胸のざわつきは、その場で座ったままなのを許さなかった。
比喩ではなく、雲行きが怪しくなってきた。さっきまで快晴だった空は、灰色に染まっている。嫌な予感は当たるもので、ぽつぽつと雨が降り始めた。急いで本部テントに着くころには、土砂降りと言えるほどにまで強まっていた。
もう各校の代表は集まっていて、頭から足の先まで濡れた僕が最後だった。
「湊さん、大丈夫ですか!?」
「平気平気、蒸し暑いからちょうどよかったよ」
余ってるタオルでガシガシと頭を拭きながら、僕は答える。
雨足は弱まらず、むしろ勢いを増している。これが小雨程度ならともかく、打たれれば全身から滴るほどの大雨だ。続行は不可能。
アナウンスするまでもなく、あれだけいた観客はどこかへ行ってしまった。
「もしも、この雨がずっと降ったら……」
雨雲の流れは速く、長くはとどまらないだろう。通り雨だ。今日一日中振り続けることはないはず。それでも十分に邪魔だった。
ステージが使えるのは十九時まで。スケジュールもそれに合わせて組んでいるため、雨が降る時間が長くなれば長くなるほど組み直しが難しくなる。
最悪、ここからすべてが無くなってしまうおそれもある。それに加えて……
「湊さん……どうにもならないんですか?」
上原さんが心配そうに見つめてくる。
天気を変えられるなんて力はもちろんない。それでも願わずにはいられないのだ。ここで、こんなことで終わるわけにはいかないから。
東雲と藤黄のスクールアイドルたち、裏方で手伝ってくれた生徒たちも巻き込んだこのお祭りが、こんなところで終わっていいわけがない。
そしてなにより、同好会再結成からこのフェスティバルを通して、高咲さんも虹ヶ咲スクールアイドルのみんなも必死に頑張ってきた。
その彼女たちの想いが込められた曲。そしてそこに込められたメッセージ。それを伝えられなくなるのは、一番良くない。
僕はいつも通りの顔を作る。僕までおろおろしていたら収拾がつかなくなる。こういう時こそ、自信満々に見せるのだ。
「何とかするよ。だからそんな顔しないで。高咲さんに届けたい気持ちがあるんだろ」
どうにか、どうにかしないといけない。僕に出来るのは、留まって祈ることじゃなくて……
「湊さん、どこに?」
雨の中に飛び込もうとした僕に、彼女は問うた。
「ステージ時間の延長を頼みに行ってくる。上原さんは、雨が止んだらみんなをあのステージに呼んで」
△
校内は、突然の雨から避難してきた生徒や一般の人たちで詰まっていた。
みんながみんな、ガラスの外を気にしている。まだまだ降り止む気配はなく、フェスティバルがどうなるかを憂いていた。
不安でごった返す屋内を、急いで駆け抜ける。
「すみません、道を開けてください!」
大きく声を上げて、息を切らしながら進む。迫りくる時間の流れを変えることはできない。なら、決められた時間のほうを変える。
本校舎の階段を上がって上がって、目的地へ向かう。
「天王寺さん!」
走りながら声のするほうを振り向くと、副会長がいた。
「あとでいくらでも反省文は書くから、校内を走ってることは怒らないでくれ」
「それ、は……わかりました。でもフェスティバルは……」
そこで、彼女も僕の向かう先に気付いたようだ。
職員室。各部の顧問たちがいるはずだ。あくまで何か問題が起きた時のために休日出勤してくれている先生方に頼みごとをするのは気が引けるが、これしか手はない。
一呼吸も置かず、扉を開ける。またまた全身びしょ濡れになってしまったせいで、職員室に入った時にはぎょっとされた。
大丈夫、と駆け寄ってくれたのは、見知った人だった。三年の音楽科、僕のクラスを受け持っている先生だ。
普段から大人らしく冷静な彼女は、珍しく目を丸くしている。
「ずぶ濡れじゃない」
「そんなことは後でいいんです」
僕だって普段なら、こんな不躾なことは言わないが、今回は事が事だ。
縋るように彼女を見て、息切れしたまま頭の中の言葉を連ねる。
「この雨のせいで、決められてたステージが次々に中止になってる。けどどうにか、最後のステージだけはやらせてやりたいんです」
握る拳に力が入る。
「約束したんだ、どうにかするって。僕が嘘つきになるのは構わない。けど、だけど! あの子たちが夢を叶える邪魔だけは、誰にも、天気にもさせたくないんです!」
せっかくここまで繋いできたんだ。ここで、こんなところでこんな終わり方なんて酷すぎる。
「お願いします。スクールアイドルフェスティバルはみんなの夢を叶える場所だって、ここまで積み上げてきた高咲さんに、みんなにちゃんと見せてあげたいんです!」
がばっと、勢いよく頭を下げる。
「校内のステージだけでいいんです。三十分、時間を延長させてください」
「……」
先生は考え込む。
申請は十九時まで、で通している。虹ヶ咲は敷地が広く、学校の外にまで音が漏れることはほとんどないが……延長の決定を、その場で簡単に決められるわけもなく。
そんなことは僕だって重々承知で、だからこそこうやって必死に頭を下げている。フェスティバルが続けられるなら、誰にだって土下座する覚悟もある。
ぼたぼたと髪から水が滴り落ちる。そうして少しした後、先生は重い口を開いた。
「少し待ってなさい」
そう言って、先生は職員室の中に戻っていく。一考してくれて、上の人に交渉してくれるのだろうか。
とにかく、言われたとおりに待つしかない僕は、その場に立ち尽くすようにして、ため息もつけなかった。
「……」
爪を噛み、耐える。下手に口を開いたら、不安が押し寄せてきそうだ。
