「おはよう、お兄ちゃん」
まだ眠気の残っている顔で、妹の
そこでようやく、僕は自宅のキッチンに立っていることを思い出した。
ハッとして目の前のフライパンを見る。気を離したのは一瞬のようで、焼いているベーコンは焦げついていなかった。
なんでもない顔を作って、後ろを振り向く。
「おはよう、璃奈。ご飯できてるぞ。先に顔洗ってきて」
「うん」
とてとてと、150センチに満たない小さな体躯を揺らしながら、璃奈は洗面台へ向かう。
姿が見えなくなったのを確認して、大きくため息をついた。
朝から気分が悪い。変な夢を見たせいだ。
嫌な気分を振り払って、朝食を卓に並べる。
ベーコンと目玉焼き、そしてトーストとコーンスープ。ベタだけど、だからこそ朝食って感じがする。
俺が机に座るのと同時、璃奈も顔を洗い終えて食卓についた。
スプーンとお箸を渡して、手を合わせる。
「それじゃ、いただきます」
「いただきます」
璃奈がもぐもぐと朝ごはんを食べる。
僕が作り始めた当初は、あまりにも朝が弱くて食べてくれなかったけど……いまこうして食べてくれるのを見ると、なんだか感動を覚える。
前に比べると、かなり血色も良くなってきたようだ。
ぱっちりとした目と幼い顔つきは、まるで人形のように整っている。
並んでいるところを見られると、いつも僕の妹かと疑われるくらい、僕に似ずに可愛い。
「お兄ちゃん、食べないの?」
「あ、ああ、食べるよ」
ぼーっとしてた僕に疑問を覚えて、璃奈は首をかしげる。
いかんいかん。変に思われるのは良くない。
すぐに平静さを取り戻して、箸を進める。
特に会話があるわけではないが、それはいつもの通りだ。僕も璃奈も、そんなに会話が得意なわけじゃない。
すぐに食べ終えて、食器をキッチンに運ぶ。
「はい」
「ありがとう、璃奈」
空の皿を受け取って、軽く流す。ちゃんとした処理は食洗機任せ。
ええと、洗剤洗剤……
「お兄ちゃん」
「どうした?」
「ペット、飼っちゃダメ?」
「ペット?」
食洗機のセットを終えて、スタートボタンを押す。ちゃんと音を立てて動き出したのを見て、璃奈に向き直る。
「学校の近くで、猫見つけたんだけど……」
曰く、捨てられてる猫を学校に匿っているが、それを家で飼えないかという相談だ。
「このマンション、ペット禁止だからなあ」
「そう……」
「その猫、もう学校に住み着いてたりする?」
璃奈はこくりと頷いた。
「はんぺんって言うの」
「もう名前つけてるのか……」
飼う気満々じゃん。
知ってしまった以上、放ったらかしは可哀そうだとは思うが……ルールはルール。
うーん、誰か飼ってくれそうな人探すか。
「あ、あと、そういえば、一昨日スクールアイドル同好会の部室を探してる人たちが……」
そこまで言って、璃奈はしまったという表情をしたあと、しゅんとして俯く。
「ごめん、なさい」
「どうした、いきなり謝ったりなんかして」
「でも、お兄ちゃん……同好会の話をすると、つらそうだから」
つらそう? 僕は、そんな顔をしてたのか?
