僕は、天王寺湊は、普通の家庭の普通の男の子として生まれた。
仲の良い夫婦のもとですくすくと、何不自由なく育った。天王寺家はそれなりに裕福で、その恩恵を受けていた。
二人とも忙しかったから、僕と一緒にいられる時間は少なかったけど、恵まれていた。
その運命は、たった一日で覆された。
あれは、物心ついて初めての誕生日だった。
何が欲しいか訊かれ、僕はぱっと頭に思い浮かんだ物を言った。
大した値段もしない、その時流行っていたおもちゃ。
そんなものでいいのか、と両親は眉をひそめたが、僕は満面の笑みで頷いた。
別に特別な物なんていらなかった。ただお父さんとお母さんと一緒の時間が過ごせれば、それでよかった。
一年に一度のわがままにかこつけて、僕はそれを望んだ。
おもちゃ屋へ行く道も、店を回っている間も、両親といる時間はとても楽しかった。
いつも同じ時間を過ごせないぶん、凝縮した時間を過ごした。
おもちゃの入った袋を持ってもらって、僕は両親の真ん中で、両手を取られながら帰り道を歩く。
まだ小学校にも入ってないような子どもが何を、と思うかもしれないけど、幸福の絶頂だった。
母さんも父さんも、とてもとても僕を愛してるからこそ、僕は嬉しくてうれしくて、僕も親を愛していた。子ども特有のいきがりたい気持ちで隠そうとしたこともあったが、彼らの前でどれほど隠せただろうか。
周りなんて気にならないほどの幸福の中、横断歩道を渡る。
不意に、何かが勢いよく向かってくる音が、どんどんと近づいてくるのが聞こえてきた。
視界の端に、車が迫ってくるのが見えた。その運転手がうつらうつらとしているのも、はっきりと見えた。
父さんも母さんもはっと目を見開いて、がばっと僕に覆い被さった。
覚えているのは、何かがぶつかった衝撃。それと何人もの悲鳴。生暖かい液体と、冷えていく体。
すべては一瞬で、何もかもは一度に起きた。
放り出された体は動かずに、目もぼやけて、何も理解できなかった。ただ流れる赤色が目に広がって……すぐに気絶してしまった。
次の瞬間には、知らない部屋の知らないベッドに寝かされていた。
そこから、色んな大人が会いに来て、色んな事を言ってきた。
白衣の人は、助かったのは奇跡だとかなんとか。黒い服の人は、残念だとか、お悔やみを、とか。また違う人はお金の話とか、血縁がどうとか。
言ってることがちぐはぐで、混乱した。
ほとんどが理解できなくて、口を開けた阿呆のまま固まる。理解する気があったのかさえ怪しい。とにかく、大人たちの表情から、何か大変なことが起きたことだけは分かった。
「ねえ、なんで僕に話すの? お父さんとお母さんは?」
そう言うと、大人たちはひどく困惑した顔で、悲しそうに口を閉じる。
どうして、そんなよくわからない話を僕にするの?
僕にはわからない。わからないよ。
お父さんとお母さんは? どこにいるの?
なんでここにいてくれないの?
ねえ、会わせてよ。
今日は家に帰って、僕の好きな物をお母さんが作ってくれるんだよ。ご飯をいっぱい食べて、その後にケーキも食べるんだ。
そして明日からも、たくさん、たくさん話をして、ご飯を食べて……
年に数度会う程度の、おぼろげに覚えている男の人にわけもわからないまま、綺麗めなマンションの一室に連れられて、なおも僕ははてなを浮かべた。
「どうして、僕はここにいるの?」
「ここが今日から、君の家だよ」
その返答は、僕にとって答えになっていなかった。
「僕の家に帰りたい。お父さんとお母さんは? 会わせて、お願い」
「湊、お父さんとお母さんは戻ってこないんだ」
「いつ戻ってくるの?」
ごく当たり前の質問をしたつもりなのに、男性は泣きそうに顔を歪めた。まるで僕が酷いことを言ってしまったような気がした。
男性は息を大きく吸い込んで、先ほどよりも優しい口調になった。
「戻ってこれないんだ」
「どうして。僕のことが嫌いになったの?」
「違うんだ、湊。それは違う」
彼はそう言ったが、僕には何が違うのか分からなかった。
「僕はどうなるの?」
「ここに住むんだ、僕たちと一緒にね。これからは、僕たちが湊の新しいお父さんとお母さんになるんだ」
何を言ってるのかが分からなくて、眉をひそめて首を傾げる。すると、彼は笑いと嗚咽が混じったような声を出した。
「湊は、やっぱりお父さんに似ているな」
「お父さんを知ってるの?」
「君のお父さんは、私のお兄さんでもあるんだ」
一度説明されたような気がする。たぶん言われたのだろう。けど初めて聞いたような衝撃にびっくりした。
「君も、お兄さんになるんだよ」
「お兄さんに?」
「君の妹、璃奈だ」
男性は、傍らに立つ女性のそばの女の子を指差した。触れると壊れてしまいそうな小さな子。くりっとした瞳が見返してくる。お店で見るような綺麗で小さな人形みたいだった。
「りな」
僕の、妹。
その意味を理解するために、恐る恐る近づく。璃奈は怖がりもせず、きょとんとして僕を見上げた。
そっと手を伸ばすと、ぎゅっと手を握ってきた。
その瞬間、なぜだかわからないけれど涙がこぼれた。止めようとしても止まらず、むしろ溢れてくる。
