年がら年中、木刀のぶつかり合う剣戟と、腹の底から絞り出される雄叫びが響く道場が静まり返っていた。
原因は少年、剣丸。
関西呪術協会の長たる詠春に連れられて現れた時代劇に出てくる様な古臭い着物を着付けた少年は、右手を懐に入れ、左手で道場生から渡された竹刀(しない)を拙(つたな)く片手で素振りしている。
天下広しといえど妖魔相手に刀のみで互角以上に渡り合う流派は神鳴流以外に知られていない。
当然、道場破りなど自分の力量をはかり違えた愚か者を除き、ここ数十年は現れていなかった。
初めは子供の戯れと笑った道場生も、少年の佇まいと鬼の首を前にした様な激しい面構え、あまりに自然過ぎて気付かなかった少年の胸前でぶっちがいにされた大刀二本の座りの良さに襟元を正した。
刀は重く長い。
自然、重心は偏り持つだけでも難しい。
剣丸は少年でありながら、その小さい体に大刀二本を雄大に懐深く差し込む佇まいで立っていた。
まるで、刀など持っていない、ただの少年のように。
それは刀と共にあった年月と鍛練の深さを、あまりにも明確にはっきりと示していた。神鳴流は少年を剣士として認め、これを全力で迎える覚悟を決めた。
子供相手に大人気ないと笑うなかれ、神鳴流は遥か昔から妖魔相手に戦い続けた生粋の剣士集団。その歴史には幾度も天才が現れている。それこそ、十にも満たぬ子供がそれまでの歴史を塗り替えた事すら……ある。
お互いに頭を下げる礼をした後に竹刀を正面へ構える。
一見は剣道の試合と変わらないが、防具を着けていない点がいささか異なるだろう。神鳴流の剣士は相手の喉元に剣先をグサリと突き刺さんばかりの中段の構えに攻防揺るぎなく、完成された立ち姿であった。
対して少年、剣丸は見えない空に手を伸ばす様な右片手上段の不格好な構え、竹刀も上手く握れていないのか天井を指す剣先もユラユラと揺れている。
パァン
空まで響く様な高い音が剣丸の頭から響いた。
神鳴流の剣士の一閃は過ず、教科書通りの見事な面を決めていた。余りに見事に決まったせいか、剣丸は呆けたままの表情で打ち込まれるまま。
神鳴流の剣士は更に連撃を重ねていく。
上段右面、左小手、逆袈裟懸け、抜き胴、打ち放題のままに剣丸は立っている。反応は薄く、右上段の構えのままだ。
初めは拍子抜けの表情をしていた周りの剣士達も、やがてその異様さに気付く。
(見られている)
剣丸は普段の猛禽の様な眼光を和らげ、眠たげな眼差しでしっかりと剣筋を追っている。ただ撃たれるままではない。撃たれる瞬間に筋肉を引き締め、正面から『受け止めて』いるのだ。
神鳴流の剣士は手心を加えてはいない。
そして、竹刀ゆえの軽さを活かした『速さ』に悠々と追い付いているのは間違いがなかった。
数分に過ぎなかった攻撃。剣丸からの反撃が無かったので攻防ではなく、一方的な攻勢。
剣丸の体からは湯気が立ち上ぼり、その表面を赤く染めている。打撲の青黒い部分は無い。全て完全に受け止めきられた。神鳴流の攻めが完璧にだ。
「剣丸君、君ばかりが撃たれるのは不公平だ。そろそろ動いてくれないかな」
詠春の呑気な口調に剣丸は苦笑した。この場にいる誰よりも小さい体なのに、その雰囲気は子供にじゃれつかれて困る大きな熊の様に巨(おお)きかった。
そして、その手の中で白革の竹刀の柄が
パキン
と音を立てて砕けちった。
「こんなに柔らかいもの握ったんは初めてだよ」
手の中でグシュグシュと竹刀を『揉みほぐし』、剣丸は道場の隅に置いた大刀を顎でしゃくる。
「真剣(アレ)でやろうぜ、なあ……」
額に汗を浮かせた神鳴流の剣士に向き直り、剣丸は虎が牙を剥いた様な凄絶な笑みを浮かべた。