そんな表情を見せて、わざわざ妹に心配をかけるなんて、兄失格だな。
なんでもないというふうに、僕はわざとその話題に突っ込んだ。
「その、部室探してた人って、ツインテールの子と、シニヨンの子?」
「そう。お兄ちゃんに連絡しようとしたけど……」
ああ、やっぱり。高咲さんと上原さんか。
「昨日会ったよ。同好会に入ってくれるって。って言っても、廃部したからまた新しく作る必要があるけどね」
僕がそう言うと、璃奈は少し驚いていた。
「また?」
「そう、また」
璃奈に返しながら、お弁当を風呂敷で包む。
また、と言いたいのもわかる。前に同好会を作ってから、ほんのちょっと経っただけで潰れて、また作ろうだなんて、呆れるよな。
だけど、璃奈は、僕が予想した顔をしていなかった。
「無理しないで」
今にも泣きそうな表情。
璃奈の表情はあまり動かないから、他の人にはわからないだろうけど、僕にはわかる。璃奈は優しいから、こうやって心配してくれる。
僕は兄として、払拭しなきゃいけない。
つらいのも、無理してるのも、僕じゃない。だって僕は何もできなかったんだから。
そう言い聞かせて、笑顔でお弁当を渡す。
「大丈夫だよ、璃奈」
△
「かすみちゃん、いませんね」
「そうだね」
時は飛んで放課後。
また今日も自己紹介動画を撮るために集まろうとしたのだが……
上原さんは自主練習してから来るらしく、遅れるのは知っている。けれど、中須さんが来ない。連絡しても通じず。
知り合いの後輩からの情報によると、授業が終わってからすぐに教室から出ていったらしい。しかし、めぼしい屋内施設にはいないみたいだった。
そういうわけで、僕と高咲さんは校舎の外にまで探しに出かけている。
屋外だけでも候補は多すぎるから、そうそう簡単には見つからない。庭とよばれる場所だけでも数か所あるうえに、一つひとつが広大なのだ。
「昨日の話ですけど」
辺りを見渡しながら、高咲さんは口を開く。
「かすみちゃんもせつ菜ちゃんも、ただやりたいことをやりたかっただけなんですよね」
僕は頷く。
「だったら諦める必要はないんじゃないかなって……入ったばかりの私が何言ってんだって話かもですけど」
えへへ、と気恥ずかしそうに頬を掻きながら、彼女は続ける。
「私は、みんなが輝く姿を見たい。だから、やりたいことをやれるように支えたい。そう思うのは、私がまだ何も知らないから……かなぁ?」
……正直、驚いた。
スクールアイドルをこんなに真剣に支えたいと思っているなんて。昨日の時点ではわからなかった。
優木さんのライブを見て触発されたのがきっかけだろうけど、彼女は本当に、この同好会のことを考えてくれている。
「いいや、高咲さん。君は正しいよ」
僕たちに足りなかったのは、彼女が言うような単純なことだったのかもしれない。
「こんがらがったみんなには、君みたいな真っすぐな人が必要なのかも」
「じゃあ、二人で盛り上げましょう!」
おー! と手を挙げる高咲さんに合わせようとした瞬間……
「あ」
いた。
夕陽の塔のすぐそこ、東京湾が眼前に広がるところ。物憂げに手すりに身を預けていた。
「中須さん」
「湊先輩、侑先輩……」
駆け寄ると、陰鬱な顔がはっきりと見えた。
いつもの元気な表情はなりを潜めて、陰が差している。
「今日はずいぶんと元気なさそうじゃないか」
「……」
なんとなく、理由は察している。
僕たちが下を向いてしまうのは、同好会のことくらいなんだから。
「優木さんと同じこと、しちゃったってところかな」
「!」
昨日、上原さんの様子を見てショックを受けてたようだったからもしや、と思ったけど、図星だったみたいだ。
潤んだ瞳で見上げてくる中須さんは、胸に手をあてて、また俯く。風に消え入りそうな声で、ぽつり、と話し始めた。
「いつでもみんなが戻ってこられるように頑張ってたのに……」
その先は、出来るだけ言わせたくなかった。言ってもつらいだけ。
僕がやるべきなのは、出来るだけ近くに寄り添って、中須さんのことを理解できるように努めること。
「そうだね。君は一番頑張ってた」
生徒会から同好会のネームプレートを奪ってきたのだって、それだけ彼女が同好会を存続させたいと思っている証だ。
残ったアイドルが自分一人になっても、諦めずに練習して、上原さんを指導した。
彼女なりに必死だったのだ。だけどそれが、上原さんに『可愛い』を押し付けていたことに気づいたんだ。優木さんが中須さんの『可愛い』を否定したように。
「優木さんも、同じように頑張ってたんだ。どうしても表現したいことや伝えたいことがあって、必死だった」
