、菊花賞以来のGI競走出走じゃん」
ファンの人達が大挙する一番の理由、それがアヤべさんだ。
前日の会見を思い返す。
好走が期待されるウマ娘達は、レースの前日に会見に出る事になっている。もちろん、そのうちの一人にアヤべさんも含まれていた。
出走予定のウマ娘達の中で、GI競走を制した――それも、ダービーウマ娘という称号を持つアヤべさんは、当然順番は最後である。というより、今回はGI競走を制したウマ娘がアヤべさん一人、という珍しいケースだった。
「――ありがとうございました。それでは最後にアドマイヤベガさん、お願いします」
メディアの後ろで俺が見守る中、アヤべさんがマイクを受け取る。容赦なく、アヤべさんをフラッシュが照らした。
凛としたその顔は、自信だけではない何かに満ちている。
「では、質問のある方は挙手をお願いします。――日刊スポーツの鈴木さん」
司会者に指された記者が、マイクの前に立つ。
「こんにちは、日刊スポーツの鈴木です。アドマイヤベガさんに質問です。今回の大阪杯出走にあたり、アドマイヤベガさんの意思ではなく水無月トレーナーが強行した、という話もありますが、実際のところはどうなのでしょうか」
噂を探るような、その嫌な声に目線。
「……野郎」
思わず声が出る。歯軋りしてしまう。
言いたい放題言いやがって、とは思うが、質問されているのはアヤべさんだ。俺は我慢しなくてはいけない。
アヤべさんの目が、ピクリと動いたのが分かった。しかし、アヤべさんは落ち着いた様子で口を開く。
「……私は、誰がそのように言ったのかは知りません。ですが今回の出走は、トレーナーの強行ではありません」
「そうでしたか。失礼しました。それではもう一つ質問させて頂きます」
「……どうぞ」
再び鈴木とやらが口を開く。
「大阪杯出走は、半年ぶりのGI競走出走になりますね。また、前走中山記念では、有利な展開ながら思わしくない着差だったように思われます。今回はどの様な理由で、大阪杯出走を決めたのでしょうか。差し支えなければお願いします」
すると、アヤべさんの顔が、『それを待っていた』と言わんばかりの顔になる。
「本当は……この後宣言しようと思っていた事ですが、この質問の答えを宣言に代えさせていただきます」
その言葉に、息を飲む音が聞こえ、カメラを構え直す音が響く。質問が終わり、脇で待っていたウマ娘達も、アヤべさんに目線を向ける。
「私はまだ走れる、という姿を見せに、このGI競走の舞台に来たのではありません」
一旦目を閉じ、息を整えた。
目を開き、言葉を紡ぐ。その声は、この場にいる誰もがの心に刺さる。
「――勝ちに来ました」
「……半年ぶり、ね。不思議なものだわ」
「え、不思議?」
その言葉に、思わず聞き返す。
「だって……もう一度この舞台に戻って来れるなんて、あの時の私は考えもしなかったのよ?」
「……」
衝撃の告白に、口が開いたままになる。あの時は『絶対に戻る』と言っていたが、まさか本当はそんな風に考えていたなんて。……気付いてやれなかったな。
「そんな顔しなくてもいいのよ。私だって……怖かったんだから」
「……だろうな」
そうこう話しているうちに、地下バ道に残るのは俺たち含め数名になっていた。そろそろ、俺もここから離れなくては。
「じゃあ、俺はスタンドに行くけど、何か確認したい事とかはあるか?」
「無いわよ、もう大丈夫」
「りょーかい」
何となく頭を撫でて、それから肩を叩く。
気が付いたら、地下バ道に残るのは、俺とアヤべさんだけになっていた。背を向けて、スタンドに続く階段に足をかける。
「――トレーナー」
「……?」
まさにその瞬間、アヤべさんが俺を呼び止めた。アヤべさんは、ターフに繋がる階段の一歩手前に、こちらを立っている。逆光になるせいで、シルエットだけはよく見えるが、表情を窺い知るのは難しい。
「……何となくよ」
「……そうか」
誤魔化すような沈黙の後に、そう言葉が続いた。不安故に、思わず呼び止めてしまったのだろう。
「じゃあ、今度こそ俺は」
「……あの時、私が言わなかった事、覚えているかしら?」
「あの時……? あ、あれか? 負ける気がしない、って理由」
『トレーナーが……』と言ったところで、アヤべさんの口が止まった。聞こうとしたのだが、『……何でもないわ』と言われて、それっきりになっていた。
「……今なら、言える気がするの」
「いや、無理に言えなんて思ってないし、時間が……」
「まだ間に合うわ。そうよ、今日は負ける気がしないもの。だって、トレーナーが……」
表情は分からない。
だけど、笑顔である事だけは、何故か分かっていた。
「――トレーナーが、そばにいてくれるもの」
「……ありがとう」
熱くなってしまった目尻や顔を誤魔化すように、足早に階段を上がった。
