アドニスとの突然の再会から数ヵ月後。
明け方、セレスは目を覚ました。
あの再会から、朝早めに起きて散歩を始めたからだ。
戦乱とは違う身の危険がある、と言う事を思い知らされた。
王城と戦場に自分は守られてきた。
市井に一人で住むという事は、それなりの危険がある。
身を守る為には、以前の身体能力が必要だ。
身を起そうとする。腰が重い。
布団をめくってみると、腕がのっかっている。
背中も妙に暖かい。
え??
そろそろと後ろを見ると黒い頭が見えた。
「ア、 アドニス?!」何故貴方が又、此処に居るの??
後ろでアドニスは不機嫌そうに唸る。
「俺は・・・昨夜、遅かったん・・だ・・・静かにしねぇと・・ぶん殴る・・ぞ」
本当にぶん殴られそうだ。セレスはゆっくり元の体勢に戻る。
「・・・私、朝の散歩に行くわ。」
返事が無い。
腕が離れて、黒い頭は寝返りをうった。
「ありがとう。」
セレスは寝台から離れた。
箪笥から静かに衣類を出すと、寝室の扉をそっと閉じる。
早朝の空気を吸いながら、セレスは歩く。
冷たい空気。張り詰めた空気。
嫌いではない。
それに散歩は、何も考えなくてもいい。
景色を楽しみ、出会う人と挨拶を交わす。
砂浜が見えてきた。セレスは靴を脱いで両手に持った。
セレスは砂浜を裸足で走る。
重い砂と長いスカートは足捌きを取り戻すのに丁度いい。
打ち上げられた流木を避ける。
目に付いた貝殻を転ばないように膝を曲げて拾い上げる。
次に目に付いた物に貝殻を置く。避ける。
右手、左手。右足、左足。転ばない。
自分の日課をこなし終えた身体は、じんわり汗をかいている。
腰に巻いた布で汗を拭く。
砂浜から離れると、足に付いた砂を払い、
靴を履き家路へと向かった。
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鍛錬を始めた頃は出来なかった事が随分出来るようになった。
その事実に喜びを感じる自分がいる。
複雑な思いでセレスは玄関の鍵を開き、家の中に入った。
朝食の支度をして、椅子に掛けた替えの上着を持ち、奥の部屋へ入る。
上着を脱ぐと身体の汗を拭いた。
腕も締まってきた。確実に昔の身体に戻りつつある。
居間に入り、椅子に座りお茶を入れていると、寝室の扉が開いた。
「メシか?」
頭を掻きながらアドニスが起きてきた。
なんだか、馴染んでいる様な・・・。
「食べるの?」
「あぁ。」勝手にカップと皿を手にしてアドニスは椅子に座る。
自分の目の前でまたもや勝手にお茶を入れ、朝食を食べ始めた。
セレスは疑問を口にした。
「どうして家に?」
「こっちに着いたのが真夜中だ。宿は閉まってんだろ。」
「いえ、そうではなくて。鍵は掛かっていたはずよ。
何故、貴方が家にはいれるの?」
「俺は鍵を壊したな。で、ゾルデの錠前屋を手配したのは誰だ?」
「アドニスね。・・・貴方、まさか!」
にやり、とアドニスは笑った。
「遠距離恋愛中だと言ったら、勝手に合鍵を作ってくれた。」
いけしゃあしゃあと言うと、すました顔でお茶を飲む。
「!!」セレスは手をつき、椅子から立ち上がった。
「ゾルデに来た時は、此処に泊まる。」
「・・・勝手に決めないで欲しいわ。」
上目遣いでセレスを見ると、アドニスは凄んだ。
「てめぇ、恩人に向かって大層な口の利き方だな。あぁ?」
恫喝する声。油断ならない赤銅色の瞳。
容姿もそうだが、腕に至っては物騒どころの騒ぎではない。
危険極まりない。
そんな相手に微塵も怯まないセレスもセレスではあるが。
「思うところがあるから、鍛錬してるんだろ。」
アドニスを見下ろすセレスの瞳が剣呑に光る。
凄む、という点ではこちらも負けていない。
白い肌。色素の薄い緑青の瞳は光によって翠にも、蒼にも見える。
スカピア渓谷で初めて見た雪豹を、アドニスは思い出した。
頭上の岩場から相手の様子を窺う
斑紋を身に宿す、灰白色のしなやかな獣。
隙を見せた次の瞬間、雪上で人間は赤錆色に染まる。
錆びた鉄の色をした髪。鉄は血の味がする。
斬鉄姫、オマエは肉食獣だ。草食獣にはなれねぇよ。
「何故、解るの。」低い声でセレスは訊いた。
アドニスは油断ならない。
戦場でも、戦場以外でも。
「身体が締まってる。六、七割ってところか。」
セレスは椅子に座ると無言で朝食を食べ始めた。
「オマエ、仕事してんのか。」
「教会の書庫の整理をしているわ。」
「剣は?」
「・・・持ちたくないの。」
肘を付き、お茶を飲みながらアドニスはセレスを見ていた。
綺麗な作法。市井に埋もれていても、見る目を持つ人間が見たら育ちが判る。
そして人目を引く容姿。
「護身用でも、持ちたくねぇか?」
セレスは口許にカップを持っていく。
答える事を拒否した。
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目の前の女は立ち上がり、皿に手を伸ばす。
「置いとけ。後は俺がやる。」
アドニスは言いながらカップをセレスに向かって差し出す。
お代わりをセレスは注ぐと、ソファーに向かった。
ソファーの上で本を袋に詰めだす。
手が止まり、ソファーの端を見た。
アドニスの荷物と剣。重戦士が持つ大剣ではない。
無言で視線を戻すとセレスは本を全部入れ、袋を抱えた。
「俺が怖いか?」
突然の質問にセレスは振り返る。赤錆色の髪が宙を舞った。
「何故、貴方を怖がらなければならないの?」
アドニスの両眼が僅かに細まる。
「お願いします。」
礼儀正しくセレスは言うと、ぱたんと玄関の扉を閉めた。
完全に剣を捨てる気だったんだろうが、
あの一件で身を守る必要がある、という事は理解したんだろう。
だから鍛錬を始めた。
身体が以前の感覚を取り戻す。
剣と共に生きた自分も戻ってくる。
「私はこの生き方しか、知らないから。」
斬鉄姫はそう言った。
空のカップをアドニスは指で弾いた。
テーブルの上を片付け、流しに向かう。
あの時、俺はてめぇに不覚を取った。
次はそっちの番だ。覚悟しとけ。
食器を流しに置きながら片方の口の端を吊り上げて笑う。
「腰を据えてかかるか。」
両手で濡羽色の髪を撫で付けながら
男は教会に出かけた相手に宣告した。