「あんたも俺を『斬りたい』と思えてきただろう」
神鳴流は退魔の技。その本能には妖魔を斬る事に生涯を懸ける業が流れている。それは、この剣士にも流れている本能であった。
流れる汗が、荒れていた息が、高めていた闘志が潮が引くように体内へと収められる。
体の真ん中でそれらが小さく凝縮され、感情が身体が平らになった様な感覚。
今まで見えなかったものがクリアになった全能感。
一度、閉じて開いた瞳に映る世界は静かなまま劇的に変化していた。
「そうだ、君を斬ろう」
白黒が反転した瞳孔。神鳴流の剣士として一線を越えた覚醒の証。ただ撃たれるだけで、神鳴流の剣士を覚醒させるだけの妖気を剣丸は身体中から匂わせていた。汗よりも濃く、血よりも芳醇に香るそれは神鳴流にとって最上級の獲物の証である。
「長……」
この道場を取りまとめる主が、詠春に伺いを立てる。
止めた方がいい状況だろう。見込みのある剣士ではあったが、神鳴流の剣士として覚醒するにはまだ早いはずの剣士だったはずだ。
それに剣丸の実力もまだ未知数。あるいは『不幸な事故』も起きうる。
「いざとなったら、僕が止めよう」
それだけで、主は引き下がった。
一線を退いたとはいえ、詠春が関西呪術協会の長であるのは誰もが一目も二目もおくその剣腕があるからに他ならない。
その彼が保証するというならば引き下がらざるを得なかった。詠春の額にジットリと汗が張り付き、瞬きした目が白黒反転した『本気』のサムライマスターであっては退く以外に選択肢などなかったのだ。
再び向かい合う二対の剣士。
相手の喉元に剣先を突きつける正眼の構えから、柄を左腰辺りに溜め、右肩までスラリと伸ばした変形八相の神鳴流。
右上段は変わらずに、更に振りかぶった腕は背中につかんばかり、剣先は右踵近くまで伸びる講談にでも出て来そうな異形の構えは剣丸。
開始の声も合図も無い。
お互いに万全の態勢で向かい合い、体に収まりきらず、風船の様にジリジリと膨れ上がるままの剣気が火花が散る様にパチンとぶつかり合えば膨らみ過ぎた風船の様に弾ける。
ミシリ、と剣丸の右腕の筋肉が膨れ上がる。
ミシリ、と神鳴流の剣士が踏み出した足先の板敷きがへこむ。
影が動いた。
そうとしか見えない最速の移動術。瞬動によって神鳴流の剣士は剣丸の目前に潜り込んでいた。
そのまま、全身で押し付ける様に斬りつければ哀れ、剣丸は真っ二つ。
が、
「カハァッ!」
雷が走った。
体を前傾に押し倒す様に剣丸が右腕を振り絞り、目前へと直角に叩きつける。
体に似合わぬ大刀、大きすぎる構え、そのどれをも裏切る速く繊細な抜刀術。神鳴流の剣士が八相に構えたのは幸運であった。
そうでなければ、開き、になっていたのは彼だっただろう。
刀同士がかち合い、火花を散らし、ガチガチとつばぜり合う。
均衡を保ったのは一瞬。
剣丸の刀に押し出されて、神鳴流の剣士は後ろに弾き飛ばされる。
グワリ、と剣丸が左手で腰の右に納めていた刀を掴む。
ズラリ、と左肩を越えた先まで抜き放たれた大刀。
小さい体が振り回される様に不格好に振り上げられた態勢から、ミシリ、と剣丸の左腕の筋肉が呻いた。
先程、神鳴流の剣士が披露した様なただひたすらに速い踏み込みではない。一見は軽く浮き上がった様に飛び上がった剣丸が滑空する燕の様に滑らかな動きで、神鳴流の剣士の眼前にすでにあった。
「クハッ……!!」
笑いかけるような声。
無造作に叩きつける刀を神鳴流の剣士は受け止め、きれずに更に道場端まで吹き飛ばされる。
二撃。
