朝が苦手だったのはもう何年も前の話。朝食を作るというルーティンが入ってから変わった。
眠い目をこすって制服に着替えると、スイッチが入って体が動く。
僕の周りは静かで、世も静か。リビングに入るとそれがより感じられる。日が昇り始めたところでまだ暗いのも拍車をかけていた。
璃奈が起きてくるまでまだ一時間以上。いつもどおり、弁当を作り始めないと。
顔を洗って無理矢理目を覚ますと、気配を感じて、僕は振り返る。
あの女性だ。
「今からごはんの準備をしないと」
「なら、私に構ってる暇はないわね。代わりに誰かに話を聞いてもらわないと」
用意していたかのように、彼女はつらつらと話す。
「話せる人はいないの?」
「こんなこと、話せるわけないじゃないか。だって……」
喉が詰まる。
「言って」
「だってあなたは……いない」
絞り出すように言葉を発すると、彼女はそれがとても大事だと言わんばかりに何度も頷いた。
「そう。重要なことよ。私はいないの。忘れちゃいけないこと」
出尽くしたと思ってもため息は出る。今回もまた、だ。
どれだけ言を重ねても、最後はこの事実を突きつけられて、突き放されてしまう。
「本当に、話せる人はいないの? あなた自身のことをさらけ出せる人は?」
目を逸らして、今まで出会った人たちを思い返す。その中で、正面から話を出来る人は……
「いない」
誰の顔も浮かばなかった。
△
「ふっふっふ、それでは愛さんの鉄板捌き、とくとご覧じろー!」
「おお~。話に聞いてた愛ちゃんのもんじゃ焼き、楽しみ~」
鉄板捌き? と首をかしげながらも、僕たちはその手際に感心する。
細かく切られた豚肉にそばにキャベツを鉄板の上で炒め、しんなりしてきたら刻む。真ん中を凹ませて、出汁を入れて、ふつふつと言い始めたら混ぜてさらに刻む。
宮下さんの慣れた手つきを見てるだけで、結構楽しい。
今日はみんなの用事が重なって、空いていたのはこの三人だけ。
練習をしてもいいが、あまりにも寂しいということで今回はお休み。滞っていた学生の本分ってやつを進めるため、勉強会をした。
学科が違うと勉強範囲が違うのもあって、お互い教え合うことも行った。
宮下さんは文武両道。僕らよりも知っている知識が多く、教えられることも多い。
エマさんは外国事情。特に彼女の故郷であるスイスと日本の違いについては面白い話がたくさんで、聞き入る。
僕は音楽。スクールアイドルとして必要な基本知識を渡した。
こういった機会はなかったけど、学生としてもスクールアイドルとしても結構重要なのかもしれない。
三人とも熱心に話し合い、熱中していると外はすっかり暗くなっていた。気付いたのは、ぐう、とお腹が鳴った時。
晩ごはんはどうしようかな。そういえば、冷蔵庫に食材はあまり残っていなかったはずだ。買いに行かないと。なんてことをぽつりと漏らすと、宮下さんが家に誘ってきたのだ。せっかくだから、家のもんじゃ焼きを食べてほしいと。
今日は璃奈は外食してくると言ってたから、僕は彼女の厚意に甘えることにした。
「ボーノ!」
小さなコテで掬って食べる。
明太子や餅を混ぜたものとか様々な種類があるが、ご馳走になる側が初めてというのもあって、スタンダードなのを作ってもらっている。
具材を見てお好み焼きみたいだな、と思ったが、食感も味もそれとはまったく異なる。
とろとろとした口当たりはなかなか新鮮で、熱くてもするすると食べられる。長く焼かれたものはカリカリした歯ごたえ、焦げも美味しい。
いわゆる粉もんというのはそれほど食べたことはないが、なるほど繁盛するのもわかる。
「ところでさ、聞きたかったことがあるんだけど」
次々にもんじゃ焼きを焼きながら、宮下さんは言う。
「みーくんって、なんでエマっちのことだけ名前で呼んでんの?」
小さい一口をごくりと飲み込んだ僕は、エマさんをちらっと見る。
「私からお願いしたんだ。堅苦しいのっていやでしょ?」
「うーん、それだけであのみーくんが……」
「それだけってわけでもないけど」
説明するより、見てみるのが一番。
僕は衝撃に備えて、心の準備をして、口を開いた。
「問題あるなら、ヴェルデさん、って呼ぶけどね」
「エマ」
びくり、と宮下さんが肩を振るわせた。
エマさんの表情はいつもの通りなのに、声はまるで問い詰めるかのように低い。
「エマって呼んで。なーんにも問題ないから、ね、愛ちゃん」
「う、うん」
