45 第72回湊さんから名前で呼ばれよう会
スクールアイドルフェスティバルを終えても、夏休みは終わらない。が、うだるような暑さに辟易しつつも、スクールアイドル同好会の活動と、高咲さんへの音楽指導のために、僕らはほぼ毎日学校へ通っている。
だけど今日は、学校へ行く前に、僕は璃奈を連れてとある場所まで来ていた。
同じような石の塊が並ぶ、こちら側の人がよりどころとする場所。
墓だ。
汲んできた水をかけ、たわしでごしごしと墓石を掃除、最後にもう一度水をかける。
慣れた作業だけに、そう時間はかからなかった。あまり熱心にやりすぎると、熱射病になりかねないしね。
「お兄ちゃんの、お父さんとお母さん?」
「そう。僕の、父さんと母さん」
「時々、用事で出かけてたのは、これ?」
「そう。お墓参り」
毎月、僕はここに来て、ここでだけ弱い顔を見せていた。ずいぶん情けないことを言った記憶もある。
僕の両親について、そして僕と璃奈の関係を打ち明けるまで、璃奈には黙ってこっそりやっていたことだ。
璃奈にとっては、会ったことのない人たちだ。会っていたとしてもまったく記憶にはないだろう。でも親戚だからか、僕の親だからか、手を合わせて真面目に祈る。
僕も、璃奈の隣で合掌した。
今日は報告に来たんだ。
たくさんの人と話をした。これまでのこと、これからのこと。
その話し合いをしている最中も、正直、逃げたい気持ちはずっとあった。でも、いろんな人が僕のことを考えくれてて、それから目を逸らせなくなったから。
僕は反省して、今後は少しずつ言葉を額面通りに受け止めることにした。そう約束もさせられたことだしね。
ふう、と息を吐いて、今度は目を開けて墓を見つめる。
痛かったに違いない。苦しかったに違いない。
なのに僕は、守ってくれた父さんと母さんの死を受け止められず、ずっと幻影を見ていた。
何が起きたかなんて理解して、向き合えたはずなのに。頭では分かっていたけど、認めたくなくて、十年以上もずっと必死に目を背けてきた。
逃げて逃げて逃げて、そのせいで色んな人に迷惑をかけた。色んな人の好意を無視してしまった。
もう目を逸らすことは許されない。僕自身が許さない。家族のためにも、支えてくれるみんなのためにも、何より自分のために、受け入れて、進まなくては。
ごめん。ごめんなさい。
いや違う。そうじゃない。言いたいのは……僕が言いたいのは……
「守ってくれて、愛してくれてありがとう。立派な人間になるよ。父さんや母さんのような、立派な人間に」
口に出して、伝える。
「愛してる」
当然、墓からは何も返ってこない。
誰も何も返してくれない。
寂しいけれど、それでいい。
それが現実で、事実で、変えようもないことで、僕が受け止めなきゃいけないことなのだ。
枯れたわけじゃないけれど、つい先日さんざん泣き腫らした目から、涙は流れなかった。
大きく息を吐く。
ようやく、荷が下りた気がして、体も心も十数年ぶりに軽くなった。
「行こうか」
「待って」
立ち上がって、掃除用具を返そうと踵を返した瞬間、璃奈は僕の袖を掴んで、引き留めてきた。
「お兄ちゃんは、私がお兄ちゃんを恨んでるのかもって、ずっと悩んでた」
何年も、ずっと考えてきたことだ。
両親があまり帰ってこないのは、僕がいると気まずいから、もしくは任せてても勝手にこなすからだと思ってた。つまり、璃奈が親に甘えられなかったのは、表情が動かなくなってしまったのは、僕のせいじゃないかと。
「そんなこと思ってない。思ったことない。お兄ちゃんは、私のお兄ちゃんだから」
泣きそうな震えた声で、璃奈は続ける。
大丈夫。ちゃんと聞いてるよ。頭を撫でてやると、小さな体を密着させてくる。
「お兄ちゃん。好き。好き。大好き。私、伝えるの下手だけど、お兄ちゃんにそれだけは分かってほしい」
今にも泣きそうな璃奈の頭と背中を撫でてやる。
ああそうか。
僕が抱えてたように、璃奈も重いものを抱えてたんだな。僕の話を聞いた時から、もしかしたらそれよりも前から、ずっと。
「だいぶ心配させたみたいだ」
「心配する。だって……」
「『お兄ちゃんだから』?」
璃奈はうん、と頷く。
「ちゃんとわかってくれて、嬉しい……わかってるよね?」
「たぶん、きっとね」
僕が眉をほんの少し眉をしかめると、彼女は同じ分だけ眉を下げた。
「今は、『きっと』でいい」
最後は、呆れたような口調でそう言ってきた。
「大丈夫だよ、璃奈。わかってる。好きでいてくれてありがとう。僕も、璃奈のことが大好きだよ」
△
『第72回 湊さんから名前で呼ばれよう作戦会議』
夏休みも半分が過ぎたというところで、今日は何をしようかと部室を開けた僕の目に飛び込んできたのは、そんな文字だった。
ホワイトボードに書かれているそれを何度見ても変わらない。『第72回 湊さんから名前で呼ばれよう作戦会議』。周りにハートマーク付き。
「あー……これは?」
すでに揃っている同好会員のうち、 ペンを持っていた高咲さんに訊く。
「『第72回 湊さんから名前で呼ばれよう作戦会議』です」
「それ以上の情報を出してくれって言ってるんだが」
満面の笑みで言われても。
「そんな作戦会議、僕に見られていいの?」
「第71回で、こそこそ作戦を立てても効果がないって結論になったの」
「だから、本人に直談判しよ~ってなったわけなのさ」
つまりこれは、僕の目に入るようにわざとでかでかと書いて待っていたわけだ。てか本当に今まで71回もやってたの? 全然気づかなかったんですけど?
