昇天祭当日の早朝、メルクリウスに来訪して早四日目。朝の五時半にセットされた目覚まし時計を止め目を擦りながら起床した。
三日連続の寝袋生活も慣れたものだ。千秋の実家を間借りしていた時の煎餅布団と比べれば、行軍用の寝袋は快適だった。
ヌーベル邸の寝室は大層な広さであったが、クイーンサイズのバカでかいベッドが一つ鎮座しており、初日はこのベッドで床に就いたのだがシスターに千秋諸共追い落とされた。
千秋の奴が信じられない程に寝相が悪く寝付けなかったらしい。シスターの奴はあたしまで千秋と同じくあたしまで寝相が悪いとのたまいやがった。失礼な奴め。千秋はともかく、あたしがそんな行儀の悪い寝相を扱いているわけ無いだろう。
三日目の探索は結局あたしとレミエの二人で担当した。ついでにシスターの指示により東部の高壁の警備に潜らせてもらった。なにやらシスターには仕込みと細工があるらしい。
千秋はCHARMの最終調整。一日もあれば慣れない射撃型のCHARMの整備もつつがなく終えられたらしく、
「警備の最終確認だ。いいな」
神妙な顔をしてフォカッチャにかじり付いているアンナマリアと千秋が頷いた。
「千秋はメルクリウスの警備本部で待機して各種
「
「
二日間の探索によって得られた知見はそれなりに大きい。
まず、アンナマリアによる狙撃箇所の逆算は結果的には失敗ではあった。メルクリウスの城塞都市内は環境要件が多すぎるらしい。複雑に開発された都市内の路地を吹き抜ける風の方向を予め予期するのはとてもでは無いが不可能に等しい。それに加え、入り組んだ路地から風が吹き上がる位置は常に不定であり、東部は海岸で西部を山岳地帯に囲まれた城塞都市吹き付ける海風と頻繁に急転する天候のせいで、狙撃を敢行するには適さない条件が多いとのことだ。だが、それはシスターと敵の狙撃手の両陣に対して平等に不利に働く。一見試射まで済ませている敵側の方が有利ではあるが、狙撃の成功率に関してはぶっつけ本番となる。依然狙撃場所の特定が出来ないこちら側が不利であることに変わりは無いが、あくまでも狙撃の腕比べという点では互角に等しい。後は敵が枢機卿を撃ち殺すのが先か、シスターが敵を撃ち殺す
狙撃の逆算は失敗したが、結局のところ狙撃を敢行するには見晴らしのいい場所であり、高所からの狙撃を行うのが
まさかヌーベル邸がシスターの待機場所になるとは思っていなかった。
邸宅の無駄に手の込んだ建築構造のおかげで背の高い屋根の屋上は見晴らしがよく、校舎前の広場とメルクリウスの殆どの地域が一望できる。
仮にヌーベル邸より高い建物は殆どが学営の施設であり、警備は万全で不審者が入り込む余地は無い。それに加えて、シスターの『仕込み』とやらにここは都合がいいらしい。
「私は例によって司令部待機ね!最新情報の伝達は任せておいて!」
当たり前だが、非戦闘員の千秋を前線に出す余裕は無い。南房総のド田舎にいた頃はともかくだが、少なくともCHARMを扱えない奴には安全な裏方に専念してもらう。
警備情報が一転に集積される警備本部から適時情報を流してくれる専門のオペレーターがいるだけ格段にあたし達は動きやすくなる。
そして、あたしは例によってある意味最前線の後壁警備だ。自称聖帝に注進して外壁上の警備部隊に紛れて狙撃手を見つけるのが仕事だ。いくら高所で見晴らしがいいと言っても身を隠す場所が皆無といってもいい後壁から狙撃を敢行するとは考えづらいが、警備をする側としては好条件だ。欲を言えばあたしも天の秤目が使えたら良かったのだが、今回は肉眼と双眼鏡で取り繕うしかない。
前回の任務の様に不測の事態が起こることは当然予測される。前回のような辺ぴな場所での作戦では無く、今回に関しては高壁内外にはリリィはともかく一般の観光客数万人以上が集まる。少なくとも事前情報からして大規模な爆発物を使われることは無いだろうが、少なからず人命に関わるような事もあるだろう。理事長のババアはああ言っていたが、ムラマサに仕込まれた
