初めまして。カレンデュラ。
……日常。
ありふれた、いつも通りの毎日。
いつものように、目が覚めて、歯を磨いたり、朝ごはんを食べたり、着がえたりする日々。
動くときは一生懸命に動き、休むときはとことん休む、一種のルーティーン。
当たり前につづく、ありふれた、いつも通りの毎日。
すなわち、かけがえのない、大切な思い出のかたまり。ふとした拍子に壊れてしまいそうな──。
……どこかで、救急車のサイレンがけたたましく鳴り響いている。
「おい! 大丈夫か?! さっきのデカい音!」
「ちょっと! どうしたのよこれ!」
ちょうど、月が沈みかけてきた頃、ある田舎の一本道は大騒ぎとなっていた。そこには、アスファルトの一本道が、その路傍には等間隔に立てられた街灯がある。辺りには、老若男女、さまざまな人たちが、ガヤガヤと動揺混じりにひしめき合っている。
その騒ぎの中心にある話題は、ある一つの軽自動車であった。その自動車を取り囲むように、群衆は集まっていた。
その車は一本道脇に佇む一本の街灯と、その道とほぼ平行な方向から激突していた。街灯は衝突部分あたりからポッキリと折れて、車へ思い切り倒れ込んでいた。そして肝心の車は、見るに耐えない有り様であった。
──鮮血のように真っ赤なボディ──
──上から折れた街灯を叩きつけられたせいで歪み、盛大にひしゃげている屋根、確かルーフと言ったか──
──無残に潰れたルーフと同様に、粉々に砕けちったフロントガラス──
──運転席と助手席に散らかった、砂のようなその破片──
斯様な惨状が、騒ぎを聞きつけた人々に囲まれていた。しかし、騒ぎはこの車両単体だけが原因ではなかった……。
「──誰か救急車と警察を呼んでくれ! 子どもが一人撥ねられたんだ!」
「……はい。事故が起きました。場所は東北市東三丁目五番地の道路です……。『コナラ』というレストランを出てすぐ右に曲がって直進したところにいます……」
車は幼子を一人撥ねてしまっていた。子どもは、車の進行方向から見て、激突した街灯よりも奥側。撥ね飛ばされて、そこに倒れ付していた。
「ヤバイよ! 車のお兄さん、頭から血が……!」
「子どもも全身がアザだらけだ……こりゃひでえ」
何とも痛々しい、悲劇の事故現場。
しかし、その中にたった一つ、普通なら存在しえないものがそこにはあった。
「──あれ、何かあるな……」
ある男が偶然にもその異質な物体を見つけた。それは細長い棒状をしており、その片方の先端には赤い逆三角形が貼り付けられていた。材質は、砂やら絵の具やらで汚れたダンボール。まるで不器用な子どもの工作のように、いびつな形をしていた。
「……これ、どっから来たんだ……?」
男はその物品を拾って、こう呟いた。ただ、その答えは、現場にできた人だかりの誰にも解明できなかった……。
「──明日はどんな日になるかな、フンフーン──」
──ある夏の夜のこと。たった一人の少女が、町中を鼻歌まじりに練り歩いていた。
辺りの人家にはもはや明かりすら灯っていない。
ただ街灯という名のスポットライトが、黄色いレンガで敷き詰められた、歩道というステージの上を照らし、細い木々が行儀よく間隔を開けて、その童女を高みの見物で見守っている。
細い木々は、その頼りない幹とは裏腹に、猛々しく濃い緑色の葉をこれでもかと生やして、キザな髪をこれでもかと見せつけてくる。
スポットライトの下で照らされている彼女の頭上は、紺碧の海を模したドームで囲まれており、その大海原にぽつんと一隻、白い半月型の舟が浮かんでいる。
辺りの音源は彼女の歩みと鼻歌による、小気味よくあるがリズムの無い音色、それ以外何も存在していない。きっとここで、「世界にたった一人しかいなくなった」と言われたとしても、違和感など一切ないだろう。
彼女の名は
ふんわりとした、肩までかかりそうなベージュの髪を、軽やかな足取りとともに元気に跳ね上げさせる彼女は一人、明日の空を見上げていた。
今年の春、大学生として新たな人生のスタートを切った彼女は、駅を出て、大学からの帰り道を歩いている。
キャンバスは彼女の家からは程遠い。最寄り駅からは十何駅も先にあり、その間にも二回ほど乗り換えをする必要があったため、通学に時間がかかる。
「明日の予定は確か、勉強にバイトに──」
彼女の心の中には、恐らく雲一つない青空が広がっているのだろう。現在とはどうしても似ても似つかない空が。
そして彼女は、軽やかな足取りで、レンガと自らの靴とをなんども擦りつづけている。そのさまは、今現在が晴天の空の下であればとても似合っていた。
……歩くうちに夜も深まり、街灯すらもまばらになった町はずれの道路を結衣はすたすたと歩いていた。あたかも、さっきまでのきらびやかなステージが夢だったみたいに。
