セレスは前を見たまま動かない。
視線を横切りアドニスは布団に入り左手で肘枕を付いた。
もう一方の手で赤錆色の髪を弄ぶ。
「教えてもらうわよ。」凛とした声は前を見たままのセレスの口から出た。
「オマエはどう思うんだ?先に教えろよ。」
雨戸の先から雨と風の音がする。喧騒の中、この部屋は静寂が支配していた。
「もう一度勝負を申し込まれる。不覚を取り戻す為に。」
てめぇはよく解ってる。
「もう一つくらい思いつけ。」
アドニスはセレスの髪をついついと軽く引っ張った。
少しの間の後、セレスは前方を見たままひどく真面目に言った。
「タダ働きをさせられる。私、アドニスに借金してるから。」
アドニスの口が開き、次の瞬間咽で笑い出した。
「何が可笑しいの。」低い声でセレスは唸る。
アドニスは起き上がり、セレスの肩に顔を埋めた。笑いは止まらない。
左手で自分の体重を支え右手でセレスの腰を抱く。
いちいち普通の女と反応が違う。やっぱりオマエがいい。
「・・・何が可笑しいのよ。」殺気を帯びた声がする。
アドニスの閉じた瞼が眉と同じ緩やかな弧を描く。
白い首筋を唇と笑いを含んだ息が撫でた。
「オマエ、俺が口説いてたって気付いてねぇだろ。」
「・・・・・・・え?」
「だから口説いてたって言っただろうが。」
セレスは言葉の意味を理解するのに時間が掛かった。
暫くの後、一つの言葉がアドニスの背中に落ちた。
「・・・呆れた」前方を見たまま言葉通り呆然としている。
本気なのでもなく、遊びなのでもなく「呆れた」と言うセレス。
「気付けよ。」
嬉しそうにアドニスは言った。
「・・・いつからなの。」
「一年以上。」
アドニスの返事に今度は絶句するセレス。
アドニスはまだ笑っている。
風と雨の音は鳴り止まない。
搾り出すように斬鉄姫は言葉を吐いた。
「一生の不覚だわ・・・」
自分の首を刎ねた女。
その斬鉄姫の首に小さく尖った唇を優しく押し付けた後、
瞼をゆっくり開きながらアドニスは言った。
「落とすのに一年以上かかったぞ。」
嵐の夜、赤銅色が光る。
前方を見るセレスの両眼が大きく瞠られた。
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再会は偶然だった。
あの時、セレスの家の前を通らなければ一生会う事は無かっただろう。
二度目は本当に夜中に着いて、宿が閉まっていたからだ。
野宿するつもりで荷を開けていたら、合鍵が出てきた。
女の一人暮らしは危険だ。
珍しく親切心を起こし、錠前屋に恋愛中だと言ったら勝手に作ってれた合鍵。
荷袋に入れっぱなしにしていた鍵。その鍵が出てきた。
だからセレスの家に泊まった。
寝台は一つしかないから二人で寝る。一眠りしたら、出て行けばいい。
肌寒いから腰に手を廻した時、気付いた。
腹が前より硬くなっている。
鍛錬している。
確認する為に布団をそっとはぐって、セレスを起こさないように注意深く腕を触った。
腕は締まっていた。腿も硬い。前に会った時と違う身体。
自分の口が吊り上るのを感じた。
子供の様に柔らかい腹をした無様な女。子供だから優しく出来た。それだけだ。
宿に困っていなければ、合鍵が出てこなければ、会う気など微塵も無かった。
過去に囚われ、だが戦士である過去を捨てたがる、不器用な女。
その女が身を守るために鍛錬を始めた。
脅しても怯まない女。逆に威嚇してきやがった。
「持ちたくない。」
女の一言は戦士である自覚だ。
俺を怖がらないのも、戦士としてしか見ていないからだ。
差は火を見るよりも明らかだ。勝敗が確定している以上、恐れても仕方が無い。
一つの可能性が見えた。
俺はてめぇに不覚を取った。
負けは負けだ。
その俺に捨てたがってる剣を持たされ、
もう一度勝負を申し込まれたらどうする?
