学年の違う教室に行くのはなぜか緊張する。学科が違うとなればなおさら。自分の領域と違うからか、知らない人がいるからか。
だが、国際交流学科の教室には窓際に座る女子一人以外は誰もおらず、だいぶ緊張がほぐれた。
ぼうっと窓の外を眺めるその人、桜坂しずくは、僕が入ってきたことにも気づいていない。
「練習してるって聞いたけど、休憩中かな」
こほんと咳払いして存在をアピールする。彼女は驚くでもなく、ゆっくりとこちらを振り向いた。
いつもの柔和な笑顔はなりを潜め、影が差している。それはそれで目を見張るような美人に映るが、演技ならともかくプライベートで見たくはない。
「湊先輩……」
「聞いたよ、演劇部部長さんから」
前の席に座りながら言うと、桜坂さんはそれだけで察して、目を逸らした。
「隠してて、ごめんなさい」
「いいよ別に。再オーディション受かれば、嘘じゃなくなるんだから」
『頑張ります』や『受かってみせます』とか、いつもの彼女なら前向きな言葉を口にしてただろう。桜坂さんは首を横に振るだけだった。
「役のこと、聞きました? 自分のことを表に出すことを怖がっている主人公が、自分自身と向き合って、最終的には自分を曝け出すんです」
悔しそうに唇を噛んで、必死に何かを押し殺そうとする彼女は、決して目を合わそうとはしなかった。
「私には、出来ません」
ひどく震えた小さな声。
「嫌われるのが怖いんです。私は、小さいころから昔の小説や映画が好きです。変ですよね。みんなが外で遊んだり、おままごとしたりしてるのに、私はずっとそんな変な子で……だから、必死に、隠してきたんです」
実際、変だと言われたんだろう。奇異の目で見られ、子ども特有の遠慮のない言葉を浴びせられたこともあったかもしれない。心無い言動を放つ大人だっている。
それがどれだけ幼い桜坂さんを傷つけたか。高校生になってもこんなに苦しんでいる彼女を見れば、その深さが窺い知れる。
凝り固まってしまった価値観を押し付けられて、彼女は自分に嘘をつき続けて、周りに合わせたんだ。
周りが望む『桜坂しずく』を演じ続けてきた。自分を曝け出すということがどういうことか分からなくなってしまうくらいに。
それを、僕は正しいとは言えない。傷つくのを怖がって自分を殺すなんて、そんなこと正解であってほしくない。
「普通じゃないのは、嫌われることとイコールか?」
熱くなってしまいそうな感情を抑えて、できるだけ優しい声色で話す。
「例えば……中須さんは普通かな? あれだけ自分のことを可愛いって公言するのはかなり変だと思うけど。表情が出せない璃奈も、普通じゃない。で、そんな一年生の友達二人のことを、君は嫌うか?」
「き、嫌いなわけないじゃないですか!」
「だったら……」
だったら、君だって同じだ。君が思うように周りだって思ってる。
そう言いかけたが、彼女は苦々しい顔をする。
「理屈はなんとなくわかるけど、自分は例外かもしれないって顔」
「!」
その悩みもわかる。
大勢のことに当てはまることも、『変な自分』には当てはまらないんじゃないかと思い込んでしまう。だからいくら理由づけて説明されても、いまいちピンとこない。
小さい時からずっと思ってきたことは、今さら簡単には変えられないのだ。
「だったら、よし、まずは一人、僕のことを信じてほしい。君にとっては難しいことかもしれないけど」
人差し指を立てて、それで自分を差した。
「周りがゲームとかテレビとか、走り回る遊びに夢中になってる時、古い作品を好んで見る。まあ、普通じゃないとは思う。ちょっとばかしね。でもいいじゃないか、古い作品。当時の物には、その時にしか作れない味があるしね」
有無を言わせず、余計なことを考えさせないように捲し立てる。
「その話を聞いても、僕は君のことを嫌いになんてならないよ。嫌いになるのが無理なくらい、桜坂さんは魅力的じゃないか」
一つも嘘じゃないことを示すために、真っすぐに目を見る。
「演劇もスクールアイドルもひたむきに頑張ってるし、気が利くし、素直。かと思ったら譲れないところは譲らない決心の固さもある」
それに、と僕は続ける。
「時折見える君の素顔は、何よりも綺麗だから」
呆然と、桜坂さんが固まる。
「って、ごめん。なんだかクサい台詞吐いちゃったね」
思い返したら、キザ男みたいな言葉を吐いてて恥ずかしくなってきた。顔が熱くなって、誤魔化すように頭を掻く。
そんな僕の様子に、桜坂さんはくすりと笑った。
「ふふ、そうですね。演劇の台本だったら、書き直しを要求してます。でも、私としては……桜坂しずくとしては、とても嬉しく思います」
うん、やっぱり、笑ってるほうがいい。そのほうがずっと綺麗だ。
ガラガラガラ!
