どんどんと陽が落ちる時間が遅くなっていく。放課後でも日差しが明るくて、夕方はまだ遠いと錯覚させられるほどだ。
そのせいでまだ余裕があると勘違いしてしまい、気持ちがゆったりしてしまう。
いつも通りみんなの着替えを待つ間、食堂の椅子に乗っけた腰がいつもより重い。
桜坂さんはあれから相変わらず、演劇部とスクールアイドル同好会の掛け持ちをしている。
しかしやる気は前よりもさらに感じられるようになって、表現の幅が広がったように見える。
無理してる様子もないし、固さがなくなったのは良い兆候だ。
突然、かちゃ、と目の前にカップとソーサーが置かれた。
持って来た主を見ると、そこには爽やかな表情を携えたイケメン女子、演劇部の部長がいた。
「これは?」
「お礼」
「なんの?」
「しずくのこと。君が相談に乗ってくれたおかげだって言ってたよ」
言い返そうとすると、それよりも早く彼女は制した。
「いいから、受け取ってよ。君がためになる話をして、しずくが一皮むけた。それが事実なんだから」
問答無用、といった口ぶりだ。このぶんだと何を言っても無駄そうだな。返品できる物でもないし。
「わかったよ、貰っておく」
カップを手元に引き寄せて、淹れたての香ばしい匂いを堪能する。決して詳しいわけではないが、良いか悪いかくらいは分かる。
さすが虹ヶ咲。メインの客は学生だが、手は抜いてない。
「劇、感動したよ。君がまるで、本当にもう一人の桜坂さんに見えた」
「聞けてよかった。上手くできてたか聞けなかったから」
「絶賛されてただろ?」
「君から聞きたかったんだ」
「聞けてよかったか?」
「もう一声」
「最近の高校生はとんでもないと感じたよ」
「ありがとう。それは君もだよ、湊」
自分に言い訳をしようとする主役は桜坂さんが、それに対して本音をぶつける心の内は彼女が担当した。
ウィッグを被って、声色も変えて桜坂さんそっくりになった彼女にはびっくりした。知っていても腰を抜かしかけたほどだ。
それだけのことができる演技力もさることながら、あの脚本に、ステージに、歌。全部が桜坂さんと彼女にかっちりとハマっていた。
……どこまでが彼女の思惑なのか、なんて勘繰ってしまうが、いまさらそんなことはどうでもいい。
「桜坂さんの心配はなくなったみたいだね」
「それどころか前よりもっと活躍してるよ。変幻自在の大女優の卵として」
ニヒルな笑みを浮かべて、ウインクしてくる。
なるほど女子にもモテるという噂に納得できるくらい嫌みのない整った顔。男役をやった時に上がる黄色い歓声も仕方ない。
「お互い、後輩にはやきもきさせられるみたいだな」
「後輩を導くのが先輩のお仕事でもあるからね。そこはどうしても避けられない道だよ」
「先輩のお仕事……ねえ」
それが何なのかわかるほど、先輩経験はない。
「そういえば、湊が部活に入ったのは三年になってから、だっけ?」
「そうだよ。それまでは帰宅部」
「その割には、立派に先輩を務めているじゃない。まさか君が、マネージャー以上のことをするなんてね。それも女の子相手に上手く」
「どうだか。結局僕がどうしても、何も変わらなかったのかも」
果たして、僕がいて何かが好転したことはあっただろうか。どの結果も、遅かれ早かれじゃないかという印象だけど。
「…………」
急に黙りだした彼女へ顔を向けると、呆れたような目が返ってきた。
「あの劇、好評だったよ、しずくの歌も含めて」
「いっぱい練習してたからね」
「……あの曲自体も、評価が良かった」
「ああ、あの部分だけ動画載せたけど、コメントもほとんどが好意的なものだった。君の言う、一皮むけた桜坂さんが好かれたみたいだね。最近じゃ、前よりもある程度わがままを言うようになった」
「はあ……」
今度はため息をついて、またしても呆れたようなジト目になって、腕を組んだ。
「少しくらい自分の功績を誇ったらどうなの? しずくを立ち直らせたのもあなた。曲を作ったのもあなたでしょ?」
「だからって、僕の手柄だーなんて言うつもりはないよ。あれは、君たち演劇部の協力があって、桜坂さんの努力があっての結果だ」
周りと本人の力で掴み取った成果があの舞台だ。功績を誇るだなんて、厚顔無恥なことはできない。
「前は、そんなんじゃなかった」
「前?」
「スクールアイドル部が出来たくらいの時、あなたはもっとぎらついてた。いろんな人にいろんなことを聞いて回るだけの情熱があって……もっと自信を持ってた。『何も』なんて、そんなつまらない冗談を言う人じゃなかった」
まるで心底友達を心配するような眼差しで、訴えかけてくる。
その視線から逃げるように、僕はテーブルに目を移した。
「何があったの?」
僕はコーヒーの湯気を目で追いかけるだけで、何も答えなかった。
△
桜坂しずく。
普段はお淑やかながら、真面目で熱血な面もある、女優を目指している女の子。
個性ある虹ヶ咲スクールアイドル同好会の中でも真面目な部類で、暴れ気味な中須さんやちょっとズレ気味な璃奈を抑える役目も自ら行っている。校内のどこかで寝ている近江さんを起こしに行く役割も買って出たくらいだ。