それもそうだ。並のアイドルだって誰も注目していないステージで踊れやしない。いわんや、ただの一般人が一人、暗がりの下ではしゃぐことができるだろうか。あのときは、まだ明るかったのだ。
さて、彼女の家へ帰るまで、あとはもう最後の交差点のみ。その横断歩道を一つ渡れば、あとはもう道なりに進むだけだ。
らんらんとした、きれいなヒスイの宝石のような瞳で、注意深く左右を見渡す。そして、スラッとした色白な足を二、三歩ほど前に出した。
──瞬間、足音とは違う、不可解で奇妙な音が鳴った。
異常なほどに唸るように聞こえるエンジン特有の重低音。夜中にしては非常識なほどの爆音が、突如身体にしみ込んでくる。
やがてその音は段々と回転数を上げ、音高が少しずつ高くなっていく。しまいには、きっとF−1でも聞かないであろう異音へと昇華していった。
静かな深夜に、その怪音が耳をつんざく。すぐにでも耳をふさぎたくなる、まるで黒板を爪で引っ掻いたときのような不快感を、その音は孕んでいた。
しかしその音は、いつの間にか止んだ。最後に一つ、断末魔のようなかん高い悲鳴を鳴り響かせて止んだ。
最期の音を形容するならば、ゴムのタイヤがアスファルトに吸い付きながら金切り声を上げている音と言えよう。どうあがいても、車が急ブレーキをした。そうとしか思えない残響であった。
思わず、結衣は足を止めた。
「怖いなあ……こんな夜中に……。暴走族、ってヤツかな……」
奇妙な音と共に起きたあっという間の出来事に、引きつった声色で応えるように発する。
それはまさに、対岸の火事としか思っていない人間の発言であった。
段々と、その火の手がこっちに近付いて来ていることに気づかないまま──。
──彼女はまたすぐさま黙り込んで立ち止まり、今度は足音すらない静寂が辺りを包んだ。
それと同時に、白い霧が彼女の周りに立ち込めた。
それと同時に、黒い闇は視界の中から消え去った。
辺りには、静けさと、濃霧が凝縮していた。
「……! 急にまた……どうしたんだろう、今日は……?」
そう息を呑み、殺す。
辺りからどこからともなく熊やら蛇やらが飛び上がってきそうな錯覚がするほど、霧は深い。
不安げに周囲を見渡す彼女は、道路の一車線の先にふと目を留めた。
しかし、彼女はなぜかその一点から目を離さない。まるで、定点カメラのように視線を固定していた。
辺りは依然として静寂のまま。気が付けば空の舟は一馬身ほど別の場所に移動していた。
もう大学生が家に帰る時間としてはかなり遅れていた。早く帰らなければ明日の講義にも支障を来すのは確実だ。それでもなお、彼女は震えて、足を動かせなかった。
気が付けば喉も乾いていたのだろう。結衣はふと、口の中に増えていた唾をのみこんだ。その最中も、ずっとその一点だけに釘付けになっていた。
──その時だった。白い煙のような霧の中に一つ、赤黒く、異質な何者かの姿が、結衣の凝視する先に見え始めたのは。
霧が突然その何者かに集まり始める。
集まって、集まっていくほど、その姿はよりグロテスクな暗い赤色を濃くしていく。
静脈血のようにくすんだ紅が、傷口に被せた白いハンカチーフに染みだす血液のように、純白の霧の中から浮かび上がってくる。
──現実味のない出来事であった。
赤いソイツは、決してヒトなどではなかった。
ソレは、生物とは程遠い無機物。
ソレは、クラゲのようにただ考えなしに存在し続ける無生物。
そして、所有者の思うままに操られる鋼鉄の箱。先程のタイヤの擦れる音の正体も、恐らくこの赤黒い巨体の仕業であろう。
……いつの間にか、聞き覚えのある異常な重低音が、腹と共振するかのように空気を揺らす。
「えっ……?」
思わず彼女は呆然とする。無理もない。文字通り、謎の車が突然現われたのだ。それも先程の音からして、タイヤが駄目になったとしか考えられない車が。
声も上げずただ突っ立っている彼女とは裏腹に、その車はこちらに向かってタイヤをフル稼働させた。一直線にこちらに向かってくる。横断歩道に少しだけ全身が出ていた彼女めがけて。ただまっすぐに。
「……あ、あぁ……! 」
彼女は声にもならない悲鳴をもらした。
よくよく見れば、彼女の耳に聞こえてきたあのエンジン音の原因だとでも主張するかのように、その車体は上からペシャンコになっていた。その赤黒い外見が、本当に血液をペイントしたかのように見えてしまう。さらに、目を凝らすと、中にはヒトが乗っている形跡が微塵もなかった。
あの車は人が乗っていないし、異常な速度でこちらに向かってくるし、自分に明確な殺意を持っているかのように直進する。あれは、普通の車両ではない。
「戻らなきゃ……!」