「ほらほら、せっかく劇的な仲直りもしたことだし、みーくんも正式な同好会のメンバーになったことだし、いい機会だと思って」
「ん……」
「というわけで、名前で呼んでください!」
「んん……」
「嫌なんですか?」
「嫌……というわけじゃないんだ。ただ、まあうん……恥ずかしい」
「恥ずかしいって、イマドキ中学生でもそんなこと言いませんよ」
本当かぁ? ちゃんと中学生にアンケートでも取ったのかなぁ?
「じゃあ、なんでエマは名前なの?」
「初めて会った時に、名前で呼べって押し切られた」
「他にも名前で呼んでる人は?」
「璃奈」
「妹じゃないですか……」
「じゃあじゃあ、遥ちゃんは?」
「だって『近江さん』って呼ぶとどっちがどっちかわかんないじゃないか」
「そこは彼方ちゃんのほうを名前で呼ぶべきじゃないのかなあ」
「だーもぅ、ああ言えばこう言うんだから、君らは」
「こっちのセリフですが」
優木さんに呆れられ……呆れられる要素なくない? あるの? 僕が悪いの、これ?
「以前の時みたいに、役になりきってみたらどうでしょう?」
「以前?」
「演技みたいにやったら、って言って名前で呼んでもらったのよ」
「な、なんですか、それ! ずるいずるい!」
「卑怯だ! 差別はんたーい!」
「反対です! 平等な待遇を求めます!」
「は、はんたーい」
中須さんや高咲さんだけでなく、優木さんに上原さんまで乗っかってくる。まずい、押し切られそうだ。
唯一静観しているエマさんに目を向けると、彼女はようやく動いてくれた。
「まあまあ、湊くんを困らせるのはやめようよ。こういうのはゆっくり……」
「エマ、私もしずくちゃんも呼び捨てで呼んでもらったわ」
「湊くん、差別はんたーい!」
味方消えてもうた。
「じゃあ、役はそうですね……天然ジゴロで、女の子にさらっとキザなこと言えちゃう人って設定で」
「しず子、それなりきらなくてもなってる」
「それもそっか」
「どういう意味!?」
それもそっか、じゃありませんが。
「別に、前だって役の設定なかったから今回もそれでいいじゃないか」
「じゃあやってくれるんですね!?」
「『さん』もなしですよ」
「ここまできたら逃げないよ……」
「逃げられないと言ったほうが正しいんじゃないかな」
「諦めたって言うほうが合ってる」
口々に好きに言ってくれるねえ。まあその通り、抵抗する意思もなくしたんだけどさ。
「さあさあほらほら、観念して呼んじゃいなよ」
「わかった。呼ぶ、呼ぶから……」
深呼吸して、心を整える。
ただ名前で呼ぶだけというなかれ。呼び慣れた名を変えることは相当の労力が必要なのだ。特に女の子をあまり名前で呼んだことのない僕にとっては。
「でも、アタシにはわかんないなー。その、恥ずかしさっていうの?」
「それは……愛はぐいぐい行くタイプだからね」
流れで呼べたと思ったら、彼女の動きがピタリと止まった。
「……ア、アハハ、けっこー恥ずいね、これ」
「会話止めるのやめようよ。こっちも恥ずかしくなるんだからさあ」
せっかく会話の途中で自然に織り込めたと思ったのに、一瞬にして空気が止まるんだもん。心臓に悪い。
顔もなんだかほんのり赤くなってるし。呼ぶたびにこれじゃ、もたないぞ。
「ふふん、愛先輩も大したことありませんね。かすみんはそんなのじゃ動じません! かわいーく受け流してあげますよ!」
「流すな。受け止めろ」
「だったら……湊さん湊さん」
桜坂さんがちょいちょいと手招きする。
耳でこそこそと言ってくる内容に、僕は怪訝な顔をした。
「なんでそんな……」
「ここは思いっきり行って、無理やりにでも慣れましょう」
ショック療法……いや違うか。だけど確かに、慣れるために一度飛び込んでみるのも悪くない。