遠慮がち……でもあるはずだったが……
PCを持ったまま、部室のソファの端へ移る。そうすると、すすすと近づいてくる影があった。
「どうしたんですか?」
「近い」
遠ざかったはずなのに、肩が触れるくらい近くに寄ってくる桜坂さんに、僕は苦言を呈した。
「しょうがないじゃないですか。画面を見るには、これくらい近づかないと」
「書いてから見せるから、今はほら、練習に行ってきたら?」
「一緒に見たほうが効率良いじゃないですか。それに、紹介文を書くために聞きたいことがあれば、すぐに答えられますし」
言うことは理解できる。けども彼女の爽やかな匂いが鼻をくすぐるほど、近づく必要はないのではないか。
毎回、ホームページの文章を考えてるときに、誰もがやけに接近してくる危機感のなさは教育すべきだろうか。
「なんでも聞いていいですよ。湊先輩になら、本当になんでも」
「あーもう! しず子ストップー!」
顔を寄せてくる桜坂さんの腕を、中須さんがぐいっと引っ張る。
「えぇ、今日は私と湊先輩の二人っきりで作業するって約束なのに……」
「でも、でもなんか近すぎ!」
ほんと、それ。もうちょっとで危ないところだった。本当なら僕が突き放すべきなんだろうけど。
「ほらほら、かすみちゃん、邪魔しちゃダメだよ」
ああ、せっかく助かったと思ったのに、高咲さんが連れていってしまう。練習があるから、連れていかないでくれとは言えないし……ほら、桜坂さんがまた同じ位置に戻ってしまった。
「かすみさんのこと、甘やかしすぎじゃないですか? いたずらされても怒らないし、今だって……」
「そうしないと、調子が乱高下しまくるから」
人によってモチベーションの上げ方下げ方は違う。
中須さんのようにあまり厳しくすると良くない人もいれば、朝香さんや桜坂さんのように厳しくするとやる気が出るって人もいる。
個人の特徴や性格を観察することは、僕らにとっては大事な日課だ。
「なんだか贅沢な気分です。湊先輩、いつもあっちこっちで引っ張りだこですから」
「贅沢て。別に、言ってくれれば時間作るよ」
「本当ですか? でも迷惑じゃ……」
「迷惑だなんて、そんなこと考えなくていいよ。今より上手くなりたいんだろ」
遠くから来てるぶん、ちょっとくらい贔屓しても文句は言われない。
神奈川県の鎌倉から毎日学校に通ってる彼女は、そのせいで早く帰らなければいけない時も多い。寮住みのエマさんや朝香さんよりちょっと重きを置いて相手をしてもいいだろう。
それに、自分を抑え込んでいた桜坂さんをもっとよく知るためには、これまで以上によく見ておかないと。
「だったら、その、もう少しわがままになってみます」
「うん、それでいいと思う」
一年生は上級生に言いづらいこともあるだろうから、僕からも気にかけておかないといけない。
「僕も頼られるに足るくらいには頑張らないと。信じてくれって言った手前、半端なところじゃ投げ出せないし」
「大丈夫ですよ、私、湊先輩のこと信じてますから」
「それは……嬉しいよ」
「それだけ、ですか?」
その質問に、僕は顔をしかめる。
「だけ、とは?」
「はあ……」
こういう反応を、つい最近何度か見たことがある。
宮下さんと近江さんだったか。思わせぶりなことを言って、僕の何かに失望したようなため息。しかし振り返ってみても、特に失言した記憶はない。目の前で呆れられるようなことをした覚えはもっとない。
「あの時、湊先輩がそういうつもりで言ったのではないとわかってたつもりですけど……」
「そういうつもりってどういうつもり?」
「……かすみさんが悩んでたのもわかるなあ」
「おーい?」
「なんでもありません。湊先輩が、湊先輩だったというだけです」
「僕は悪い人?」
「湊先輩のことを、そう言いたくはありません」
「だったらやっぱり、悪い人だと思ってるんだ」
「知りません」
ぷいと頬を膨らませて逸らされる。ちらちらとこちらを窺ってくるあたり、本気で怒ってるわけじゃなさそうだ。
たぶん、これがいま彼女の曝け出せる精一杯のわがままなんだろう。中須さんと比べると、なんと可愛らしいことか。
僕は苦笑して、そっぽを向く彼女に声をかける。
「機嫌直してくれよ。僕に出来ることなら、何でもするからさ」
「ほんとですかっ」
きらきらと目を輝かせながら、ぐるりと振り向いた彼女は、
「せっかく一日独占できるんですから、歌かダンスか……演劇の練習に付き合ってもらうというのもいいですね。このままずっとお喋りというのも……」
どんどんと案を出していっては自分で悩んでいる。
そこにいたのは、年相応の女の子。
当たり前だ。どれだけ能力が高くても、美人でも、達観していても、桜坂さんは高校一年生。
遊びたい盛りしたいこと盛りの、普通の女子高生なのだ。
そんな桜坂さんに、安全ピンのものまね以外で、と告げるとまた頬を膨らませた。
「悪い人ではありませんけど、湊先輩はいじわるです」