今日は、今日目の前に現れたのは、女性じゃない。優しい雰囲気を纏っている、柔和な表情の男性だ。
その人はあの女性と同じく、僕を慈しむような、同情するような、悲しいような、複雑な顔を浮かべていた。
「もう終わりだ。虹ヶ咲のスクールアイドル同好会にすることは、もう終わった」
男性が去っていくことを祈って、断定した口調で言う。男は逆に、僕に近づいてきた。
「責任を感じすぎてる。もっと楽に生きていいんだよ」
ぎりり、と歯を食いしばる。髪を掻きむしる直前で手を止めて、あくまで平静を保とうと努める。
「いいって、どこがいいんだ。人の繋がりを守れなかったり、壊したりしてしまうやつのどこが。そんなやつのどこに、権利があるんだ」
「それは、湊の頑張りが足りないとか、技量がないとかってことじゃないんだ」
今度は、止められずに自分の髪を掴む。眉間にしわを寄せて、全身をこわばらせる。
この人の言うことを聞いてしまいそうになるのを、必死で抑える。
「本当にあなたがここにいれば、きっとそんなこと言わない」
本物は、きっと恨んでる。あなたもあの人も。ここにいたなら、殴ってなじって去っていくはずだ。そのはずなんだ。だって僕のせいで……
「湊のせいじゃない」
どうして、そんなことを言えるんだ。
僕は裏切ったんだ。あなたたちがくれた愛を受け取るだけ受け取って、なのに僕が存在していたから、帰らぬ人にしてしまった。
どうして、そんなことを言えるんだ。
そんなの決まってる。この人は違うからだ。僕の大切な人ではないからだ。
「そう言ってくれる人は、もういない」
男の目へ、そこに映る自分へ、いい加減分かれと言葉を叩きつける。
「どこにもいない。そうだろ。あなたは幻だ」
触れなくてもわかってる。彼らは僕にしか見えない、頭の中にしか存在しない幻だ。
そうだという事実は知ってるし、なによりそうやって甘い言葉を口にしてるのが証拠だ。
「自分で自分が嫌になるよ。欲しい言葉が、欲しい人から出てくる。そんな幻覚を見るほど、心が弱かったなんて」
△
「音楽科に転科?」
「確かにうちは学科が多くて、転科も認められていますけど」
部室で、高咲さんが転科のことを打ち明けると、みんな大層びっくりした。
桜坂さんの心配するような口調も理解できる。
スポーツでも芸術でも、通常の勉強とは違う専門性を極めようとする者はだいたい、中学生、下手したら小学生からその道に触れているものだ。
高校の二年生、しかも一学期が終わったタイミングで転科なんて、多くの生徒は避けようとする。が、その決定を心配しつつも、基本は歓迎ムードだ。
「思い切ったねえ、侑ちゃん」
「うん、きっかけをくれたのは歩夢。そして、みんなが私に勇気をくれたんだよ。スクールアイドルを頑張ってるみんなを見てたらね。本当にやってみたいことは、とにかくやってみようと思ったんだ。といってもまずは転科試験があるし、そもそも受かるかどうかわからないんだけど」
ダメかどうか、合ってるかどうか、やってみなきゃわからない。後先は……多少は考えてほしいけど、ある程度は度外視して一歩踏み込んでみるのも大事だ。
「大丈夫だよ、こっちにはみーくんがいるしね」
宮下さんがこちらへウインク。
「ちなみに、みーくんの見込みは?」
「五分五分ってとこかな」
僕がそう言うと、高咲さんは嬉しさ半分がっくり半分といった様子。
きっと大丈夫、とみんなが励ますなか、宮下さんはこっそり寄ってきて耳打ちしてきた。
「ほんとは?」
「ほぼほぼ合格だと思うよ。ただ、甘いこと言うと緩んじゃうかもしれないから」
「たしかに、みーくんに言われると安心しちゃうかも」
毎日の勉強のおかげで、高咲さんはぐんぐんと腕を伸ばしている。過去問や課題を見る限り、今の彼女なら十中八九受かる。
しかし転科テストはたった一回。油断せずにほどよい緊張を保ってもらいたいものだ。
△
スクールアイドルフェスティバルまでもう日にちはない。が、藤黄や東雲だけでなく、虹ヶ咲の生徒たちも手伝ってくれたおかげでもう開催できるところまで準備ができた。
校内にいる人たちも、ほとんど作業はしておらず、出来上がったステージを写真に収めたりしているだけだ。虹ヶ咲スクールアイドルも、今は本番に向けての練習に集中している。
僕は生放送準備のため、三脚に乗せたカメラをステージ前に置き、画角を調整、動画サイトと繋がるかを確認していた。
うちの公式チャンネルに映る画面をパソコンでチェックしながらズームしたり位置を変えたり……自分の担当場所を終えたころには、昼をとっくに過ぎていた。
校舎横、ミーティングにも使われる屋外の休憩所に腰かける。この時間は陰になってて多少はマシだ。