その二撃だけで神鳴流の剣士の指はあらぬ方向に折れ曲がり、衝撃に脳震盪を起こしたのか朦朧とした表情になっていた。
グン、と剣丸の膝がバネを作る。
両手に大刀を握り、大鷲が両翼を広げた様に高く掲げ、目は夜闇にネズミを狙うフクロウを思わせる鋭い猛禽の輝き、口は獲物の喉笛を狙う狼の如く、凶悪な面相を形容していた。
「御免っ!」
影が走り、居ならぶ剣士の一人が瞬動から抜かずの一刀を剣丸の背後から撃ち込んだ。
フワリ、と紙一重で真上に飛び避わす剣丸。
「勝負はついた。追撃するならば流派の同門として助太刀する」
空中にある剣丸へ叩き付けた言葉と共に、剣先を突きつける。
「……クハッ!」
笑い声にも思える吐き出した気合い。
剣丸は背中越しにその猛禽の瞳を据える。
それを了承の証と受け取り、空中で未だ態勢の整わない剣丸へ一閃。奥義が迸る。
「神鳴流・斬岩剣」
岩もを断つ必殺の斬撃は空中の剣丸を確かに捉えていた。
フワリ、と剣丸が空中で体を傾けて避けるまでは。
「なっ!?」
絶句する剣士。
人間が足場の無い空中で態勢を入れ替える奇妙。
翼があるが如く、空を渡る猛禽の鋼刃の両翼は小竜巻となって旋回する。
キンッ
と、刃鳴りが二つ響く。
剣丸の両翼は捻れ、回転は中断され、猛禽は地に落ちる。
「失礼、同門の命は大事ゆえ」
「同じく」
更に二人、瞬動にて剣丸の左右へと剣士が走る。
足場の無い空中で行う虚空瞬動を易々と行うのは、今までの二人より更に格上の証だろう。
状況的には三対一の絶対不利。
されど、妖(あやかし)、伏して笑う。
「クッ、カカ……」
這う様に囲まれた場所より、低く走る。
「カカカ……」
手負いの獣の様に目を血走らせ、全身の毛を逆立てる剣丸の囲いを解かず等距離に走る二人の剣士。
直角の体さばきで、剣丸の体が弾ける様に一人の側へ踏み込む。
「そこは窮地。神鳴流・斬岩剣」
一閃、奥義を二刀で止める剣丸。ミシリ、と床板足下で陥没する。
後ろからは更なる追撃。
「神鳴流・雷鳴剣」
神鳴る雷まといた必殺の一刀が無防備な背中へ落雷の軌跡を描いて振り下ろされた。
キンッ
刃が飛ぶ。
真ん中から真っ二つになった帯電した刀が空中に砕け飛んだ。
「な、に……」
神鳴流の剣士が見たのは剣丸の小さい背中を覆う、丸みを帯びた緑色の『甲羅』。
まるで河童の様なそれであった。
「河童の甲羅は堅くて滑る、らしいなぁ……」
ミシリ、と剣丸の背中が肌色に戻り筋肉が隆起する。
一刀に圧された大刀二本が再び押し上がり、上から抑えつけていた神鳴流の剣士の顔が歪む。
人間の力とは思えない。これでは、まるで、まるで……
鬼と力比べをしているようだ
キン、と抑えつけていた刀を弾き、猛禽の両翼は再び開かれる。
この道場の中で一番小さい体の少年が最も大きく羽ばたく大鷲となる瞬間、最速の影が走った。
「そこまでだよ、剣丸君」
サムライマスターの刃は既に抜かれていた。
「カハァッ!」
正面に現れた、この場の最強に剣丸は最大の力を持って二刀を獣が獲物の喉笛を噛み千切る様に両側から叩き付けた。
「神鳴流奥義」
世界から音が消えた。
そんな錯覚を覚えながら、剣丸は背中の筋肉を張り詰め、鬼が鬼足らん為に練り上げた『武』を繰り出す。
「斬岩剣」
一刀一閃。
鬼の力を込めた二刀は弾かれ、鋼刃の両翼が再び現れる。ただし、それは雄々しく羽ばたくそれではなく、力無く泳ぐ小鳥のもがき。
音を置き去りに走った剣閃。
血しぶく剣丸の胸板。
刀二本は床板に転がり、少年の体は戸板を倒す様に仰向けに軽い音を立てて崩れ落ちた。
それがつまり、剣丸の人間との最初の真剣勝負であり、初めての敗北の記憶である。