時間を確認する。まださきほどから数分しか経っていない。体感的には、何週間も待っている気分だ。
「天王寺さん、これを」
副会長が何枚かのバスタオルを持ってきてくれた。シャワー室に常備されている物らしい。
お礼を言って、体を拭く。かなりマシになったが、濡れた体では、エアコンの効いている屋内はひどく寒く感じる。真夏日なのに体は震えていた。
「お身体に障ります。別の場所で待っては?」
「一刻を争うんだ。みんな待ってる」
「でしたら、私が伝えに行きますから」
「悪いけど、これは僕の仕事だ」
最後の最後、みんなが想いを届けるその瞬間までは僕に責任がある。
何とかすると言った以上は、何とかしなきゃいけない。その義務がある。でないと、僕の存在意義は……
それから何十分経っただろうか。
心臓がばくばく言って、嫌な想像を振り払ってもどんどんと湧いてくる。期待がしぼんできて、落ち着かない。
こんなところ、みんなには見せられないな。
気づけば、七時まであと少しのところまで回っていた。外はすっかり暗くなっている。それよりも……
「雨、止みましたね」
窓の外を見て、副会長が呟く。
あれだけ降っていた雨は消え、雨雲もどこかへ去っていた。やはり通り雨だったようだ。星すら見えるほど、空は澄んでいる。
これならいける。問題は時間だけだ。
もしこれが上手くいかなかったら……思考が底の底に落ちてしまう直前、職員室の扉が開いた。
先生はいつもの落ち着き払った顔で出てきた。そのせいで、いまいち展開が読めない。
どちらだ、と心臓が早鐘を打って、答えを待つ。
「七時三十分まで。それ以上は認められない」
予想の中で一番嬉しい言葉が飛び出してきて、自分でも顔がほころんだのがわかる。
「ありがとうございます!」
深く頭を下げ、頭からつま先まで痺れるような感覚に一瞬浸る。
「早く行きなさい。時間はそう残ってないんだから」
「はい!」
そうだ。このチャンスを逃してなるものか。もう一度先生に礼をして、耳のイヤホンマイクを起動させる。
「みんな、聞こえてる?」
〈湊さん!〉
すぐに返ってきたのは、上原さんの声だ。
「七時半までステージができるようにしてもらった。スムーズにいけば、三校とも一曲ずつはできる。学校中庭のステージだ。すぐそこに集まるように、みんなに言ってくれ」
返事を待たずに、僕は満足げに一呼吸。踵を返して、また駆けだした。
「湊さん、ステージはあちらですよ」
「部室に、取りに行かなきゃいけない物がある」
△
部室から急いでステージ前まで走った僕は、その景色に圧倒された。
数えきれないくらいの人たちが、そこにいた。もう終わったと諦められても文句は言えないのに、まだ、こんなにも残ってくれていた。
スクールアイドルたちの魅力が、人々をここに集めたのだ。
ペンライトが、星の光を反射する海のように広がっている。
すでに東雲がパフォーマンスをしていて、昼にも負けない歓声が空気を震わせている。
涙ぐんでしまうけど、これで成功……というわけじゃない。みんなが歌って踊って、伝えられたら成功なのだ。
客をかき分けかき分け、目あての人物にようやくたどり着いた。
「高咲さん!」
「み、湊さん!?」
「はいこれ」
この時のために用意していた九色のペンライト。それが入った袋を彼女に渡す。この時のために、部室の中に隠してあったのだ。
「せっかく頑張ったんだ。楽しまなきゃ」
「湊さんは?」
「僕は裏方」
「じゃ、じゃあ私も……」
「こればっかりは譲れないよ。君には、観客としてステージを楽しんでほしいんだ」
この場じゃ言えないけど、今からのステージは他でもない君へ宛てたもの。だから高咲さんはここにいなければならない。それに、開催した側にだって、祭りを楽しむ権利はある。
中庭を埋め尽くさんばかりの人だかりを横目に、僕はステージ裏へ向かう。
ちょうど、東雲からバトンタッチした藤黄が、舞台上で楽し気に舞いはじめたところだ。
そして我らが虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会の面々は、みんな待機中。
「湊さんっ」
僕が声をかけるよりも早く、上原さんが反応した。
「驚いたよ。ここまで人が集まるなんて」
「最後にステージをやるって、みんなでお客さんに呼びかけたの」
璃奈がスマホの画面を見せてくる。虹ヶ咲、東雲、藤黄の各公式SNSアカウントから、個人のアカウントからも、最後にスペシャルステージをする旨が発信されていた。
「もしやらないってなったら、どうするつもりだったんだ」
「それはその時。それに……」
「湊さんが、どうにかするって言ったんです。信じてましたよ」
上原さんが言葉を継ぐ。
何の根拠もないあのセリフを、彼女は、みんなは信じてくれた。その事実にこみあげるものを感じて、目頭が熱くなる。走り回った甲斐があるってもんだ。
感傷に浸るのは後。落ち着くのも、泣くのも後。全部後回しだ。
「みんな、最後のステージだ。準備はいいな?」
全員を見回してそう言うと、自信満々に頷いて返される。それに満足して、自分の仕事に移る。
インカムを装備して、音響と照明に指示。言うまでもなく準備万端で、藤黄のパフォーマンスが終わるのと同時、暗転。
そしてスポットライトが、各々へと照らしだされる。
衣装は、それぞれのソロ曲のまま。統一性はない。それが虹ヶ咲らしさでもある。
みんなが競い合うライバルで、同じ夢を見る仲間。
九つの星が、ステージ上で瞬き始めた。