玄関のドアに取り付けられているドアノッカーが音を鳴らした。おそらくパツキン達が迎えに来たのだろう。
「よし、行くぞ」
手早く朝食を片付け、二人のリリィがCHARMを背負い、千秋は愛用のパソコンと工具が入った背負い袋を肩にかけた
少なくとも万全は尽しているだ。シスターの言う通り、後は仕上げを仕上げを御覧じろとしか言いようがない。一末の不安を胸に抱えあたし達は玄関へと向かった。
「おはようございます!アシノ配管サービスです。ご用命頂きありがとうございます!本日はよろしくお願いいたします!」
玄関の扉を開けて待っていたのは、筋肉隆々のいかつい作業着のオッサン達二人組であった。
無駄に元気よく大きな声に朝っぱらから耳がキンキンと痛んだ。
「あら、おはようございます。本日はよろしくお願いいたしますね」
大声にも怯まずに微笑を浮かべ、シスターは配管工達を邸宅に招き入れた。このオッサン達が先日シスターが手配していた水道業者らしい。
「ではお二人とも。手筈通りのご健闘をお願いしますわ。では、ごきげんよう」
扉が閉まり取り残されたのはあたしと千秋。あたしと千秋は自称聖帝達が迎えに来る手筈となっている。
「今回の任務の要があのオッサン達とはねぇ」
「まぁ、シスターさんが大丈夫っていうなら大丈夫なんじゃない?私も銃のことに関しては足にも及ばないし」
そう、今すれ違ったオッサン達がシスターの言う所の細工なのだそうだ。
つまり枢機卿の命は欧州最高峰の狙撃手と横須賀の配管工のオッサン達二人の背にのしかかっている。もっともオッサン達は知る由も無いだろうが。
鉄柵の門扉の隙間から黒と金の神がゆらりと見え、鉄柵の蝶番が重々しい音を立てた。待ち人が来たようだ。
「今度こそ行くぞ」
「うん」
静かに千秋が頷いてあたしを追う。
それはまるで百合ヶ丘に来る以前のようで、どこか懐かしかった。
観光客がひしめく街路の建物を足場に、高壁の東の正門へと向かう。
微かに潮を吹くんだ風切り宙を駆けるのは新鮮で気持ちが良かった。約二日間の探索のおかげで学園都市の地図はだいたい覚えている。
眼下では太い路地も細い路地も観光客の影で埋まり舗装が見える箇所が殆どない。能天気な物だ。このおびただしい暇人の群れは何故に中年の童貞なんぞの説法をわざわざありがたがって聞きに来るのだろうか。
シスターの奴に言ったら暫く口を利いて貰えないだろうから口には出さなかったのだが、枢機卿やら法王なんぞに興味は無かった。宗教って奴で肝心なのは、結局のところ拝む神様とその教えだろう。それにたかる蛆虫のようなクズ達の命をありがたがる神経はあたしには無かった。
少なくともシスターの奴を自分たちの悪評逃れのために切り捨てたような奴らをまともに守ってやりたいとはあたしの個人の感情としては思えないのだ。
結局のところ、今回の任務で乗り気なのはシスターの奴だけで、あたしはシスターの名誉と友情の為に付き合っているに過ぎないのだ。千秋の奴は理事長との会合の際にもっともらしい事を言っていたが、あいつの性格上あたしがいるから着いて来ているだけのような節がある。
「ちょっと、飛ばし過ぎよ!」
いい気持ちで風を切っているのに無粋な奴だ。あたしの数メートル後方に追随するのはすっかり顔なじみとなったレミエと、そのお友達で委員長肌のルルなんとかって奴。
別に組ませてくれと頼みこんでいたわけでは無いが、自称聖帝が気を利かせてくれたのか。今日は顔なじみと組ませてくれたようだった。
「あなたはゼノンパラドキサのおかげでスイスイとバランスが取れるんでしょうけど、あたし達はそうは行かないのよ!」
「だったらもう少し早めに言ってくれよ。自分たちの足が遅いってさ」
民家の屋根に生えた細い煙突につかまり急ブレーキをかけた。
「何か嫌な事でもあったの?随分と急いでいるように見えたけど」
