男の拳は宙で止まった。
月の光に照らされる氷の色。そして全ての空気は月白に染まる。
無言で斬鉄姫に忍び寄るアドニス。
艶やかな濡羽色の髪は後ろに撫で付けてある。
整った顔は無表情だ。
朽葉色の下には鋼の身体が息を潜めている。
敵を味方までをも畏怖させる、黒刃のアドニス。
絶対零度の中、一人を除いてこの場に居合わせた者全てが凍りつく。
アドニスはその一人の背後から腕を廻し、無表情のまま肩と腰を抱いた。
白い首筋に顔を落とす。
男は硬直した。顔色が空気と同じ月白に染まる。
女の背後に同じ朽葉色を着た黒髪の男がいる。
その男の表情は女に埋もれて見えない。
見えない分、不気味さが男の中で増殖していく。
アドニスは腰から離した手で男から視線を外さない斬鉄姫の頬を挟み、顔を引き寄せた。
鼻先で首筋をなぞり、そのまま顔の輪郭を確かめる。
頬を挟んだ手は乾いた唾がこびり付いたセレスの頬を指で撫で始めた。
もう一方の頬は自分のをそっと擦り付けた。
「誰に貰ったんだ?」
低く、そしてひどく優しい声が問いかける。
知っている筈の事を黒髪の男は女に訊く。
ずっと自分を見る女の視線と、これ見よがしに突きつけられた頬が答えだ。
お前がやった。撫でる指はそう言っている。
全身の血が引き男は震え出した。
許しを請う様にセレスを見るが、セレスは何も言わない。
首からゆっくり離れていくアドニスの口が歪んでいる。
「俺の女に手を出した。何されても文句は言えねぇだろ。」
自分の血を奪ったような両眼。
その血なまぐさい色が不気味に光り、男を覆う。
血は死を呼ぶ。髪は死神の色。
笑った口から出た言葉は何の宣告だ?
「文句」を「言えない」。
「口」を「封じる」。
「殺される」その一言が男の頭を支配した。
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アドニスの大きな手がセレスの頬を離れ、徐々に男に向って伸びる。
男の顔を覆った瞬間、指先に力を入れた。
「ひぃぃぃぃ」男は喚きながら顔から手を離そうと両手でアドニスの腕を掴む。
斬鉄姫の声が男の腕を掴む。
「今度は私の男に手を出すのか?」
黒髪の男は咽で笑い出した。可笑しくて仕方が無いといった風に。
男はのろのろと朽葉色の腕から手を離した。
それを合図にアドニスは薬指をじわじわと動かしながら斬鉄姫に言った。
「半端な情けかけやがって。」
指が男の目尻で止まると同時にアドニスはにやりと笑った。
「何で抉らなかった。」
楽しそうなアドニスの声が絶対零度を支配する。
男は目を瞠る。指の間から見える黒髪の男が視界から逃げてくれない。
不気味な光を放つ赤銅色の両眼で自分を見下している。
口は薄く開き吊り上っている。視界の端に指の腹が焼き付く。
「か・・勘弁・・・して下さ・・い・・・」
男は息も絶え絶えに言葉を出した。
斬鉄姫が口を開く。
「勘弁してやらなくていいんじゃねぇの?」
月白の氷が割れた。
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花たちは三人を睨みつける。
この三人は娼館の禁を破った。
店が開く前に乗り込んできた。
謝罪と賠償を受け入れた上で強引に生娘に手を出そうとした。
同伴中の男女はどちらにも手を出してはならない。その同伴中の女に手を出した。
姐さんは自分を「客だ」と言った。
それを勝手に娼館の女と決め付けた上、侮辱し、逆上して殴りかかろうとした。
女将は娘に小さく耳打ちする。娘は雑巾を持ったまま奥へ消えていった。
アドニスの手の下の顔は意識を放棄した。
残りの二人は我に返る。
自分達がした事をそっくりそのまま返されている事に気が付いた。
二人が辺りを見回す。娼館の女達の冷ややかな目。女将は立ったままだ。
黒髪の男は女の背後から腕を伸ばし失神した仲間を掴んでいる。
女は火掻き棒に手を置いたままその仲間を凝視している。
助けてくれる人は誰もいない。それだけの事を自分達はしでかしたのだ。
「ほ・・・本当に・・勘弁し・・て・下さい。」
「す・・すみま・・せ・・ん。」
床に額を擦り付け謝罪の言葉を言うのがやっとだった。
誰も返事をしない。この審判は王が下した。受け入れるか否かは王が決める。