恐怖で顔を蒼くして、彼女は精一杯の力を振り絞って思うように動かない足を使って後ずさる。幸い、謎の物体は車道を走っている。歩道まで戻れば、もしかしたらそのまま、まっすぐに過ぎ去ってくれるかもしれない。その希望だけを胸に、彼女は後ずさる。息も絶え絶え後ずさる。
しかし、その希望を、運命が相手はただの車ではないから諦めろとあざ笑うかのごとく、結衣は何らかの凹凸に踵が引っかかり、成すすべもなく尻もちをついた。
彼女にとっては予想外の出来事だったようで、自らが座っているのはアスファルトかそれとも歩道のタイルのどちらか、判別できずに呆然とした表情をしていた。人は予想外のことに弱く、あっという間に彼女は思考を停止させた。
それでも、車両は停まらない。再び、エンジン音がその周波数を上げ、もはや重低音とは呼べないほどかん高いモーター音へと変貌をとげた。
残り、100m、90m、75m、50m──
スピードはまだまだヒートアップする。正面から衝突すれば、きっと身体全体が潰れて、彼女の美形はもはや影も形もなくなった無残なモノになり果てるだろう。
「──ッ!」
──ようやく彼女は目が覚めた。瞬間、ある事実に背すじを凍らした。まだ、自分の身体がアスファルトの上にいることに。そして図らずも、息を呑んでいた。
過度に呼吸をしながら、腰が抜けて立つことすらままならない脚を渾身の腕力で身体ごと後ろに運ぶことで引きずる。
その間にも、車は動き続ける。
もう腕が動かなくなるまで、彼女は後ずさった。呼吸は浅く、手のひらには砂利とともに、アスファルトを長い間押してきたことによる引っ込み跡がくっきりと残っていた。体力的に、時間的に、もう限界であった。
「はっ……はぁ……はぁ……っ!」
ふと横を見やると、車はもう彼女の元まで、あと六尺もなかった。絶望半分、恐怖心半分に、彼女は目をつむった。
──もう、ダメだ──
そう、諦めを示すように、涙がこぼれていた。
……目の前を、轟音を立てて突風が横から殴ってきた。その風圧に思わず横に倒れ、痛みでより目を閉じる力を強くした。すると、どこかからチッ、と舌打ちをする音が微かに聞こえた。奇妙なことに、その音はたった一瞬の時間で段々と音高を低くしていった。
無限の時間が過ぎたような感覚──途方もない時間が過ぎたように感じて、ふと重い瞼をあける。視界はぼやけてはいたが、地面の色は黄色く、黒いアスファルトの上から彼女は生還できたことを実感した。
ふと、自分がタイルの上にぽつんと寝そべっていることに気づき、結衣は恥じて、やおら無意識に横になった体を起こし、もう一度地面に尻をつけた。そのうち、瞳孔が光に慣れて視界が明瞭になったので、辺りを何度も見渡していたが、彼女の視界には何も映っていなかった。
濃霧も、白い車も、唸る低音も、ましてやタイヤ痕までもが、あたかも雪が溶けたかのように、跡形もなくなっていた。
耳には、さっきまでは聞こえなかったはずのセミたちの大合唱が、うんざりするほどに鳴り響いていた。
辺りにはさっきまでの白い霧も、車もその痕跡すら何もなく、ただ一人、座ったまま動かない少女がいるだけだった。安心なんてなかった夜道で、たった一人、動けずにいた。
思わず、彼女は繰り返し首を動かし、瞳を動かして周囲の光景を見渡す。けれども結果は同様に、どこにも異常はなかった。コレは夢か、はたまた現実か。夢から醒めてしまったときのように、さっきまでの自分の境遇との差異に、呆然と思考が微睡んでしまう。
それでも、意識だけはある。そのことだけが、彼女を安堵させた。
夏の熱帯夜は、本当に湿気で嫌になる。気が付けば彼女は汗だくだったことに気づき、とたんに気分が悪くなった。その汗が恐ろしさによるものか、夏の夜のジメジメとした気温によるものか、はたまたその両方か、彼女は知りたくもなかった。どうであれ、彼女にとっては、この気候のせいにした方が幸せだろう。
ホッとして、又は憂うつになって、結衣は息を吐く。
すると、どこかから複数の人間の走る音が聞こえてきた。
「音がしたのはこっちやんな!」
「ちょっと……! 大声出さないでよ、今、真夜中なんだから……!」
「まあまぁ、いいじゃないですか。どうせこんな変な男の声なんて誰も興味ないでしょうし……そうでしょう?」
「エッ、ちょいまってください。何か当たり強ないっすか?」
「気のせいですよ。ね?」
「ふたりともよそ見しないで!」
──それが、カレンデュラ。通称、変異体処理部隊と、結衣との最初の邂逅であった。
初めまして。
ああtestsetああでございます。
はじめに、本作をお読み下さり、本当にありがとうございます。
まだまだ新参者なうえ、執筆に関しては完全なる初心者ですので、アドバイス、誤字等ございましたら、遠慮なくご指摘お願いします!
それでは。
[追記]
1話の長さが少なく感じたので、編集で後から続きを挿入しました。