「……別にそんなことはねぇよ」
態度に出していたつもりはないのだが、どうにもパツキンのほうと違ってこの青髪はそれなりに人間観察が上手なようだ。
「もし任務に不満があるようだったら話してごらんなさい。あなたが急いでくれたおかげでまだ配置に着くには時間があるから」
皮肉かコイツ。
「……あたしは年寄りのジジイ一人を見物するためにこんなにも人を集めて、わざわざ人員を裂いて警備をしなきゃいけないのかが分からねぇってだけだ。安心しろよ。あたしは仕事の手は抜かない主義だからな」
「そう言わないの。私達キリスト教徒にとっては偉大な方なのよ。欧州の前線に訪れて現地のリリィ達への慰問のスピーチをしたり、枢機卿の任についてからも率先して自ら陥落地帯付近への炊き出しを行うような徳の高い御方なのよ」
「それがどうしたんだよ」
シスターの奴も同じようなことは言ってはいたが、どれだけ徳が高いことを説明されようがあたしにはピンとは来なかった。
ありがたい説法でヒュージは殺せないし、炊き出しをわざわざそのおっさんがやる必要も無い。そもそも炊き出し等の行事はガーデンが主体となって行うのが近年の通例だ。
「戦いに疲れたリリィは枢機卿の言葉に勇気づけられるし、ヒュージの脅威に覚える人々は自ら率先して前線に立つ姿に救われるわ。あなたが思っているよりもトゥアン枢機卿は偉大な方なのよ」
「偉大かどうかテメェが決めることじゃねぇ。肩書だけまともな奴なんざいくらでもいる」
「……それは、あなたがそれだけ強い人だからそう言えるのよ。それが言えない人はごまんといるわ」
気に入らない。
あたしもそれなりに苦労はしてきたが、G.E.H.E.N.A絡みの件があっただけで、今のご時世にはあたしよりも不幸な境遇の奴なんてリリィも一般人にも数えきれないほどにいるんだ。そいつらにありがたい御言葉とやらをかけて何になるんだってんだ。斜に構えている自覚はあるが、それを世間に押し付けるつもりはないが。
肩をすくめて無言で再び高壁へ向かって駆けだした。
今は後ろに続く、二人に卑屈極まりない自分の顔を見られたくはなかった。
ところ変わって聖メルクリウスインターナショナル警備統括部
大規模のヒュージネストが複数回発生している東京湾に面している横須賀一帯の防衛を担うメルクリウスの警備施設は百合ヶ丘と違い非常に物々しい。壁面に大量に設置されたモニター次々と監視カメラの画像が切り替わり、忙しなくリリィと警備の担当者たちが広い部屋を歩き回っている。
「どうしたチアキ。落ち着かないか」
部屋の中心部のデスクに足を組み腰かけているティシアは尊大に千秋を気遣った。もしくは、メルクリウスの守備範囲の広さを誇って故かもしれない。
「いやぁ、都会は人が多いねぇ。外も観光客さん達がいっぱいいるし、ここもリリィがいっぱいいるし、うちの地元なんて小さい頃は殆ど限界集落みたいだったからやっぱりこういうのは新鮮だよ」
「ハッハッハッ!そうだろうそうだろう。名声こそ百合ヶ丘には劣るかもしれないが、ガーデンの規模と航空戦力は百合ヶ丘にも勝っているからな!」
そう。外征を主体として全国区で活動するガーデンは数少なく、その中でも長距離外征用の飛行艇を多く保有し、純粋な活動の規模で言えば百合ヶ丘を優に超えているのだ。それを誇るのも無理はない。特に千秋は生え抜きでは無く、本来は外様の人間だ。そこにわざわざ自ガーデンの自慢をするのは大人げないというか、名声好きのようだ。
警備室のインカムの取り手時間が経つにつれて次々に増え、人声のノイズと雑踏のおかげで室内であるのに、千秋にとっては未だ知らぬ都会の雑踏のように感じられた。
そろそろ時間も正午に差し掛かる。
モニターに映る景色は生憎の曇天で、まるで異国の聖人をこの地が歓迎しないかのようである。
今回の復活祭のメインイベントである枢機卿の慰問スピーチにはまだ時間はあるが、千秋はどうも居心地の悪さを感じていった。