一人ひとり、別の方向に努力が向いていた。そして全員が全力だったからこそ、ぶつかってしまったんだ。
「誰が正しいとか、僕にはわからない。でもやりたいことをやろうとする心に、間違いはないと信じたい」
自分の中にある信念を否定しなくていい。
どうしても譲れないものがあって、衝突するのは仕方ない。グループなんだから、意見のぶつかり合いも喧嘩もおおいに結構。
だけど、押し付けるとか、否定するとか、そんなのはもう無しにしよう。
「だからさっき、高咲さんと話して決めたことがあるんだ。ね、高咲さん」
「はい」
高咲さんは一歩前に出て、中須さんの肩を掴んだ。
「一人ひとり違うのは当然なんだからさ、じゃあ、みんなのやりたいことを叶えようよ。我慢してやるスクールアイドルなんて、そんなの楽しくないでしょ?」
「侑先輩……!」
みんながバラバラでも、その個性は決して抑えるべきものじゃない。
優木さんは高咲さんに情熱を与え、退屈なこの世界に、彩りを加えてみせたように、個々の色は人に影響を与える。
スクールアイドルは単に歌って踊るだけじゃない。夢を体現しているのだ。
そのスクールアイドル自身が夢を叶えなくてどうする。叶えさせなくて、僕らは支えていると言えるのか。
「もし、そんなことが出来るなら……」
「出来るよ、かすみちゃんなら」
否定される痛みと押し付けてしまう傲慢さを知り、反省する心を持ち、芯がある彼女になら、と僕も頷く。
俯きがちだった中須さんは、潤んでいた目をがしがしと拭い、満面の笑みを咲かせた。
「もちろんです! 可愛いかすみんに出来ないことなんてありませんから!」
「遅れてごめんなさーい」
「あの、自己紹介なんだけど……いま撮ってもらっていい?」
「虹ヶ咲学園普通科二年、上原歩夢です。自分の好きなこと、やりたいことを表現したくてスクールアイドル同好会に入りました。まだまだできないこともあるけど、一歩一歩、頑張る私を見守ってくれたらうれしいです。よろしくね」
画面越しに見ても、息が止まってしまうくらいに素敵なアイドルがそこにいた。
昨日までの躊躇や恥ずかしさもなく、真心を直撃させてくる真剣で優しい目。
応援したくなるような女の子っていうのは、こういう感じなんだろうなあ。
「今のすっごく可愛かったですよね、湊先輩!?」
「うん。何の手を加えなくても……いやむしろ、そのまま投稿したほうが良いくらい」
少し頭を捻ってイメージしても、どうしても編集が邪魔になる。
まさか昨日の今日で、こんな真っすぐなものを仕上げて来るとは……
上原さんは、中須さんの『可愛い』を信じた。そのうえで、自分らしさも大切にした。
自分も相手も尊重するその姿勢は、本来最初に持つべきだったものなのに、僕たちに足りないものだった。
「中須さん、どう思う? 君のと比べて、可愛さを前面に押し出した自己紹介じゃないけど」
「ま、まあ及第点ってところですかね!」
口は素直じゃないなあ。僕が話しかけるまで、目をきらきらさせてたくせに。
でも、呆然とする気持ちもわかるよ。
自分の指導を越えて、自分なりの真っすぐを表した上原さんは、直視するには眩しすぎる。
「でも、可愛さでは負けませんから!」
強がりというか自分自身への宣言というか、中須さんは胸を張って、上原さんを指差す。
すっかり立ち直ったようだ。
うん、やっぱり、中須さんはそうやって自信満々で元気で可愛いのが一番似合う。
「じゃあ、そんな中須さんにプレゼントを一つ」
僕は人差し指を立てて、彼女の注目を集める。
「ようやく出来たよ、曲が」
「本当ですか!?」
ますます表情を輝かせて、詰め寄ってくる。
そんな彼女の猛進を避けつつ、中身の入ったCDケースを手渡すと、まるで宝物を扱うように受け取った。
僕が感じた、中須さんの可愛さを詰め込んだ一曲。
けっこうな難産だったけど、その分かなーり自信がある。
「これから練習して、ちゃんと見せられるようにしないとね」
感激のあまりこくこくと頷く中須さんの様子を見て、僕も報われた気持ちになる。
こんなに喜んでくれて、作曲家冥利に尽きるってもの。
「それを、新生虹ヶ咲スクールアイドル同好会の最初の動画にしよう」
「さんせーい!」
高咲さんがいの一番に手を挙げる。
彼女はわかっているだろうか。ここにいてくれて、話してくれたことがどれだけ僕らの助けになっているか。
高咲さんがいてくれたらきっと、集まったスクールアイドルたちは崩れることなく繋がってくれることだろう。
虹ヶ咲スクールアイドル同好会は、まだ始まったばかりだ。