「……つまりここは、この公式を当てはめると解けるようになります」
「ほんとだ。ありがとう、せつ菜さん」
カリカリとシャーペンの走る音が続く。生徒会長モードの……つまり中川さんの教えのもと、璃奈が問題をすらすらと解いていった。
「せつ菜、さっきから璃奈に教えてばっかりだけど、大丈夫?」
「はい。私の分はもう終わりましたので」
「優等生だなあ。僕も璃奈もまだこんだけ残ってるのに」
もう夏休みも終わりが近いというのに、フェスティバルにかまけて、半分以上を残してしまっていた。
それを一気に片づけようとしたところで、もうほとんど終わらせていた助っ人が家に来てくれた。
一人はせつ菜。もう一人は……
「まあまあ。手伝ってあげるから、頑張ろう、ね?」
僕の左手にいるエマだ。お手数おかけします……けど、あの……
「エマ、そんなに近寄ってこなくても……君のだって、まだ終わってないんだろ?」
「もうあとちょっとだけだから、湊くんのを手伝おうかなって」
そうは言っても、そんなに身を向けてこなくてもいいはずだ。体、ほとんど密着状態で、顔を向けると間の距離が十五センチくらいしかないの、ドキドキしちゃうんだが。
腕に柔らかい感触が……なんてベタなことが浮かぶくらい、集中できてない。
「まだわからないことはないから」
「でも湊くん、わからないところが出ても一人で悩みそう。こうやって監視しておかないと」
薄着だから彼女の柔らかさが余計に、こう、ダイレクトに……うぶな男子高校生をからかってそんなに楽しいですか!
「近づいちゃうのは仕方ない。お兄ちゃんに抱きつくと、落ち着くから」
「わかります! なんというか、包み込まれる感覚がして、居心地がいいんですよね」
「せつ菜ちゃんも、抱きついたの?」
「あ……」
口を手で抑えても、時すでに遅く、せつ菜のほうを向いた視線は再び僕に注がれた。
「湊くん、私は思うんだけどね、人には平等に接しなきゃいけないって」
「ご、ごもっともで」
「じゃあ、はい」
立ち上がって腕を広げて、ウェルカムといった姿勢で待ち構えるエマ。わからないふりをしていると、ぷくっと頬を膨らませた。
「璃奈ちゃんにもせつ菜ちゃんにも抱きついたんでしょ?」
「す、すみません。弾みでつい話してしまいました……」
ほんと、即反応してたよね。弾みすぎ。スーパーボールかな?
「いや、あの……璃奈は、抱きついてくるだけで僕からは抱きついてないし、せつ菜のも一回だけで……」
「ふーん。湊くんは、私と二人とで差別するんだあ」
う。的確に抉ってくる。
確かに、僕は出来るだけ平等にみんなと接しようとしている。でもね、それとこれとは違うんじゃないかなあ……ほらこういうの、他の人にもバレたら……
「してくれたら、他の人には言わないから」
これまた的確に、僕が受け入れやすくなるような提案を投げてくる。
なんか最近、エマに僕のことを全部見透かされてるような気がする。そんなに僕って分かりやすい人なんだろうか。
じっと見てくる。他の二人も、僕がどうするのかを固唾をのんで見守っている。
もろもろを考えて、僕はゆっくりと立ち上がった。遠慮気味に近づいて……そっとエマの背中に手を回す。
璃奈やせつ菜よりも身長が高いぶん、より近くに感じる。
女の子特有の柔らかさや、ほだされるような、うっとりしてしまうような甘く幸せな匂いが鼻をくすぐってくる。
これはなんかヤバい。へんなハマり方しそうだ、と頭の隅っこが訴えてくる……けど、体は反して、彼女をもっと抱き寄せるように手が動く。
すると、エマも抱き返してくる。それだけで終わらず、さらに首筋に顔を埋めてきた。
「わ、わ、わ……」
「エマさん、大胆」
せつ菜も璃奈も顔を真っ赤にして、顔を覆う指の隙間から覗いてくる。
後輩と妹の教育に悪い、と言いかけたところ――
「ね、もっと強く」
果林なみの妖艶な吐息が耳にかかった。ぞくぞくと背中が震える。
そんな甘えるようなことを言われて拒否できるはずもなく……いやいや、言うことを聞かないと離してくれなさそうだから、腕に力を込める。
漏れてくる小さな声が僕を刺激して、だんだんと理性を削り取っていく。それはもう恐ろしいスピードで。
「湊くんもどきどきしてるね」
「そういうこと言わないで」
心臓が破裂しそうなほど鼓動してるのを自覚してしまうじゃないか。鼓動するたびにかすかに揺れる彼女の胸も、それが薄い布を隔ててるだけで触れているという感覚も……
「こ、これ以上はダメです!」
その小さな体から想像できないほどの力で、せつ菜が僕とエマを引きはがした。
あ、あ、あ、危ない。危なかった。もうちょっとで、マジでダメになるところだった……あと一秒でもくっついたままだったら、どうなってたことか……
「ありがと、せつ菜ちゃん。もう戻れないとこだったよ」
「ど、どういたしまして……?」
冷房ガンガンにつけてるはずなのに、あっついあっつい。
顔を合わせづらくなって目を時計に移動させると、いつの間にか十二時を回っていた。
「休憩しよう休憩。お昼ご飯作るよ」
「わあ、楽しみ!」