「こちら千秋。いおりんとシスターさんはもう配置に着いた?」
小声で膝に乗せたノートパソコンのマイクに小声で囁きかけると、数秒を置いて耳に掛けたインカムに二人の声が聞こえた。
「あいよ。こちら
「こちら
二人とも自身の持ち場には到着しているようだ。
千秋が知る限り二人はリリィがいかに多かろうとも、間違いなく上位に数えられるリリィだ。特に衣緒里の戦いぶりを千秋は一年前からずっと傍で見守って来たのだ。その実力は肌で知っている。その衣緒里が背中を任せられる実力者であるアンナマリアを千秋が信じないのは、衣緒里の実力を疑うのと同義なのだ。少なくとも千秋はそう考えていた。
「せーてーさん、二人とも展開完了したって」
「わかった。余の期待以上の働きを期待しておこうか。何分急な警備人員の配置換えだったのでな」
「いや、それは~。……まぁ本当にごめんなさい」
ティシアがふと立ち上がり、千秋の前に立つと腰を屈めて顔を鼻と鼻がぶつかるほどに半身を突き出した。優しい紅茶と砂糖の香りが千秋の鼻腔をくすぐる。
「な、なにかな」
「一応ここではっきりとしておこうと思ってな。どうせあの二人に聞いたところで煙に巻かれる。だからこそ、あえてそなたに聞こう。そなた達のがメルクリウスに来たのは枢機卿を害そうとする不届き者共を排除するためだな?」
「あ、え~と。それはちょっと私の口からは言えないかな~って。あ、あはは」
はぐらかすつもりで笑っている千秋は、にこりともしていないティシアの何の表情も読み取れない顔に気付き尻すぼみとなりやがて静かに黙り込んだ。
してやられた。という事だ。リリィの二人であれば意地でも口を割らなかっただろうが、千秋の一人の時を狙えば意思の弱そうなこのアーセナルの口を割らせることが出来ると考えたのだ。
「別に余らはそなたらを非道極まりないG.E.H.E.N.Aの外道共と疑っているわけでは無いのだ。むしろ、同盟校としてそなたらの助けになりたいのだ。ただ、知るべきことを知らなければメルクリウスの総力をもってそなたらを助くることは出来ぬ」
そう、この自称聖帝はただただ善人であったのだ。メルクリウスの暗部を担い、外道と戦う外道でありながらただただ友誼を育んだものに報いたいと考える。だからこそ、ティシアは知らなければならないのだ。百合ヶ丘から来た新しい友たちに課された使命を。
日頃の騒がしさは鳴りを潜め、柄にも無く静かに千秋は口を開いた。
「それはきっと本来それが道理なんだと思う。でも、だからこそ私の口からは言えないよ」
「過ごした時だけが友愛を育む手段とは思わぬ。余はそなたらと出会い間もない。だが、確かに先日の邂逅の最中に余はそなたらとの友愛を感じたつもりだ。それでも駄目なのか」
「……じゃあ友達だからこそ、かな。」
千秋が静かにノートパソコンの画面を閉じた。青い光に照らされていない千秋の顔はよくよく見ると、生命力溢れるリリィと違い若々しい貼りが少なく、同顔である筈の彼女は少し老けたような印象であった。
「せーてーさん達もレミエちゃんやルルディスちゃんも、アルテアさんだって大事な友達だと思ってるよ。でも、同じぐらいにシスターさんといおりんも大事なの。もちろん百合ヶ丘の皆だってね。まぁ、一番はいおりんなんだけどね。やっぱり深い訳は話せないけど、今回の任務はシスターさんと、そしてメルクリウスの名誉を守るための戦いなんだよ。だから、せーてーさんには話せない。不義理なことをしている自覚はあるよ。でも、今回だけは見逃してほしいな」
ティシアが深いため息を吐いた。自分が考えていたよりもこのアーセナルは相当に意志が強い頑固者であったようだ。
「わかった。では、余らは枢機卿の身の安全を第一に考えて動かせてもらう。それでよいのだな?」
「ありがとう。優しい聖帝さん」
千秋の礼にティシアは優しい笑みで返した。