親がいなくなったことを、その時ようやく理解できた。
もう母さんも父さんも現れてくれない。姿を見せることも、声を聞かせてくれることも、触れることも、触れられることもない。
二度と。もう二度と。
あの日が僕の誕生日じゃなかったら、と思わない日はない。
誕生日なんてものが来なかったら、父さんも母さんも揃って出かけることはなく、家でゆっくり過ごしていただろう。
今ごろは仕事とかして、僕も学校へ行って、いつもの日が続いてたはずだ。
両親が僕を庇って死ぬなんてこと、起きるはずがなかった。あるいは……僕が生まれてこなかったら。そんなことさえ考えてしまう。
それから、僕はお世話になっている立場であることも理解した。
ご厚意でここに置かせてもらっている。甘えるなんてもってのほか。僕は報いなきゃいけない。僕を置いてくれている人たちのために。
出来るだけ明るく振舞った。悲しくなんてないよ、お父さんとお母さんのおかげで、なんてことも言ってみせたりした。
メソメソしてるところなんて絶対に見せなかった。事故のことがフラッシュバックするたびに胸が締め付けられるけど、部屋の中で声を押し殺して泣いた。
ほとんど毎日のように悲しみは押し寄せてくるけど、心配をかけまいと嘆きは枕に吸い込ませた。
負担をかけないように、この家族のためになれるように、勉強も家事も頑張った。頑張って頑張って、せめてこの家から追い出されないように。
そうするたびに、新しい両親は困った顔をした。ならばと一段と力を入れた。もっと料理を上手く、もっと掃除して家を綺麗に。
そんなことをしなくていいと言われても、余計に頑張った。足りないからそんなことを言われるのだと思った。
やがて諦めたのか、仕事に集中できますようにという僕の願いが届いたのか、気まずさを感じたのか、二人は次第に何も言ってこなくなり、だんだんと帰ってくる時間が遅くなっていった。
中学に上がるころ、しまった、と思った。あまりにも考えなしだった、と。
僕はいい。けど璃奈は違う。璃奈はあの人たちの大事な娘で、あの人たちは璃奈の大切な親だ。両方、お互いの愛を必要とする存在じゃないか。
気づいた時にはもう遅く、三人が顔を合わせることは、ほとんどなくなっていた。
年月が経つにつれて、僕はとんでもないことをしてしまった罪悪感に襲われる。
普通なら、学生の時分なんて、なにがあっても笑い、泣き、怒るような表情豊かな年ごろだ。だけども璃奈は、ほとんど顔が動かなかった。
長い年月一緒にいる僕は、彼女の感情が分かるが、それで万事解決とはいかない。
そのせいで思いが伝えられず、友達もできず、誤解されることも少なくない。なにより、自分を表現できないという悩みで、璃奈は苦しんでいた。
璃奈の表情の原因のいくつかは……いや大半は僕にある。
十分な愛を受けられなかった璃奈は、十分なコミュニケーションを取れず、そのまま育ってしまった。
僕のせいで。
──僕は罰を受けなければならない。
僕は幸せだ。親がいなくなっても、引き取ってくれて育ててくれる人がいて、可愛い妹がいる。友達もいて、仲間もいて、やりがいのあることに取り組めている。
だがその幸せは、僕が享受すべきものだったのだろうか。このまま普通の人のように生きていていいんだろうか。
両親が僕を庇って死んで、引き取られた先で守るべき妹の表情さえも犠牲にして……
二つの家庭を崩壊させた罪を、僕は負っている。誰かの幸せを奪い取って、僕は生きている。
それで気づいたんだ。そうか、そういうことかって。
僕の居場所なんてどこにあってもいいわけがない。だから、いつでも捨てられる覚悟くらい持っておけ。
たとえ拒否されても、嫌われても、置いていかれても、突き放されても、それが自分の人生なんだと、天王寺湊の行く末なんだと理解しろ。そういうふうに、自分の中で折り合いをつけた。
これが僕の人生。僕の人生の価値。
無価値な天王寺湊が贖うためには、人の役に立たなきゃいけない。
高校生になって、エマさんがスクールアイドル同好会に誘ってくれた時、チャンスだと思った。曲作りに関しては経験がある。スクールアイドル活動についても、知識はある。ここで力になれば、ほんの少しは生きていいと言えるんじゃないかと。
でも僕程度の人間は、どうしようもなく無力で、何も変えられなかった。
強く感じたのはあの時だ。優木さんがスクールアイドルを辞めると言って、僕の手を振り払ったあの時。僕が触ることで壊れてしまう不安と、拒絶される恐怖が、体と心に充満した。
結局僕は、ただ壊すだけの存在で、壊れるのを見ることしかできない存在でしかないと知った。
そして、高咲さんが「ラブライブなんて出なくていい」と言った時。空中分解したスクールアイドル同好会が、元に戻った時。何も変えられない僕は、頑張ったとしても誰かのつなぎの存在でしかないと感じた。
だから、みんなのことをちゃんと見て、はっきりと物事を言えて、夢に向かって進んでいく高咲さんが加わったその瞬間。
僕の役割は終わったんだ。