拒絶は屈服を意味する。
受ければ確実に負けだな。
警戒すると思ったらすんなり受け入れた。しかも必要以上に干渉しない。
その大雑把さが心地いいと思う自分に気付いた。
だから長期の護衛の話が来た時、引っ張り出そうと思った。
腕は確かだ。おまけにあの性格。オマエなら俺の相棒としてやっていける。
それだけの理由で俺は他の奴では無く斬鉄姫を選んだのか?
だからあの夜、自分を、オマエを試した。答えを出す為に。
剣を捨てて生きていける戦士はいる。
それはひとつの生き方だ。
オマエが捨てても生きていけるなら俺は構わない。
だが、オマエは剣を捨てて生きてはいけない。
斬鉄姫が簡単に生を放棄する。
斬鉄姫に勝負を挑んで斃れた連中はどうなる?
何の為の解放だ?
生きる為の解放だろうが。
そこまでして捨てたいのなら俺が違う剣の使い方を示せばいい。
セレスがセレスのままで生きていける様に。
斬鉄姫が斬鉄姫である事を受け入れられる様に。
俺は斬鉄姫が「欲しい」。斬鉄姫は「女」だ。
「女」ごと欲しい。
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斬鉄姫は自分で出した答えを受け止めた。
戦士は、自分の始末は自分でつける。
人を斬った後、一人で嘔吐し、咽に指を突っ込んで吐いた。
やっと認めた。剣を捨てたら生きていけない事を。
セレス、斬鉄姫を認めてやれ。
斬鉄姫はセレスの剣だ。
オマエは剣を捨てたら生きていけない。
斬鉄姫を必要とする者、斬鉄姫を理解する者がいる。
それさえ知ったらオマエは壊れない。俺が壊させない。
そう思った時、目の前で吐いている存在を初めて愛しいと思った。
その感情を抱いた自分にひどく驚いた。
屈服させたい、負かしたい、欲しい、愛しい。
否定は一切しない。どれも俺だ。
雪豹が嘔吐する。獲物の血に頭を染めて。
セレス、斬鉄姫はオマエの牙であり爪だ。
雪豹の様に必要な時だけ牙を剥き、爪を立てればいい。
それだけの事だろう?
俺はそのままのオマエが欲しい。
だから気付かせなかった。
戦場以外のオマエを初めて知った。意外性のカタマリにも程がある。
普通の女の様な反応をしない。そもそも女の部分が少なすぎる。
鷹揚かと思えば冷静に状況判断をする。
目を抉ろうとしたら止める。俺の事をちゃんと見ている。
なのに自分の事は見えていない。鈍すぎる。
いくら「大雑把」で「鈍い」とはいえ相手は肉食獣だ。
肉食獣の感覚は鋭利だ。小さな物音でも警戒する。
だから足音を忍ばせながら距離を縮める。
そして待つ。オマエが自分の周りを見回すのを。
結果的に一年以上かかった。そこまで俺を本気にさせやがった。
見逃してやるつもりは無い。
気付いた時は、もう遅い。
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セレスは寝台がぱっくり口を開け、落下する感覚に襲われた。
文字通り、「落ちた」。
アドニスは「口説いていた」と言った。
あの態度、言動。どこをどう考えても全然、全く「口説く」にならない。
気付けという方が無理だ。
・・・いや、一度警戒したことはある。
娼館で自分の髪を「綺麗」と言った時だ。
今思えば、初めての褒め言葉だった。
聞いた瞬間、「油断ならない」と思った。
自分が嫌いな髪が何を意味するのかアドニスと同じだっただけだ。
自分が嫌いな色をアドニスが綺麗と言っただけだ。
いつもと同じで何か違う。小さな警戒。
でも、その後コップに水を注がれていつもの「油断ならない」になった。
小さな警戒はいつも通りのアドニスの態度が飲み込んだ。
気付かせなかったのだ。
黒豹は一年以上も前から自分に覚られる事なく、じわじわと背後から忍び寄ってきた。
ここにきて初めて艶やかな濡羽色の毛に隠れている自分の斑紋を、誇示した。
黒豹の斑紋は触れる距離でないと見えない。
いつの間にかアドニスの家にいる自分。
此処はアドニスの領域だ。
そのアドニスは自分の喉元で笑っている。
くっくっくっ・・・
口を閉じているから咽で笑う。閉じた口の中には何が潜んでいる?
