その日の夕方、目的地に到着した。
商人は大急ぎで娼館に入っていき、アドニスは荷の番をした。
前に一度だけ利用したことがある大きな娼館だ。
商人が帰ってくると、二人と荷馬車は裏口へ回る。
馬を繋ぐとアドニスはセレスを荷台から下ろし始めた。
外套ごと抱きかかえ、裏口をくぐる。
商人は気を遣って離れを取ってくれた。
同伴用もしくは長期滞在用の離れが大きい娼館には大抵ある。
華やかな喧騒とは無縁の静かな場所だ。
アドニスは中に入り、一人で入り口に戻ってきた。
入り口で待っていた商人は二つの鍵をアドニスに渡した。
「女将には言い含めてある。ゆっくりさせてあげてくれ。」
返事の代わりに左手を上げるアドニスに、商人は続けて言った。
「メシは外に置くようにした。それと」
緑青の衣類と袋をアドニスに渡した。
「お嬢さんの寝間着だ。お前さんの分はメシと一緒に届けさせるが、それでいいか?」
「十分だ。」
「わしの部屋は前と同じ場所だからの。」
商人と別れて荷を離れに入れるとアドニスは外扉に鍵を掛けた。
内扉を閉じ、こちらも鍵を掛ける。
自分以外の介入は一切拒否した。
ソファーにセレスがもたれ掛かっている。
重ねたクッションに青白い顔を半分埋め、全身の力を放棄していた。
黙ってベルトに手を掛ける。ベルト穴は一番奥を使っていた。
長靴を脱がせ靴下を取ると、マメでいびつになった小指が見えた。
上衣を弛め、浴室に向かう。
ある程度は自分も覚悟していた。だが、ここまでとは思わなかった。
おそらくセレスも同じだろう。
湯桶に商人が渡した袋から乾燥した薄荷を取り出し、浮かべる。
爽快な匂いが部屋に充満し、空気が緑青に染まる。
アドニスはセレスの着衣を取り、身体を拭きだした。
セレスは動かない。湯を替えセレスの両腕と頭を自分の肩にのせた。
「痩せたな、オマエ。」
アドニスの手はタオルと言葉を連れて白い背中に落ちた。
その上に静寂が薄荷の匂いと共に降り積もる。
緑青の寝間着に袖を通すため、セレスの手を取った。
潰したマメは既に固まっており、掌に柔らかさが無い。
細く長い指。だが、剣を握るせいで間接は太くなっている。
爪は少し伸びていた。短くする余裕が無かったのだろう。
肘と膝は衣擦れで硬くなっていた。踵も同じだ。
女性らしい手入れをしていない体。
その体を静かに抱き上げると衝立の横を通り、寝台へと向かう。
瞼を閉じたセレスは何も見ない。何も聞かない。
細い息を立て、ひたすら眠っている。
寝台に横になるセレスを見ていたアドニスは外扉へと向かった。
外扉の脇に二つの籠があった。一つは軽い食事。
もう一つはアドニスの着替えや、二人の滞在に必要と思われるもの。
二つの籠を抱えるとアドニスは二つの鍵を掛け離れを後にした。
食事の匂いも湯の音も、今のセレスには必要無いからだ。
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「邪魔か?」
「いいや、いいぞい。」
籠を抱えたアドニスは商人の部屋へと入る。
「どんな様子か?」
「明日まで起きねぇだろ。」
「ひとまず、安心だの。」
安堵の息と共に商人は言った。アドニスは返事をせず、食事を続けている。
「武器屋はどの辺りだ?」
商人が目を瞠る。お構いなしにアドニスは続けた。
「折れてるからな。アイツが欲しがる。」俺達は護衛だ、と言外に言う。
「場所は紙に書いておく。話はつけておくから、好きなのを選ばせてやってくれ。」
「報酬から引いておけ。」
お嬢さんが嫌がるからの、と言いながら商人はテーブルへと向かった。
「オッサン、湯貰うぞ。」食事を終え、立ち上がりながらアドニスは言った。
「好きにせい。」紙片を渡しながら商人はからからと笑った。
離れに向かう途中まで商人と二人で歩いた。
娼館の女達が好奇の目で二人を見る。
一人は馴染みの商人。もう一人はその商人と一緒に一度だけ来たことがある男。
複数の媚びる視線がアドニスに纏わり付く。
一人の女が二人の進路を塞いだ。「ちょっと、兄さん。」
アドニスは何も言わずに去ろうとする。此処は商人にとって大切な取引先だ。
「待ってよ。」とアドニスの腕を掴んだ。
アドニスの片手は籠を持っている。着替える前の衣類が入っている。
誰かを買いにきたのだ、と女は思ったのだろう。
アドニスは女に言った。
「何だ?」
「アタシと、どう?」一般的な物差しでいえば美人だ。
自分に自信がある者が売込みができる。そういう場所だ、娼館は。
「気分じゃねえな。」この場から離れようとする腕を女は引き止める。
「そんなこと言わずにさぁ。」艶やかな微笑と共に小首を傾げ、下から男を覗き込んだ。
女ははっとして、手を引っ込めた。
アドニスは女を見下ろしている。
ただそれだけの事に、女は震え出した。
「明後日、行くんだな?」商人の声に返事の代わりに左手を上げるアドニス。
アドニスは離れへと向かった。
女将が慌てて飛んでくる。
「ちょっと、お前!!」アドニスを誘った女は女将に叱られていてた。
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鍵を二つ掛けるとアドニスも寝台に入った。
大きい寝台で眠るセレス。伸ばしたいと言った手足は赤子の様に緩やかに折り曲げていた。
背中が小さく、規則正しく動いている。
赤錆色の頭の下に左腕を滑らせた。背中に擦り寄る。
アドニスの右手はセレスのそれと重なった。
「頑張ったな。」
右手を指でそっと撫でながらアドニスは言う。
斬鉄姫は答えない。自分で答えを出したからだ。
斬鉄姫を必要とする人がいるから、吐いてまで応えようとした。
太い関節を持つ指の間に自分の指をくぐらせ、アドニスも眠りに付く。
戦士は眠れる時に、眠る。二つの寝息を緑青の空気が包み込んだ。
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早朝、緑青の背中が動き出した。
重なった手はそのままに、むくり、と上体を起す。
「・・・ここ・・・どこ・・?」
頭がはっきりしていない様子の声が寝台の上に落ちる。
左肘で体重を支え、辺りをゆっくり窺う。
「娼館だ。」声のする方へ頭が動いた。
小首をかしげ、緑青の瞳が肘枕を付いているアドニスを見た。
きちんと座った雪豹が呼び声のする方へ振り向くように。
「暫く此処で商売する事になってただろ。」
深く首をかしげた。雪豹は言葉の意味がいまいち呑み込めていない。
「寝とけ。」
セレスはアドニスの顔とは反対のほうにふいっと顔を向けると
ぽすん、と枕に頭を落とした。背中が小さく、規則正しく動き出す。
アドニスの眉間が思いっきり険しくなる。
「・・・可愛くねぇな、おい。」
不機嫌な声は深く眠るセレスには届かない。
「てめぇ、本気で覚悟しとけよ。」
本気と書いてマジと読む。
アドニスは小さい欠伸を一つすると、赤錆色に顔を埋めて二度寝を始めた。
千紫万紅・中編 終