持っていたビニール袋をテーブルに置き、そこに入っていた蓋付きの発泡スチロール皿を取り出す。
中からソースのいい匂いがしてくるが、疲れ切っていると逆に食欲がなくなるものだ。それに、 時折宮下さんだったりエマさんが来たりして、口に食べ物を突っ込んでくるから、腹の具合は悪くない。
「湊さーん」
さて余った食料をどうしようか思案していると、上原さんがやってきた。
「部室に来ないから、みんな寂しがってましたよ」
「一昨日も昨日も、今日の朝も会ったじゃないか」
しかも夏休みじゃなければ、顔を合わせるのはいつも放課後のみ。それなのに昼に会えなかったくらいで思うこともないだろう。もしかして、話を盛られたかな。
彼女は僕の隣に座ると、ぱたぱたと手で顔を扇ぐ。午前中の練習はハードだったみたいで、シャツが肌にぴったりと張りついていた。
「それで、わざわざ探しに来て、何か用?」
「実は一つお願いしたいことが」
おずおずと、上原さんは手を差しだしてきた。握られてるのは、彼女のスマホから伸びているイヤホン。
促されるままにそれを耳にはめる。聞こえてきたのは、ピアノの音だった。
ほんの数秒だけれど、惹きつけられる流れるような一節。思わず聞き入ってしまい、もっと、と思ったところでそれは途切れた。
「これ、侑ちゃんが作ったメロディなんですけど……」
「すごいじゃないか。まだまだ初心者なのに、これほどのメロディを作れるなんて」
僕は素直に驚嘆した。
高咲さんに音楽を教えているけど、総合的に見ればまだひよっこ程度だと思っていた。けれど、この旋律には、確かに心を動かす力がある。
天性……という言葉で片づけてはいけない。高咲さんのたゆまぬ努力が実を結んだのだ。
「侑ちゃんには内緒で、これをもとに新しい曲を作りたいんです」
高咲さんが作ったのはワンフレーズ。そこが彼女の限界だった。
「みんなから、今まで頑張ってくれた侑ちゃんに、ありがとうって伝えたいんです。だから、曲を完成させていただきたくて」
フルを簡単に作れるほど作曲は単純じゃない
これを完全なものにするころには、フェスティバルは終わってるどころか、二学期も始まってるだろう。
「これを……僕が……」
高咲さんの曲をみんなが歌う。そこに僕が関われることはとても光栄だと思う。
僕としても、高咲さんには助けられっぱなしだから、感謝の意を伝えたい。それに関してはみんなと同じ気持ちだ。
だけど……
「『私の曲に変なもの付けて! もういい、辞める!』なんて言いださないかな」
「言わないですよ。侑ちゃんをなんだと思ってるんですか」
「一言で表すと、猪突猛進」
「それは否定しませんけど……侑ちゃんも湊さんのことは信頼してますから、きっと嬉しがると思います」
……幼馴染がそう言うなら、疑う余地はないな。上原さんも、僕のことをある程度信用してくれているから頼んできたんだろう。
フェスティバルまで時間はないが……
「引き受けるよ」
「本当ですか!?」
「ただし、
「! はい!」
にこりとした彼女は数舜後、僕の肩ごしに後ろを見て、はっとした。
「あ、おーい、歩夢ー」
噂をすれば、高咲さんだ。上原さんはスマホを急いで隠す。
「なにしてたの?」
「ええと……」
「屋台で出すもんじゃの食べ比べを宮下さんからお願いされてて。上原さんにも感想聞いてたところ」
つらつらと嘘が出るようになって、自分で悲しくなる。いやしかし、これはサプライズのためなのだから、仕方あるまい。
「ふうん……?」
「高咲さんも、ほら。多めに渡されたから」
脇に置いていた、みんなの置き土産の一部を高咲さんに渡す。彼女は遠慮なく受け取ると、あっという間に口に放り込んだ。
「おいしーい!」
満足げに頬張る彼女を見て、僕らはほっと胸をなでおろした。
「ごまかせましたね」
「疑うことを知らない性格で、嬉しいやら心配やら」
悪い人に引っ掛かりそう。上原さんもしっかり者だけど、押しに弱いところがあるからなあ。
「? 何の話ですか?」
「いや、君が可愛い猪で助かったって話。あと心配でもある」
「いのしし?」
首を傾げているところを置いておいて、ドーナツも渡す。これまた躊躇なしに口に溜め込んでいる。リスみたい。可愛い。
「味見もしてるんですか?」
「みんな勝手に渡してくるんだよ。もんじゃ五種類にからあげと焼きそば、クッキー、マフィン、マカロン、フィナンシェ、バウムクーヘン……」
「そんなに!?」
「そろそろ味の違いがわからなくなってきたころだよ」
味の分かる人じゃない僕に感想を求められても困る。
結局、どれも美味しいという参考になってるのかならないのか不明な返しをするしかない。それでも毎日毎日ちょっと変えたくらいのものが差し入られてくる。
