其の十五 鈍色(にびいろ)
太陽が中天を過ぎた頃、セレスは目を覚ました。
寝台にいる自分。頭には霞みがかかって、はっきりしない。
あぁ、私、ずっと・・吐いてて・・・確か・・
「街道で・・・」肘を付き両手で頭を抱える。
「ぶっ倒れた。」アドニスの声がした。
外は昼だが、窓を閉め切り遮光した離れはほの暗い。
衝立から鈍色の部屋着を着たアドニスが現れた。
布団から出て寝台の端に座るセレスにコップを差し出す。
受け取るとセレスはゆっくり水を飲み出した。
「娼館だ。オッサンは商売してる。」
水を注ぎながらアドニスは続ける。セレスは黙って水を飲む。
水差しが空になった時、セレスは小さなため息を吐いた。
「ありがとう。」
アドニスは何も言わずにコップを取ろうと手を伸ばした。
「湯に入るからコップがいるのよ。」
立ち上がろうとするセレスが言った。
汗をかき、身体の水分を吐き出す。そして補給する。
新陳代謝を促し、身体を目覚めさせる。手っ取り早い方法だ。
伸ばした手はそのままセレスの腰を抱き、アドニスは寝台から斬鉄姫を引き剥がす。
コップを持たない手は、アドニスの腕を掴んだ。
「浴室は向こうだ。」顎で指し示す。赤錆色の頭も同じ方を向く。
「水差しは入り口に置いといてやる。」
セレスはコップを両手で抱え、浴室に向かった。
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アドニスは部屋の窓を開け、空気を入れ替える。
外の眩しい光が部屋を覆った。
滞在中は天気が良さそうだ。荷に手を入れることが出来る。
洗える物は全て洗い、折れた剣も替えなくてはならない。
使い切ってしまった物は補給する。使い切りそうな物も見極め補給する。
やることは沢山ある。
「娼館でこのザマかよ・・・。」
娼館の女と一時を過ごすつもりだった。
元王族はそういった事に理解がある。だから一人部屋にして欲しいと言った。
後宮というものを見て育ってきているからだ。
王妃だけでなく複数の女性が一人の王を取巻く。
血統を確実に残す為。
その上、戦場を知っている。
宿の代わりに娼館を借り上げる事はよくある事だ。
宿としての利用はもちろんの事だが、別の意味もある。
戦士は圧倒的に男が多い。
身体的にも精神的にも必要なのだ。
戦いの後、戦士の血を鎮める為。
そして一般人の女性を襲わせない為。
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ソファーの前で胡坐をかき、荷の確認をしていたアドニスは浴室の方を振り向く。
セレスが頭を拭きながら出てきた。
空になったコップと水差しを抱え、アドニスの前を鈍色の部屋着が通る。
「おい。」テーブルの横にある椅子に座ろうとするセレスに声をかける。
「私、まだ水を飲みたいのよ。」
振り返るセレスに背後のソファーを親指で指し示す。
小さくため息を吐くと、セレスはソファーに向かった。
手にはコップを抱えている。
もう大丈夫だ。敵は手強い。
二人はソファーに座っている。
セレスは身体をよじり、コップを持たない手で身体を支え頭を垂れている。
アドニスはその頭を拭いている。石鹸と洗髪料は同じ香りを漂わせている。
この離れの浴室には、石鹸も洗髪料も一つではなく複数用意されている。
上等な部屋である証拠だ。
数ある中から柑橘系を選んだ、甘い匂いとは無縁の斬鉄姫。
「オマエ自分の髪、嫌いだろ。」
「何故解るの?」タオルの下から声がした。
「出発前、切るとゴネたからな。」
「・・・確かにね。」フィレスが嘘泣きしたから、折れてしまったわ。
続く言葉。苦笑いがタオルの下に隠れている。
「大嫌い。昔も、今も。」
多分、死ぬまでその思いは変わることはないのだろう。
頭を拭きながらアドニスはそう感じた。
頭を持ち上げながら、終わった?とセレスは言った。
「頭がボサボサだ。」
アドニスは手櫛で赤錆色を整え始めた。
セレスは止めない。戦士は休める時に、休む。
「俺が生きる世界の色だな。綺麗な色だ。」
セレスが眼を瞠る。
コップを持つ手に力が入るのをアドニスの視界が捉えた。
「貴方、油断ならないわ・・・。」
ありがとうでもなく、そうかしらでもない言葉。
「油断ならない」と来たか。
こんな反応、オマエぐらいしかしねぇよ。
赤錆色を梳きながらアドニスは思った。
両手で梳く髪は、ほぼ乾いてきた。
「御主人に挨拶したい。女将さんにも。」
「行くか。」アドニスはさっさと立ち上がりソファーから離れていく。
コップを見つめていたセレスは、少しの間の後ソファーを立った。
アドニスはセレスの前に立ち、満たした水差しでコップに水を注ぐ。
「やっぱり油断ならない。」
コップを見ながらセレスは呟いた。
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本館を二つの鈍色が通る。一つは商人と来た男。もう一つは同伴の女。
娼館の女達の視線がセレスに注がれる。
あの兄さんの女だって?女将さんが同伴だって言ってたよ。
こんな時間に本館に来るなんて、たいした自信をお持ちだこと。ふふふ、聞こえるよ。
美人じゃないのさ。髪の色が珍しいからそう見えるだけでしょ。
色といえば目の色も珍しいわね。色が変わってりゃ、美人度も十割増しかぁ。
いいなぁ、アタシもそんな珍しい色で生まれたかったよ。
同性、特に女性の目は厳しい。
「女が女の手配をするなんざ、最低だよ!」
娼館を借り上げる度に、礫のように飛んできた言葉。
「女将軍様はこんな生活しなくでいいんだから、いいご身分だね。」
礫は鋭く飛んでくる。何度も聞いた。
事実だから仕方ない。受け止めるしかないのだ。
「心配かけしました。」
「いや、良かったよ。安心だ。」
「色々気遣ってもらって。」
「何の何の。」からからと笑う商人。
「部屋はどう?」中年の女将が問う。
「とても静かでいいお部屋です。勿体ないくらい。」
「それは良かった。ゆっくり出来た?」
「ええ。寝台も大きくて、とても気持ちよかった。」
事情を知らないオネエさん達は、こっそり拝聴しながら頬を染めた。
「食事はどうするの?」
「まだ軽いものでいいです。身体が本調子ではないから。」
「俺は普通のでいい。」
セレスの腰に手を廻しながらアドニスは言った。離脱の合図だ。
「後で届けさせるからね。ごゆっくり。」
セレスは小さく笑い、二人は離れに向った。
途中でオネエさん達と目があった。
赤錆色の頭は小さく会釈しながら通り過ぎた。
二つの鈍色は離れの外扉をくぐる。
「相当なタマだな、オマエは。」
鍵を閉めながら面白そうにアドニスが言った。
「何か言った?」
アドニスを通り越したセレスは内扉の鍵を開けながら問い返した。