暗色のどんよりとした雲が港湾部に薄い影を落とし、海風に紛れてゴロゴロと稲光の音が混じっている。
校舎前の広場にはこの日のために特別に設営された枢機卿が登壇する舗装から一段の高さになっているお立ち台を中心として観光客の群衆は一筋の隙間も無く立ち並び、広場に繋がる大小様々な街路すらも人に埋め尽くされていた。
果たして無神論者集うこの日本という国で神の言葉の代弁者の言葉をありがたがって聞きに来る愚衆共が酷く滑稽だ。
その愚民たちを見下ろすように国内外問わず多数のヘリコプターが空を覆い鉄の天幕を作っているのは、まるで神の威光を遮るかのようで酷く冒涜的な景色に感じられた。
そして不敬と不届き極まなりない暗殺者はそのどちらをも見下し銃を組み立てていたのであった。
バレットM99
母国アメリカで冷戦時代末期にアマチュアの
枢機卿の暗殺を目論むドロシー・バレンティア・マッカートニーはこの銃に深い愛着を抱いていた。
冷戦という人類史上類稀な経済戦争の終結とヒュージ戦争の始まりという二つの時代の転換点を戦火の中で見届けたこのスコープを覗き込むと、自分もその壮大な歴史の一部に名を刻んでいるようにも感じられ、マギの減退によって欠けた自尊心の隙間を埋めてくれるような気がしたのだ。
対するのはこの時代の潮流の中でなお抗い続ける
自分よりも若く才能ある
備え付けの旧型の電波受信式のテレビのモニターに枢機卿が登壇する姿が見えた
そろそろ定刻だ。童貞のスピーチが始まる。
「やれ」
「はい」
ドロシーの傍にいた影のような男が端末を端末を操作し始めた。
小娘が。 汚い大人のやり方って奴を見せてやるよ。
「なぁおい。あれ、やばいんじゃねぇか!?」
警備開始より2時間ほど。頭上を飛び交う報道機関のヘリコプターのホバリング音が酷く五月蠅いことを除けば、メルクリウスの学園都市内に異常は見られなかった。
暇を持て余していた衣緒里がたまたま、都市に背を向け海岸に双眼鏡を向けた矢先である。学園都市内ではなく海岸を双眼鏡を覗き込んでいる衣緒里の驚き声にレミエとルルディスが振り向いた。
「何であなた外を見てるのよ。私達の仕事はメルクリウスの高壁内の監視よ」
「いいから見ろって!」
衣緒里の事を怪しみながらも渋々と双眼鏡を受け取ったルルディスが覗き込むと、すぐに驚きの表情を浮かべる。
「レミエ!」
「わ、わかってる。もう私でも微かに見えるわ!」
双眼鏡で覗かなくともなにやら海辺の海岸で蠢く物が一つ一つと陸に上がってきている。それも一つや二つではない。双眼鏡を使っていないレミエでもその数がみるみる内に増えていくことが遠目でも見て取れる。
それらは昆虫のアリに酷く酷似していた。
体節が頭部、胸部、腹部の三つの別れており、胸部に三対の足を生やし鋭い顎を生やしているその様相はアリのその姿に他ならない。だがその体躯がおかしい。そもそもアリの体躯など本来は1㎝にも満たない種が殆どなのだ。およそ数百mの距離のアリを肉眼に映すことなど、リリィがいかに優れていようが視力強化のレアスキルを用いることが出来なければ、到底出来る筈も無いのだ。
周りを見渡すと後壁の遠くに立つリリィが端末を手に何やら叫んでいるのが見えた。
「こちら高壁東端警備東京湾沿いからヒュージが出現している。ヒュージサーチャーに反応は無かったのか!」
『それのせいで警備本部は大慌てだよ!それよりもサーチャーに反応が無いヒュージって、前に理事長先生が言ってたやつ!』
そう、それは確かにアンナマリアの因縁足りえる事件で起こった奇妙な現象と同じで、理事長が語ったG.E.H.E.N.A絡みの一連の事件に共通する事項である。
「クソ売女が!なりふり構ってられねぇのか!」
「イオリ?何か知ってるの!?」
「知っててたまるかってんだ!おい、千秋!これはどう考えても陽動だぞ!」
『分かってる!こっちも情報の内容で大揉めしてるところだよ!』
