真っ白な布団の中で、小さい体を起こし、剣丸はボンヤリと周りを見渡した。
山水画の描かれた襖、イグサの匂い香る畳、しっとりと年月を重ねた天井の深み。
今まで見た事が無い人間の住む家の中。
そして、
ズキリ
と真一文字に痛む胸の傷。
(ああ、負けたのだなぁ)
人間に恐れられる為に研鑽された技を身の証に剣丸は立っていた。
幼き身で、力を抜けばすぐほどけてしまう精神を奮い立たせていたのは妖(あやかし)の矜持。
だが、その技を容易く凌駕する人間は当たり前の様に居た。それが悔しくて悲しくて、剣丸は熱く熱を持ち始めた胸の傷に手を当て、生まれて初めて泣いた。
剣丸の処遇は簡単にまとめてしまえば、神鳴流での保護となった。
荒削りではあるが、神鳴流の剣士に対抗し得る剣腕と不可思議な体術は達人の域にある剣士達も興味深いものだった。
たが、剣丸は未だに幼い子供に過ぎずその身に刻まれた技を他人に伝えるには未熟である。
そこで、人間社会に慣れる意味や義務教育的な意味合いも含め、小学生として学校に通う事が決まったのだが、これは結果を言えば失敗に終わった。
妖怪の気質、妖気を孕む剣丸は居るだけで他の子供を恐怖させ、狂おしく泣かせた。
子供故の鋭い感性は剣丸の外見の奥、本質を敏感に感じとってしまい、剣丸に人間社会に溶け込む難しさを教えた。
妖気を抑えるには意識を沈め、目を閉じ、呼吸を鎮めるしかなく、それは結局、寝ているのに変わりなく、剣丸は……
「また、消えてしまったかい」
平伏する神鳴流の関係者に詠春は苦笑する。
剣丸は学校に通いながらもフラリ、と唐突に失踪してしまう。
すぐに見つかる事もあれば、数ヵ月も行方知れずになる事すらある。
見つかる時は決まって、全身傷だらけのボロボロの格好で猛禽の様な目をギラつかせ、身体中からみなぎる妖気をたぎらせていた。
時期を同じくして、人外の怪異や異変が噂され、剣丸の閉じたワニの顎の様な固い口から言葉を絞り出させれば
「匂うんだよ、闘う意志みてぇのが。それにひかれて、決闘狂い、殺し好き、弱いものいじめが趣味の奴等が集まる。妖(あやかし)ってやつさ、全部が全部、皆が皆、何処か『外れ』ちまった奴等が集まる。最も……」
決まって剣丸は底が抜けた様な空っぽな笑いかたをする。
「頭のネジか人の道を外しちまったかはそれぞれさね」
日本を裏から『力』で抑える関西呪術協会すら把握仕切れない『裏』の更に『裏』。
平和ボケした日本の暗部とも言うべきそれは、平和が際立つ現代だからこそ、小さく深く凝縮された闇の部分なのだろう。
そこに関わる事に忌避感はなく、そこに身を浸すのが当たり前の様な剣丸に不安を感じる者は多い。
関西呪術協会の長たる詠春も剣丸の危うさは理解出来るが、それ以上に
「剣丸君に『普通』の人生を歩む選択肢を与えたい」
そう、語らせた。
あるいは、実の娘である木乃香(このか)が人並み外れた魔力を持って産まれたからこその親の欲目か。
もし、人間に産まれながら妖気を孕み、妖(あやかし)の道を歩む剣丸が普通の人間としての生を歩めるならば、自分の娘である木乃香も何も知らずに済む退屈な、だからこそかけがえのない普通の人生を歩めるのでは、と。
そう、願う事を愚かな親の、しかし、切実で当然の幸福を実の娘に願うのを止める権利は誰にも無かった。
「麻帆良、ねぇ……」
地図を頼りに京都から歩く事、『2日』で剣丸はそこに立っていた。
『千里を一歩で歩く法』
とある妖怪の怪しい健脚術である。
元々は人間の使う瞬動術を参考にした瞬間移動的なものを目指していたはずが、『如何に長く遠くまで歩けるか』にすり変わった顛末がある。
一里は約4キロ相当なので、4千キロを一瞬で移動する術に『なるはずだった』。
最早、この術を研究する者はこの世に居ないし、1日で約3百キロまでしか出来ない剣丸はこれ以上にこの術を究める事は不可能と言えた。
最初は1日三十里(約120キロ)。そこから二百年をかけてようやくこの域なのだ。およそ、剣丸の人生全てを賭けても、千里はもう……走れない。
そんな妖怪の技を剣丸は持って麻帆良にある。
「さては幸い、果ては花咲く、凡(すべ)ては全く事も無し、と」
無意識にまで身に付いた猛禽の眠る瞳を薄く閉じ、大刀二本を胸元にぶっちがい、妖気を孕む少年は麻帆良に這いより侵入(はい)りこむ。
これがつまりはプロローグ。
魔法の世界に妖(あやかし)一匹現れて、交わり混ざりかき回す。
仕上げは悲劇か喜劇か……闘劇か。
役者が望む未来はそれぞれに。
役者が望む夢はそれぞれに。
ただし、忘れるなかれ。
その中に妖が一匹立っている。
それがつまりは最後に乗せた旗印、最初に目につく旗印。
その少年、妖(あやかし)につき。