こほんと咳をして、中須さんに近づいていく。何が来てもいいように彼女は身構えた。
お互いの距離が三十センチもないくらいに距離を詰めたところで……
「たとえどんな呼ばれ方をしても……」
「可愛いよ、かすみ」
「ぴぅっ!」
珍妙な叫び声をあげる中須さんの顔は面白いくらいに真っ赤になって、湯気が立ちそうなほど熱くなっていた。
「可愛い、は結構言ってるのに」
「な、名前がつくと全然違うっていうか……」
得意げだったのに、今はあっちこっちに視線を泳がせている。言われ慣れてるだろうに、何を今さら照れることがあるのか。
「一年生も二年生もだらしがないなあ。ここは彼方ちゃんの出番だぜ~」
次にずいっとやってきたのは近江さん。確かに彼女ならかるーく返事してきそうだ。
「彼方さんですか。それなら……」
「無茶なやつはやめてくれよ」
「湊さんの兄力なら、すんなりと出来るはずです」
「初めて聞いたよ、兄力なんて言葉」
また耳打ち。これこれこう言ってくださいという指令に、僕はまたしても眉をひそめる。
「大丈夫です。彼方さんなら許してくれますから」
「どんなのでも、どーんとこーい」
「ほら」
なんで二人ともそんな自信満々なんだろうか。特に、何されるかわからないはずの近江さん。
「セクハラだとか、騒がないでくれよ」
「言わないよ~」
仕方がない。ここは勇気を振り絞って、腕を振り上げる。その手を徐々に、徐々に下げつつ、近江さんの反応を窺う。
触れられようとしているのに、一切動じようとしない。
やがて僕の手は、彼女の頭に到達。璃奈にするように、ゆっくりと撫でる。
「いつも頑張ってて、偉いぞ、彼方」
労うように、よくやったと褒める。
小さい時、手伝いをしてくれた璃奈にせがまれてよくやってたなあ。その時のことを、なんとなく思い出す。
すると近江さんは手で顔を覆い、遥さんの前でだけ見せる機敏な動きでソファへとダイブした。
「~~~っ」
顔も向けずに、何かしらのダメージを受けたみたいにじたばたとしだした。声にならない叫びをクッションに向けて、悶絶している。
なんか……大丈夫か?
「さて、彼方さんも陥落させたところで、次はどんな言葉を言わせましょうか」
「ねえ、名前で呼ぶって目的忘れてない? 僕で遊んでない、これ?」
僕の言葉は、わいわいと盛り上がる彼女たちに無視された。
「シチュエーションプレイよね、これ」
「プレイ言うな」
朝香さんの言うような、そんないかがわしいものじゃない、なんて首を横に振っていると、高咲さんが目を輝かせてやってきた。
「これお願いしたらどんな湊さんでも見られるんですか? 好きな状況で名前呼んでもらえるんですか?」
「ねえ、これシチュ……」
「言わないでくれ、僕が悪かった」
どんな感じで言ってもらおうか、なんて上原さんと盛り上がっているのを見ていると、否定できなくなってしまった。
その後、彼女たちの変な様子は数十分続いた。
例えば……
「私はとある国のお姫様で、湊先輩は別の国の王子様なんです。私の国と王子様の国はお互い敵同士なんですが、惹かれ合う二人……王道ですけど憧れますよね。ああでも、姫と従者なんて身分違いの恋も捨てがたい……これは難しい問題ですね。私が一般人の設定で、シンデレラストーリーの末に結ばれるなんてのも悪くないですし、そうなったら、私、先輩に強引に手を引かれて、衆人環視のなか口づけを……私を自分のものだと主張する強気な湊先輩、ありですね!」
早口すぎて何言ってるのかわからん桜坂さんとか。
「なんでも……なんでも……」
うわごとのように同じ言葉を繰り返す優木さんとか。
なんでも言うとは言ってないんだが。
だいぶ変な空気が流れている部室で、僕が解放されたのは何時間も後だった。