お互いに見つめ合っていると、乱暴に扉を開ける音が聞こえた。そこには、ぜいぜいと肩を上下させる中須さんがいた。
「見つけた!」
「か、かすみさん?」
「遅いよ、中須さん」
「だったら、『教室にいる』なんて曖昧なメッセージ送ってこないでくださいよ!」
ぷんすこ怒る中須さんを無視して、僕は立ち上がりながら、最後に桜坂さんに一言。
「君が思うより、君のことを好きな人間はたくさんいるよ」
放っておけないと思って、こんなに息を切らして走ってくるくらい、君のことを思っている親友がいる。
入ってくる中須さんと交代する形で、僕は教室を去ろうとする。後はお若い二人で、ってやつだ。
「後は任せるよ」
去り際にそう言うと、中須さんは親指を立てて返した。
△
練習場所に足を運ぶと、みんな休憩しているところのようで、汗をタオルで拭いていた。
「璃奈」
「お兄ちゃん」
妹の隣に失礼して、腰を下ろす。
「しずくちゃん、大丈夫そう?」
「たぶんね。きっと中須さんがどうにかしてくれるよ」
桜坂さんにとって大事なことを、必要な言葉を、中須さんはきっと伝えてくれる。
包まず言うと馬鹿ではあるが、感情がストレートに出ているぶん説得力がある。嘘はつかないって信じさせてくれる。
「お兄ちゃんはそうやって、自分のこといつも言わない」
問題が解決するってのに、璃奈は不満げに僕を見上げた。
「愛さんの悩みも解決したって聞いたけど……」
「解決したんじゃないよ。一つの考え方を示しただけ。踏ん切りをつけたのは、誰でもない宮下さん本人だ。どれだけ言われても、自分が踏み出さなきゃ意味がない」
結局、自分だ。
周りが間違っていると言ってきても、どうするのかは自分。
桜坂さんがどういう決断をするのか、彼女次第なのだ。
△
「お邪魔しま~す」
高咲さんと一緒に、集会や部の発表などに使われる多目的ホールに入ると、そこにいるのは演劇部員たち。
僕らに気づいたのはほとんどおらず、みんな声出ししたり、台詞を復唱したりしている。
今日は、桜坂さんが降板させられた演劇の再オーディションの日。
枠は一つ。しかも主役とあらば熱の入りようは段違いで、ピリピリとした緊張感が伝わってくる。
「わあ、うかつに喋れませんね」
「ソロアイドルだと、オーディションはまあしないからね。あまり味わうことのない張り詰め感というか」
こそこそとこの空気を邪魔しないように囁き合う。
例に漏れず、演劇部も有名で、かなりの賞を貰っていたはずだ。特に部長さんは千変万化の声と、雰囲気を自在にスイッチできるのが得意で、部員から畏怖の念で見られているらしい。
「湊先輩、侑先輩!」
さてどこに座ろうかと思案していると、見知った顔がぱたぱたと近づいてくる。
今日の目当て。桜坂さんだ。
「どうしてここへ?」
「再オーディションをやるから、見学に来ないかって演劇部の部長に誘われてね」
「で、せっかくだからって、来ちゃった。集中してるとこ、邪魔しちゃったかな」
「み、見ていくんですか?」
「そのつもり。演劇も君の一部なら、知っておくべきだしね」
「うんうん、私もしずくちゃんの演技見てみたかったし。応援してるよ。私、しずくちゃんの色んな一面見たい!」
高咲さんはぎゅっと手を掴んで、目を輝かせながら桜坂さんにエールを送る。
「準備はできてる?」
「自分なりに、私自身と向き合ってみました。まだ桜坂しずくの全てを曝け出すのは怖いですが……でも、本当の私を見てもらって、好きになってもらいたいんです。私を支えてくれる、みなさんに」
怖がらず、すらっと答えるあたり、だいぶ吹っ切れたようだ。
これも演技なら大したもので困ったものだが、オーディションを受ける時点でそれはないだろう。
さて、もうすぐオーディションが始まる。
その前に、誘ってくれた演劇部長に礼を言う。
審査する側にもいろいろと準備が必要なようで、台本だとか採点するための紙だとか、客席通路に置いた机に広がっていた。
「どんなトリックを使ったのかな?」
「何のこと?」
「しずく、良い顔をしてた」
「ほんの少し、お節介を焼いただけ」
「ほんの少し、ね」
「それより、アレ、忘れてないよな?」
「しずくが受かったら、エンディングにステージで踊らせる。先方にも、顧問にも、みんなにも納得してもらったよ」
よかった。だったら、桜坂さんにはしばらく演劇部と同好会を同時に頑張ってもらわなきゃな。
無茶なスケジュールになるかもしれないけど、彼女なら出来る。
「だからといって、しずくが絶対に受かるわけじゃ……」
「わかってる。でも僕は信じてるから」