空は真っ青に澄み渡っているが、午前中は雨が降り続き、ターフからも水が引ききらなかった。アドマイヤベガ含め、足が地面を踏み抜く度、水が跳ねて靴や勝負服を濡らす。
そのせいで、発表されたバ場状態は『重』。でもそれは。
(私には望ましい、ってとこかしら)
彼女が集めたデータから考えれば、追い込みを戦術としてとるウマ娘が勝つには、重バ場である必要がある。天が味方してくれた、とでも言うのだろうか。そうだとしたら――
「皮肉な空、と言っても間違いじゃなさそうね……。星が輝くには……眩し過ぎるもの」
皮肉とも自嘲とも言えないその声は、小さかったせいで、歓声に搔き消され、誰にも聞こえる事はない。
幸か不幸か、アドマイヤベガは大外も大外の8枠16番。多少出遅れたところで、後ろに下がれば問題ない。
肌を撫でるのは、レース前特有のヒリついた空気。だがそれは、GII競走やGIII競走のものとは、全く違うレベルのものだ。大阪杯はシニア級から出走出来るGI競走で、クラシック競走と違い、現役の間であれば何度でも出走出来る。
そうは言っても、年に一度しか――それはGIIもGIIIも同じだが――行われないこの競走を、我が手中に、と思う娘が多くいるのは当然の事だろう。
次々とウマ娘達が、ゲートに入っていく。一人、また一人――収まっていく度、ファン達のボルテージが高まっていくのが、彼女達にも容易に伝わる。まあ、阪神競馬場芝2,000mのスタート位置は、スタンド前なのだから当たり前だ。
『さあ、16人全員がゲートイン完了です』
スッ……とスタンドが静けさに包まれる。
ガシャン――という音と共に、一気に興奮がスタンドに戻る。
『スタートしました――』
3枠と5枠のウマ娘がハナをきり、1枠の二人がそれを追随する。残りのウマ娘達が、濡れた坂に手間取り、ゴチャつきながら中段グループを形成。最後尾のグループ、構成するのは出遅れた三人と。
(こんな所かしらね)
意図的に遅れたアドマイヤベガ。後ろから二人目を選び、追走する。
第1コーナーに入り、ペースとポジション争いが落ち着く。跳ねた泥や芝が勝負服や顔に飛び散るが、誰の足も遅くはならない。
やがて第2コーナーをぬけ、向正面。フルゲート故、直線で列が少し長くなり、いくつかのバ群が形成された。特に問題も無く、普通に展開している。もし何か、普通になっていないものを挙げろ、と言うのならば。
(先頭が、スローペースにしようとしている……。それにしたって、遅い)
アドマイヤベガ対策のスローペースか、重バ場ならではのスローペースか、一体どちらなのだろう。多くのウマ娘が、タイムの把握に苦しむ。理解しているのは、恐らく先頭の娘だけだろう。
過去には、菊花賞で一周目のホームストレッチで掲示板の時計を見て、先頭のペースを把握して最後の直線で差して制した――というウマ娘がいた。だが、阪神芝2,000mは、内回り一周でレースが終わる。つまり、先頭のペースが分かったところで、それはレースの終わりという事になる。
どちらにしても、彼女には関係無い。今まで積んできたトレーニングのおかげで、おおよそのタイムが予測できる。
(前半1,000mが……63秒くらい、みたいね)
追い込みを決めるには、決して悪くないペースだ。アドマイヤベガの心に、多少の余裕が生まれる。
春風を切る。跳ねた水が、陽光に照らされ輝く。蹄鉄が土を踏む音が響き、その背中が躍動する。
「……ふふっ」
思わず、アドマイヤベガの顔に笑みが零れる。目の前のウマ娘が、おかしなものを見る目線をチラリと送ってくるが、気にもならない。
先頭がスローペースのまま、第3コーナーに差し掛かる。一気に、バ群が動き始めた。少しづつ、しかし着実に先頭に詰め寄ろうと、さらに加速していく。そして――
(そろそろ……ね!)
「「「……ッ!」」」
多少の距離のロスは承知の上で、アドマイヤベガはバ群の外に向かって加速し始める。周りの娘が、その動きに反応し脚を伸ばす。ここまで脚を貯めてきたので、無理なくバ群の外につけられた。
第4コーナーに入るにつれ、全体の差が小さくなり、バ群がまとまり始める。ここからは、数瞬の判断の遅れも許されない。一歩でも仕掛けが遅れれば、バ群の内に閉じ込められたままになってしまいかねない。
(外に出した。……道は――)
第4コーナーを、一塊になったバ群が通過しようとする。
次の一歩を探そうとする、アドマイヤベガの、その視界が。
(……アドレナリン、ね)
一気にスローモーションになる。自分の足音が、鼓動が、やけに大きく聞こえる。そしてバ群の外、差程傷んでいないバ場が見える。
見えた。
「そこっ……――!」
一気に前と差を詰めようと、足を踏み降ろそうとする。
(全て、差し切って勝つ――……)
――誰の為に?
