長谷川(はせがわ)千雨(ちさめ)は孤独である。
両親は、居る。
同級生や友人も居る。
だが、世界を共にする隣人は居ない。
同じ視点で共感し、同じ世界を共有する隣人はない。
表面的にはつつがなく、実際は体を小さく縮ませて浅く呼吸を繰り返し、自分が壊れてしまうのを防ぐ日々。
あるいは若者の至り易い思春期特有の精神状態と、一笑に伏される程度のものなのだろう。
人がホームランボールみたいに空を吹っ飛んだり、暴走した二足歩行ロボが人間さながらの滑らかさで走ったり、細身の少女が巨漢の大人を力で圧倒したりするのを非常識と思う精神が常識的でない、と認識されるならば。
なるほど、『おかしい』のは私なんだろうな。
そう、長谷川千雨は小さく首を折り、マフラーの中で溜め息をついた。
冬は息が白くなるのが嫌いだ。
どこもかしこも『おかしい』麻帆良でここだけは当たり前の様に振る舞う事柄に、頭の中が引き裂かれるみたいな気分になる。
非常識なら全部非常識になればいい。
当たり前のフリなんかするな。
と、心の中で八つ当たりをする。
イライラが募り、石畳の端っこを強く蹴ればその分だけ爪先が痛くなる。寒さと痛みで頬が紅潮し、涙が出そうになった。道行く人達はそんな千雨など気にせず、足早に通り過ぎていく。
そんな人達に恨みがましい視線を送り、千雨はまたトボトボと家路に着く道を歩き始めた。
何処に行くにも、家に帰るのも辛く苦しい。
千雨には逃げる場所は無かった。
それは何でも無い晴れた春の真ん中だった。
春休みの後にはまた、憂鬱な学校が始まりかと思うと千雨はやりきれなく、何の考えもなく散歩に繰り出していた。
非常識が街ぐるみで起こる麻帆良学園都市だが、流石に真っ昼間の眠くなる様な陽射しの中では誰もが夢心地のフワフワした気分で居る。
穏やかな午後だった。
石畳に降る暖かな陽射し、新緑の芽生え始めた街路樹、飛ぶのに慣れていない小鳥が気持ちよさげに鳴き、蝶や蜂も心なしか穏やかに花と戯れている様に見える。
心に余裕があるという証なのかもしれない。
うーん、と背伸びをして千雨は息を大きく吸い、ゆっくりと吐き出した。
欠伸がでかかっていたのか軽く出た涙に視界がぼやけ、気の抜けている自分に苦笑しながら、涙をぬぐった。
開けた視界に大刀が映える。
白い陽光の中、こちらに半身を開き、腰を深く落とした構えは墨で輪郭をなぞった様にはっきりと荒々しく、鯉口に右指を添え、右腰から左手で抜いた大刀が頭上で半円を描き、眩い光の軌跡を残して降り下ろされた。
ただひたすらに異様で、
ただひたすらに美しい。
跳ね散る赤の流滴すら一幅(いっぷく)の水墨画から抜け出た様な、儚くも力強い流線を描く。
ドォッ、と音を立てて倒れる大きく赤い『何か』と
チィン、と陶器を指で弾いた様な耳に残る音を聴きながら千雨は新たな涙を浮かべ始めていた。
視界に映るのは肩まで伸ばした黒髪を白紐一本で荒々しくまとめた少年が一人。
ゴツゴツした黒塗りの大刀を懐に差し、ゆっくりと歩く度にガシャガシャと交差する刀は子供など丸飲みに出来る虎の口のよう。
開けているかどうか判らない目の奥に光る鉄板すら射抜く強烈無比な眼光。
何故、こんなものが歩いているのか。
何故、こんなものが麻帆良には居てしまうのか。
一瞬でもここも悪くないと思った自分が恨めしい。
今まで、裏切られ続けてきたのだ。これも、また当たり前の事なのに。ただ、自分が恨めしかった。
こちらに歩み寄る姿は悠然としながら、しっかりとこちらの一挙手一投足を捕らえ、近付く度に空気の壁が全身を圧迫してくる。
それでも震える両足は逃走の役には立ってくれない。蛇に睨まれた蛙とはこの事か。圧倒的存在を前に恐怖を越えて絶望が、本能を越えて諦めの境地が拓けてしまう。
訝しげに首を傾げた人間の形をした猛獣が、ゆっくりとこちらに歩いて来る。
逃げなくては、何処に?
何処にも逃げ場なんてないと何年も思い知らされて来たじゃないか。今更、都合よく逃げ出せる場所なんてない。また、私は非常識に非常識と言われるに違いない。
だって、歩いて来る少年は中身はともかく、姿形はまるでただの人間の少年そのものなんだから。
諦めと極度の緊張から体を硬くし、目をしかめる位に閉じた千雨の眼前を柔らかい風が過ぎた。
「目、開けてみな」
獰猛な吠え声ではなく、意外な猫なで声。
恐る恐る開けた目には右目をつぶり、もう片方も薄く目を閉じた『普通の少年』がいた。
「まさか、今時に眉唾をする奴が居やがるとは思わなくてな。恐がらせちまってすまん」
ぶっきらぼうな、でもこちらを気遣っているのが判る声音に千雨は、その当たり前の反応に思わずすがり付いてしまった。
「そりゃあ、あんた、ついてなかったねぇ」
千雨の口から飛び出る怒濤の愚痴。
竜巻もかくやという暴風、荒波もかくやという波濤。
それらを大様(おおよう)に受け止めて出た言葉は小波(さざなみ)の様に小さかった。
「それだけ?」
「その程度さ。他人から見りゃあ」
当たり前の様に頷く少年、剣丸に千雨は大きく肩を落とし、息を吐く。
やはり、理解はされないのか。やはり、私は『変わり者』なのかと絶望した。
考えて見れば昼日中に刀を剥き出しで歩く人間がマトモなはずもなかったのだ、と恨めしい視線を剣丸に送る。
「そう、恨みがましい目をしなさんな。麻帆良(ここ)がちょいと『おかしい』とは俺も思っているんだ」
千雨の胸が少し弾む。理解してくれる。私と同じ世界に居る人間がここにいる。それが、その少しの共感が千雨には何物にも替えがたい嬉しい事だった。
「だが、それが有り難いとも思う奴等も居る。そいつは理解しなきゃいけないぜ、あ~……」
何かを探す様に少年は千雨の顔を見る。
「……ああ、長谷川千雨。千雨でいいよ」
会ったはしから愚痴大会を開催したため、自己紹介すらしていなかった事に思い至り、思っていたより深刻に自分が追い詰められていた事実に驚く。
「いきなり名前呼びはなぁ……まあ、いいか。俺は剣丸。ツルギでもケンマルでも好きに呼びな」
「じゃあ、マルさんで」
「やっぱツルギマルってしっかり呼びな」
冗談だよ、と千雨は笑った。
そう、冗談すら言う余裕すらなかったのだ。
笑いながら千雨は大きく深呼吸した。
たっぷりの酸素を吸い込んで膨らんだ肺から、身体中に溜まった二酸化炭素を存分に吐き出す。
それだけで狭く暗く感じていた世界が真っ白に開けた気がした。