あの宮下さんですら、たじたじとしている。
おかしいなあ、もう暖かい時期で、熱いもの食べてるのに体が震えるぞ。ゴゴゴゴゴという擬音も聞こえてきそうだ。
この話をすると、エマさんは有無を言わせない勢いを放つ。
抵抗するとまずいことが起きる気がして、何も言えず、結局折れてしまったのだ。
僕と宮下さんはお互い引きつった笑みで耳打ちする。
「これは確かに押し切られてもしゃーないね」
「夏もすぐそこだっていうのに底冷えしちゃったよ」
「どうしたの、二人とも?」
「いや、なんでも!」
二人そろって、ぶんぶんと首を振る。
本当に怖いのは、いつも怒ってる人じゃなくて、ふだん怒らない人。特に温厚なエマさんを怒らせたとあっては、天変地異級のことが起きても不思議じゃない。
今のは見なかったことにして、宮下さんは話を続ける。
「最初からそんなに仲良かったの?」
「そうでもないよ。きっかけは校内で迷ってるエマさんを案内して……」
「その後、食堂にいる湊くんと喋るようになってから、かな?」
「ふーん。で、スクールアイドル同好会を作って、今に至る、と」
「そんなとこ」
虹ヶ咲は広い。三年生でも迷う生徒は少なくないし、入ったことも見たこともない教室だっていっぱいある。
当時ここに来たばっかりのエマさんにとっては、魔の森に見えても仕方ない。
「愛ちゃんは? 前から湊くんとは知り合いだったんだよね?」
「うん。前にも言ったけど、みーくんって色んな部に協力貰ってたり、アドバイス聞きに行ってたりしてたんだよね。アタシもいろんなスポーツ系の部活に出てたから、みーくんと顔合わせる機会は多かったってわけ」
どの部へ話しに行っても、なぜかいつも宮下さんと会うのが不思議だった。
一年生時からすでに彼女が『部室棟のヒーロー』と呼ばれているのを知ったのは、バスケ部の部長に彼女の素性を訊いたからだったか。
そこから、どういう噂の回り方をしたのか、僕が宮下さんを気にかけているという話が広がり、彼女のほうから話しかけてきたのだ。
あらぬ噂の沈静には、そこから一か月ほどかかってしまったが。
「湊くんって、学校でどれだけの部と交流があるの? 服飾同好会や手芸部、ハンドメイド同好会にコネがあるし、演劇部の部長とも仲が良いんだよね?」
「えーと、体育会系と美術系は一通り知り合いで、あとは天文部、科学部、放送部、軽音楽部、調理部、新聞部、魔法少女研究部……」
「ちょちょちょ、ちょっと待った。思ったより多いね……」
振り返ってみれば、それなりの数を相手にしているな。宮下さんですら、ぽかんとしている。
「まだ部だけしか言ってないよ。同好会も含めたらもっといるのに」
「交流無い部を挙げてったほうが早いんじゃ……」
「誤爆部とは一切喋ったことないな」
「そんなのあるの!?」
「しかも同好会じゃなくて部!?」
驚く二人を尻目に水を飲む。
他にもたぶん、関わりがない部はあるはず。無数の部がある虹ヶ咲の全てを把握するのは無理だ。いや、一人だけ全校生徒の名前から学科から覚えてるやつがいたな。
「それだけ関わりがあると、頼み事もされそう」
「曲作ってくれってのが多いかな。一つ受けると際限ないから断ってるけど」
音楽系の部活からの依頼は少なくない。演奏するのと作曲はまた全然別の話だから、頼ることに関しては何も言わないけど、何も僕じゃなくても。
「ま、湊くんはお人好しだからねぇ」
「『そういうとこはキライ』だったっけ?」
「んーん、そこが湊くんの良いところ。私が言ったのは、湊くんが頑張りすぎて潰れないか心配ってこと」
「エマっちの言うこともわかるよ。アタシたちの練習も見て、曲も作って、ホームページだって運用してるのはみーくんだし……いつ寝てんの?」
「ちゃんと夜寝てるよ」
そう返したが、二人とも口を尖らせて不満げに目を合わせた。
「本当だと思う?」
「いーやぁ、怪しいと思うよ。りなりーが、みーくんの寝顔見たことないって言ってたくらいだし」
「本人を目の前にして君たちね……」
まったく、そんなに信用ならないかね。体力使って勉強も惜しまずやってる君たちのほうが心配なんだが。
「ほんと、休める時には休まないとダメだぞ~?」
「分かってるよ。分かってる」
目の前で倒れられても困るだろうしね。もしぐっすり寝られるなら、せいぜい学校の中では元気に振舞えるくらいには寝ておくさ。
訝しむ二人の視線から逃れるように、僕はまた水を飲んで誤魔化した。