休憩がてら、ひとしきり食べ終わると、嬉しそうな表情はそのままに高咲さんは口を開いた。
「こうやってお話するの、久しぶりに感じますね。ほら、湊さん、フェスティバル準備中はあまり私と喋ってくれませんから」
「喋ってるじゃないか。設備とか備品とか……」
「そういうお仕事的なのじゃなくて、なんていうか……プライベートな会話、世間話とか」
「それは私も思ったかな。湊さん、なんだか二年生と一年生とちょっと距離があるみたい、って」
「それは……そうかもしれないけど、僕としては出来るだけ平等に接してるつもりだよ」
上原さんに対しては、今までほとんど高咲さんにお任せしてたから、そう強く主張はできないけど。
「こういうのは受け取り側次第ですよ」
「じゃあセクハラだと受け止められないように、もう少し距離を……」
「最近だと、構わなすぎも問題だって」
「なんでも文句言える無敵論法じゃないか」
どうあってもハラスメントと言われる時代なのだろうか。なかなか肩身の狭い世の中になったものだ。
「そもそも、湊さんにセクハラなんて言う人、同好会にいないような」
「そうそう。湊さんにとって私たちは、そんな距離の詰め方に四苦八苦するような相手じゃないってこと」
高咲さんは人差し指を立てると、得意げに胸を逸らす。
嫌な予感がしてきた。こういうときは大抵変なことを言い出すものだ。
「つまり、こう言えるんじゃないかな」
「言えない」
「甘やかしが足りない!」
先に潰しておこうとしたのに、無視された。
甘やかしぃ? この子はまた、何を言ってるんだか。
いくらまだまだ子どもの高校二年生とはいえ、同じような子どもの僕に甘やかされても嬉しくないだろうに。ぐっと拳を握って力説するくらいなら、他の三年生に頼むべきだ。
上原さんは苦笑しながら、つまり、と話しだした。
「もうちょっとこう、雑に扱ってくれてもいいってこと、かな」
「雑?」
「なんだか大事にされてるみたいで……それは嬉しいんですけど、もっと気楽に接してほしいなあって」
「さすが歩夢! その通り!」
そう言われましても。
後輩に対する接し方に関してはほとんどわからない。年下と過ごしたことがないわけではないが、その大体が特殊だ。
だが、せっかくの申し出だ。努力はしてみようかな。
「気楽に、気楽にね。よし、どこからでもかかってこい」
「気楽にって言って構える人初めて見た」
「あはは、湊さんはこういうとこ不器用だなあ」
いざ意識してみると、どう話していいのやら。中須さんみたいないじられキャラだと、二人が言うような『雑』な接し方もしやすいんだけど。
女の子相手となると、どの程度近づいていいのか未だにわからない。女性比率の高い虹ヶ咲だとかなり致命的。とりあえず手を伸ばしても接触しないくらいだとお互い嫌な思いはしないってことは、経験で把握済み。
そこから先は個人個人で領域が異なる。僕の周りはだいたい距離感バグってる人が多いような気が……
なんてふうなことを考えてると、あることに気づいて、高咲さんを指差す。
「くま」
「猪じゃなくて、ですか?」
「目に隈ができてる」
彼女の目にうっすらと黒い筋。それを指摘すると、しまったという顔をして目を逸らす。
「さ、最近フェスティバルの準備だけじゃなくて、音楽の勉強もしてるから」
「あと、スクールアイドルの動画も夜中に見てるんだよね。やめてって言ってるのに」
「うっ」
上原さん、笑顔なのに目が笑っていない。
前も、同じような話を聞いたな。そのせいで寝不足になっていたとか。
「無理はしないでくれよ。君が倒れたら、みんな心配する」
フェスティバルそっちのけで看病ということになるかもしれない。それは誰の望むところでもないだろう。
そうでなくても、夜更かしは美容の天敵という。可愛く整っている今の状態からわざわざ崩すこともない。
「よく言うだろ。苦しいことは分け合えばいいって。一人で背負えないなら二人で。それでも無理なら、同好会にはまだたくさんいる。虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会は、ソロアイドルの集まりだけど、みんなちゃんとした仲間で、ライバルで、友だちなんだから」
こうでも言っておかないと、彼女の言うところの『トキメキ』を優先しすぎて、突っ走りすぎてしまう。
ただでさえその気があったのに、彼女の世界は、寝る間も惜しんでしまうほどにどんどんと広がり続けていっている。
「湊さんも、無理はしないでくださいね」
「おかげさまで楽させてもらってるよ」
僕が言うと、彼女たちは唖然とした顔を見合わせて、やれやれとため息をついた。
「重症、だね」
「侑ちゃんよりもね」
二人はもう一度、ため息をついた。