両手がのろのろと布団を掴む。
セレスは自分の肌が総毛立つのを感じた。
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「一生の不覚だわ・・・」俺の全てにお前は応えた。
アドニスはのそりと顔をあげた。
サイドテーブルの灯りは細くなり、ちろちろと瞬いた。
濡羽色の艶が瞬く。
アドニスの右手がゆっくりと腰から離れた。
鳥肌を立てている滑らかな灰白色の輪郭を指で確かめる。
自分を見つめる緑青は灯りが瞬く度に翠にも蒼にも見えた。
アドニスは赤錆色の髪をかき上げながらそっと囁いた。
「俺が怖いか?」
全てを受け入れる強さ。
戦士として俺に劣る事をちゃんと解っている。
俺が逃がすつもりがない事も知っている。
甘える事を知らない。
俺が擦り寄る。オマエは俺を受け入れる。その事が俺に甘えている事になる。
オマエは優しい。
娼館で俺の手が下衆の血で染まる事を拒んだ。掌の口付けでそれに気付いた。
だから欲しい。だから愛しい。そのままのオマエがいい。それ以外は要らない。
「怖い。」
黒刃のアドニスは自分自身にも他人にも容赦しない。
貴方は全てを容赦なく呑み込む。逃れる隙を与えなかった。
髪も服も全てを呑み込んだ色。黒い獣。
したたかでしなやかな美しい黒豹。
戦士としてのアドニスは怖くない。私は貴方より劣るから。
捕らえたら私が足掻く事をしないのを貴方は知っていた。
私は今、その事に気付いた。
だから目の前の男は、一人の男としてのアドニスは、怖い。
「上等だ、セレス。」
髪を解放した手は輪郭を滑り顎を持ち上げる。
セレスの顔を濡羽色がゆっくり覆った。
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寝室は闇に沈んでいる。
朝なのか昼なのか夜なのか。
沈んだ時の中を斑紋の背中が動きだす。
重なった手はそのままに、むくり、と上体を起す。
「・・・ここ・・・どこ・・?」
頭がはっきりしていない様子の声が風と雨の音の中で響いた。
外の嵐は収まっていない。サイドテーブルの灯りは遥か昔に失われた。
左手がアドニスの腕を掴んで体重を支え、緑青が辺りをゆっくり窺う。
「俺の家だ。」声する方へ頭が動いた。
斑紋を身に宿した雪豹が首を傾げる。
「今日中に収まるといいがな。」
風と雨の音の中での声を聞こうと雪豹は深く首をかしげる。
「寝とけ。」
セレスの手が乗った腕をずらし、重なった手を解きながら
アドニスは自分の喉元に赤錆色を落とした。
セレスはアドニスをぼんやり見つめ、
「黒い・・・ボサボサ・・・」
言いながらのろのろと左手でアドニスの濡羽色を撫で付けた。
「言ってくれるな、てめぇ。」
「・・・でも・・綺・・・麗・・」
手は濡羽色に落ちたまま、微笑みながら言葉と共に瞼を閉じた。
小さく、規則正しい息がアドニスの喉元に降り注ぐ。
「・・・可愛いじゃねえか。」
うっかり出た言葉は深く眠るセレスには届かない。
アドニスはセレスの頭を抱え込む。赤銅色の両眼は緩やかな弧の下に隠れている。
「この不覚もきっちり返させてもらうぜ。」
鼻先でセレスの額をなぞりながら宣告した。
黒豹はくわぁと欠伸を一つする。
二匹の豹は眠りの海へと沈んだ。