「ヒュージ出現に伴いシェルターへの観光客含む一般人の誘導を行うべきだ!」
「いや待て!非常シェルターには流石にこの人数の収容できない!」
「初動対応が完全に遅れている!ヒュージサーチャーの反応の有無では無くケイブ発生の兆候は見られなかったのか!」
「数万人単位もいるんだぞ!この事態を知らせて見ろ!大パニックで群衆事故がそこかしこで起こるぞ!」
ガーデン警備本部は次々に高壁東部を警備するリリィから次々通達されるヒュージの発見情報に扮狂していた。
メルクリウスインターナショナルは外征を主体として活動としているため、通常守備範囲のヒュージは徹底的に駆逐しており、ケイブの発生ともなれば即座に対応する準備が出来ている。 しかし、今回のケイブの発生はまるで狙ったかのようだ。
それに加え、遅れてモニターに映し出された横須賀市内の監視カメラが映しだした敵影に、ティシアは思い当たる節があった。
一年前の御台場で突如勃発した迎撃戦において多数確認されたスモール級からミドル級のアリ型の後に『グンタイアリ』と命名されたヒュージだ。
硬い外殻と六足の機動力を活かし当時御台場に集ったリリィ達を苦しめたそれは同じ海を通して南下してきたという事だろうか。
最前線となった御台場ふ頭にリリィが集っていたので迅速な対応をすることが出来たが、今回は完全に後手にまわっている。
だがヒュージの出現と避難を報じれば、パニックが起こることは必至だ。しかし、警備の人員を裂けばそれだけ学園都市内の警邏はおろそかになる。
そして、極めつけは同盟校百合ヶ丘の無言のメッセンジャーの存在だ。メルクリウスの裏と表の平穏のために尽力してきたティシアであっても流石に決断しあぐねていた。どの決断を取っても一般人と枢機卿命を危険にさらすことになる。少なくともこのタイミングで避難誘導を始めたら数えきれない死者を人災によって発生させることになってしまう。
「鎮まれ!」
ティシアの一括に一層慌ただししくなっていた警備本部に、本日初めての静寂が訪れた。地震を見つめる数十の相貌に怯みもせず新しい指令を飛ばし始める。
「余らがうろたえてどうする!ヒュージ対処のためAZを中心とした戦闘部隊を即時編成!人員は東部の高壁警備部隊を中心にして抜擢しろ!」
「駄目です!高壁上に展開されている警備部隊はTZとAZを中心とした一年生が中心となっているため、戦力とするには不安があります!」
状況は詰みに近い。ティシアの脳裏に浮かぶ選択肢のどれもが、リリィと一般人のどちらにも犠牲を強いる結果となってしまう。
「せーてーさん。枢機卿が登壇してからメルクリウスの校舎に戻るのはどれくらい?」
「スケジュール通りに進めば三十分にも満たない筈だ」
「だったら……いおりん、聞こえてる?」
『あぁ、話は全部聞かせてもらった。つまり三十分もたせればいいんだな?』
「そういうこと。お願いできる?」
『わかった!やるぞパツキン、委員長!』
「待て勝手に何を……!」
千秋の胸倉が掴み上げられる。止める間も無く衣緒里は現場にいる可愛がっている後輩の二人を連れて飛び出して行ったようだ。静まり返っていた部屋に千秋のノートパソコンのスピーカーから漏れる二人分の絶叫がこだまする。
トップリリィと称される現役世代の極召集の上澄みが集っていてなお苦戦したヒュージの群れにたった三人で時間を稼ぐというのは無謀もいい所だ。
この女は仲間を死地へと送ってなおも飄々としたつかみどころの無い態度を崩さないのは一体どういう神経をしているのか。
「チアキ!貴様自分が何を命じたのかわかってるのか!?」
「わかってるよ。どの道手を打たないと状況は刻一刻と悪くなっていくんだから何も手を打たないよりはいいでしょ?極少人数のでの全討伐じゃなくて、あくまで時間稼ぎだからね。それに何よりも……」
襟首を掴む腕を掴み返し、千秋は嘯く。
「あなた達がが思っているよりも強いよ。私の