エドナが異世界転生などという荒唐無稽な話を信じるようになったのは今から150年ほど前の話だ。
その日、いつものように職場でこき使われ、フラフラになりながら自宅へ向かっているはずの彼女を襲ったのは突然の閃光、衝撃、そして激痛であった。
味わったことのない痛みに苦しみながらも、薄れゆく意識の中で彼女は「どうせ死ぬのなら有給とってダラダラしてからがよかったなぁ」などとつまらないことを考えながら、目を閉じた。
転生だの天国だの地獄だのが存在するかは人によって意見が分かれるところだが、果たして彼女の魂は揺りかごで眠る赤子の中へと流れ着いた。
次に彼女が目を開いたとき、視界に飛び込んできたのは満面の笑みでこちらを見つめる母親とおぼしき女性と、その腰のあたりから生えた妙な形のしっぽであった。
悪魔エドナ・ランプランサスとして第二の生を受けた彼女は、最初こそ混乱すれど、「事実は小説よりも奇なり」などと月並みなことを思いながら運命を受け入れたのだった。
「きょうはなんにもないすばらしい一日だった」
エドナは誰に言うでもなくそう呟き、ベッドにもぐりこむ。
あれから気付けば150年、エドナは母とともに平穏な、あるいは怠惰な日々を送っていた。
朝は起きたいときに起き、食べたいものを食べたい時に食べ、夜は眠くなったら寝る。
やがてお金が心許なくなってきたら、家の裏の森で薬草を採ってきて売るだけの生活。
過労死ラインのはるか先をさまよっていたエドナが求めていたスローライフがそこにはあった。
ヒトならざる者に生まれたことに気付いた当初、自分はいわゆる「剣と魔法もの」の世界に来てしまったのではないか、いずれは魔王軍かなにかに加入して勇者的なやつと戦わされるのではないかと危惧したエドナだったが、すぐにそれは杞憂だと気付く。
理由は単純、母親がダメ人間ならぬダメ悪魔だったからである。
扱える魔法は竈に火を入れるなどどれも生活を便利にする程度(魔族なら誰でもできると知るまではエドナも目を輝かせて見ていた)、強いて言えば虚仮威しの魔力量増大魔法ぐらいで、それも実際に増えるわけではないから小突かれたらそれで終わりだ。
筋力もさすがに人間の女に負けるほど弱いわけでもないが、化け物じみているという程でもない。
娘である自分も同レベルなので、ゲームに出てくる魔物のように戦うというのはそもそも選択肢にない。
魔王や勇者といった者達が実在するというのは風のうわさに聞いたこともあるエドナだったが、こんなダメ悪魔親子なら戦力に数えられることもないだろう。
勇者たちの英雄譚なんてものには生涯関わることもない、そう信じていた。
突如、空気が震える。
ただならぬ気配にエドナは飛び起き、いつの間にか開いていた窓の外を見つめる。
見つめる先、つい先ほどまで何もなかったはずの空中に「穴」が開いていた。
理解の及ばない事象に思考停止してしまった刹那。
新月の夜空より暗い穴の向こうから、形容しがたい魔力を纏った存在が現れる。
本能が「勝てないから逃げろ」と騒ぎ立て、理性が「逃げても無駄だ」と宥める。
「ランプランサスの末裔というのは、お前のことか」
壮年の男は、蛇に睨まれた蛙のように動かないエドナを認め、つまらなさそうにそう言った。