心の内に、声が反芻する。
「……――ッ?!」
踏み降ろすはずの一歩が、数瞬遅れる。だが、踏み出そうとした脚は止まらない。右脚が大地を踏み抜き、ターフが爆ぜる。その遅れは致命的なものにはならず、その姿は更に駆ける。
視界が、スローで流れたままになる。
(誰の、為に……?)
心の声につられ、口だけ動かしてその言葉を重ねる。
ゆっくりと景色が流れていても、自分が一気に加速したのは間違いない。一人、また一人と大外から抜き去る。驚愕に包まれる顔が、視界の端に映る。
あの娘の為に、日本ダービーを勝った。ダービーの栄光を掴むことが、何よりあの娘の為になると思っていたから、信じていたから。
最後のハロン棒を通り過ぎた。
そうだと言うのなら、ダービーの後は、もう走る理由など無いはずだ。それなのに、菊花賞を走り、そしてここに帰って来た。理由なんて、無いはずなのに。
ならば、勝った後でも走る私は――
(……あれは、トレーナー)
ウィナーズサークルの近くで、両手を顔に当てて叫んでいるのが見えた。人目も憚らずに、涙目になりながら。
そんなの、見せられたら。
「私だって――!」
一完歩、二完歩――もっと、もっと!
強く踏み抜いた足が、大地を弾ませる。ターフの上で躍動する。
(ああ、そうか――そういうことなの……)
ゴール板が迫る。後ろから聞こえる足音は、もう十分に突き放したことを伝えていた。
気が付いた。その理由に。間違いない。
そして彼女は、もう一つ気がつく。分からなかったんじゃない、分からないフリをしていたのだと。
(私が走るのは――――」
声が出るその瞬間、身体はゴール板を通り過ぎた。
歓声に塗りつぶされたその声は、誰にも、彼女自身にも、届かなかった。
声が届かなくとも、右手を空に突き上げた。答えるべき人など、決まりきっていたから。
『あの日、府中で輝いた一等星は、消えてしまったのか――そう思う日もありました。ですが今、ここ仁川の舞台で、再び一等星は輝きます!』
『勝ったのは、アドマイヤベガ――!!』
熱気冷めやらぬスタンド。
その目の前には、ウィナーズサークルが設けられている。そこで待つのは、大勢のメディア、そしてトレーナーだ。
「……言ったでしょ、トレーナー。私は勝ちに来たって」
「ああ、言ってたな……」
嬉しさ故か、トレーナーは泣いていた。そのせいで、言葉が続かないようだ。アドマイヤベガは、良かった、とその姿を見て思う。
だけど、まだ、言ってないことがある。
「やって欲しい事……言ってもいいかしら?」
「いいよ……。何でも言ってくれ……」
ならば、遠慮なく言ってしまおう。全国に電波が乗るなんて、そんなこと気にしても仕方がない。
アドマイヤベガコールが響く中、水無月に少し近付く。
そして、アドマイヤベガは、両手を広げた。
「……えっと?」
「その……先週のカレンチャンみたいに、あの……そう、やって欲しいの」
「……お、おぅ?」
何でも言ってくれ、なんて啖呵を切った割には、困っている様子の水無月。彼女からすれば、その姿がおかしくて、でもいつも通りの姿なような気がして。思わず、笑ってしまう。
「何でも言ってくれ、って全国に流れちまったろうし……分かったよ」
そう言うと、水無月はアドマイヤベガを抱き締める。冷えてしまった彼女の身体に、温もりが伝わる。抱き締め返しながら、彼女は。
「私……あの娘の為だけじゃない、走る理由が分かった……」
「……」
「それは、……トレーナー、貴方の為よ」
「…………」
返事は無い。ただ、抱き締める力が、少し強くなる。
「ねぇ、トレーナー……。私は……貴方の心の中に輝く、一等星になれた?」
「……っ、当たり前だろ!」
そう言われた瞬間、彼女の視界が歪む。顔が熱い。
堪えていたのは、悔しさか、焦りか、それとも絶望なのか。
水無月の一言に、堰を切ったように感情が溢れ出す。
止まらない涙。しかしそこには、悲しみなどは溶け込んでいなかった。
実在するスポーツ新聞の名前が出ますが、そのスポーツ新聞を誹謗中傷する意図はありません。自分で名前を考えようとしたのですが、どうしても実在する名前しか考えられず、この様な事になった次第です
という訳で、第4話。完全にアドマイヤベガ編。完全にタイトル詐欺ですねこれは。まあ、主人公はアヤべさんのトレーナーなんで、どうしてもこうなってしまうんですよ。