視線がセレスに集まる。アドニスは男を見ている。指は動かない。
「女将。」王の呼び声。
「はい。」女将は返事をした。
「賠償と枯れた花は用意したか?」
「勿論です。」
「そちらの意思は?」
「同じです。」
「取り計らえ。」
賠償は初めに申し出て相手は受けた。だから払うのだ。
三人が初めから禁を破っているとはいえ、粗相をしたのは娘だ。
後々文句を言わせない為にも此方に落ち度があってはならない。
枯れた花は娼館側の拒絶を表す。
貴方達は花を摘む資格はありません。そして花は相手をしません。
娼館は今後一切貴方達の来訪を拒否します。
セレスはアドニスの手に自分の手を重ねた。アドニスは指の間を開いた。
アドニスの手を掴んだまま自分の腰に廻す。
男が床に崩れ落ち、二人の視界から消えていく。
二人は月白の中に立っていた。
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小さな袋と枯れた花を持った二人の男が玄関から逃れようとしていた。
「忘れ物だ。」セレスは火掻き棒で床に突き刺さった剣を叩いた。
金属音が二人に鮮やかな剣技を思い起こさせる。
生きた心地がしないまま、月白の空気の中に二人が侵入する。
二人がかりで剣を引き抜こうとする。
「抉るか。」低い笑い声。
慌ててもう一人が床に寝ている男を背中から抱き起こした瞬間、
空気を切り裂き、アドニスの苛烈な靴底が失神していた男の右肩にめり込んだ。
踏み出した勢いでセレスが小さく揺れる。アドニスはセレスを受け止める。
骨が砕ける音と共に、二人は身体で扉を開き吹っ飛んでいった。
その場に残った一人は慌てて剣を抜き、転がるように玄関から逃げていった。
玄関の扉に向って伸びた黒刃はゆっくり床に戻る。
兄さんは赦す気なんて無かったんだ。
唾を吐きかけられても、娼婦呼ばわりされても姐さんは何も言わなかった。
花を庇ってくれた。
愛で、褒めてくれる人間は沢山いる。彼等は摘むだけだ。
腹の中で、そして世間がどう思っているかなんて自分達だって知っている。
だが、それを此処で口にしてはいけないのだ。
泥の中で生きていくしかない花。その花に一時の慰みを求める者。
花を求める者は花に敬意を表さなければならない。
どんな感情であろうと己の心中を言葉に、態度に出してはならないのだ。
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「肩、潰れたわ・・・」セレスが声を出した。
腰から離れたアドニスの手をセレスは離さない。
アドニスはセレスの肩に顎をのせながら言う。
「長い足を伸ばしただけだ。」
「足も踏めばよかった。」
「痛いからやめろ。」
セレスはアドニスの掌に小さく唇を押し付け静かに解放した。
肩から顔を離すと二人は女将の方へやってきた。
「助かったわ。」火掻き棒を受け取りながら女将が言った。
「いえ、お騒がせしました。」すまなそうにするセレス。
「おぉい、武器屋に行って来たぞ。入れ違いになったの。」
奥から出てきた商人が会話に加わる。
「5日後になるそうだ。三人が鞘で大騒ぎだったぞい。」からからと商人は笑った。
「再開したのか。」アドニスは呟いた。
「本当に柄だけでいいのに。」困惑するセレスの声。
「あの鞘で渡したら名折れだの、柄の意匠がどうとか。ありゃ近所迷惑だの。」
女将は三人を見ながら問いかけた。
「剣が要るの?」
微笑と共に斬鉄姫が答える。
「私、御主人の護衛だから。」
娼館の全員が納得した。それであんなに強いんだ。
アドニスが離脱の合図をした。
離れに向い始めた二人に声が後を追う。
「ありがとう。」「胸がすっとしたー。」「すんごい勢いでふっとんで行きやがった〜。」
「布団も真っ青だね、ありゃ。」「アンタ、寒いよ〜。」
「姐さん、カッコよかったわぁ。」「姐さんは護衛だもん、当たり前だよ。」
振り向き驚いた顔をしたセレスが言った言葉は
「私に妹がいるって、なぜ分かるの?」
どっ、と笑う花たちを後にしながら二人は離れへと消えていく。
外は薄暗くなり始めた。娼館は今から勝負の時を迎える。
気の早い白い月が空に顔を出していた。