「手伝えることがありましたら、何でも言ってください!」
「せつ菜さん、大人しく待ってよう」
立ち上がりかけたせつ菜を、璃奈が引っ張る。そのまま押さえつけといてくれよ、頼むから。
料理はいい。気分を落ち着かせてくれる。さっきまでのことを頭の隅に封印して、やるべきことに集中する。
火も使うから危ないし、ちゃんと順序や量に気を付けないと美味しいものは出来ない。だからさっきの感触がまだ残ってるとか思ってる暇ないんですよ。そこんとこ分かって、天王寺湊。
煩悩を振り払って完成させたものを、テーブルの上に置く。
「お待たせ」
「わあ、パスタ!」
「和パスタってやつ。最近作るのハマってるんだ」
「いい匂いだね」
醤油だけじゃつまらない味になるけど、コンソメ入れることでパンチが出てくる。それだけだと味は濃いめになるが、バターで和えたパスタと混ぜると、マイルドになって食べやすい。
で、醤油とバターといったら、具はほうれん草とベーコンで決まり。コーンも入れたかったけど、あいにく無かった。
冷蔵庫にはもっと豪華な食事にできる材料が揃ってたけど、あんまり重めにしてもこの後の勉強に身が入らないし、それはまた今度にしよう。
「ん~~、ボーノ!」
「彼方さんが言ってただけあって、料理が上手ですね」
「お兄ちゃんのご飯、いつも美味しい」
まるで自分のことかのように、璃奈は胸を逸らす。
「湊さん、ずっと料理してるんですか?」
「中学生になってからかな。外食やコンビニ飯ばっかりだと、璃奈の健康に良くないから」
「大変なんじゃない?」
「今はもう慣れたよ。それに、璃奈がちゃんと食べてくれたら、僕はそれで満足だから」
空になった皿や弁当箱を見せてくる璃奈の可愛らしさといったら、それだけで苦労が泡のように消えていくほどだ。
運動もするようになったし、ますます栄養や量に気を付けないと。多すぎず、少なすぎず。
「お兄ちゃんのおかげで、朝ごはんも食べるようになった」
「たしかに、こんなに美味しいと食べないのがもったいないですよね」
「それだけじゃなくて、ほら、この前キャラ弁も作ってくれた」
璃奈がスマホを見せると、せつ菜はちょっと引いたような目で僕を見る。
「……なんだか、女子力でどんどんと引き離されていく感じがします」
「いいなあ。私も湊くんのご飯、毎日食べたい」
んぐっ。
喉にパスタが詰まりかけた。
「どうしたの?」
もし言ったのが逆だったら、つまり僕がエマに言ったら、つまり男が女に言ったら、言葉以上の意味が含まれることになる。
多様性に寛容な今の時代、女性から男性へも同じ意味を含むのかもしれないけど……エマ自身はきょとんとしていた。
「天然って恐ろしい……」
「天然なのかな。素ではあるとは思うけど」
この中で最年少の璃奈だけが、僕の呟きの意味を理解していた。
△
お昼も食べ終わり、さあ午後も頑張るぞ……とはならなかった。
午前に極集中したせいか、お腹が膨れたからか、食休みがてら璃奈が自分の部屋に誘う。
前に侑たちを家に招いた時から、多少変わっていて、寝る前に柔軟を行うためのヨガマットが一番目につくだろうか。
そんな中で、璃奈が取り出しましたるはレースゲーム。
ゲームをやる人にとってはおなじみのキャラを動かし、アイテムで逆転も狙える、世界で人気の一品だ。
「これ、みんなでやりたい」
「やりましょう! 大勢でやってみたかったんですよ!」
せつ菜も乗り気なら止める者はおらず、僕とエマも頷く。
予備も含めてちょうど四人分のコントローラーもあって、全員で出来る。せっかくだからとリビングの大きなテレビにゲーム本体を接続して、ソファに座る。
「懐かしいなあ。昔なんかは、こうやって人の家に集まってゲームしたもんだよ。コントローラー持ち寄ってさ」
「いつの話してるんですか」
ええ、嘘ぉ。やったことない? コントローラーのスティックをぐりぐり回して手の平の皮剥けたりしないの? 爪立ててボタン連打しないの?
「お兄ちゃん、昔にやってたゲームしかしないから」
「最近のはね、もうついていけない」
などと話して、簡単なゲーム説明もエマにして、ようやくスタート。
流石に一番やりこんでいる璃奈がぶっちぎりで、続いてゲーム好きのせつ菜が追う。離れたところで、僕とエマが最下位争いをしていた。
「璃奈さん、負けませんよ!」
「望むところ」
カチカチと冷静にボタンを押す璃奈。対して、せつ菜はコントローラを動かすのと同じく、体も動いている。
「わー、二人とも速いね」
「これもう追いつけないな」
進行を妨害するようなアイテムもあるが、それを使っても追いつけないほどに距離が空いている。
初心者でも難しくないようなステージなのだが、それゆえに二人の上手さが目立つ。
「むむむ」
「ぬぬぬ!」
互いに一歩も譲らぬ熾烈なデッドヒート。一位を奪って奪われての大熱戦。
制したのは……
「やりました!」
せつ菜だった。
ガッツポーズを掲げ、満面の笑みを咲かせる。
「璃奈に勝つなんてすごいじゃないか」
「はいっ。私もそれなりにやっているので!」
「せつ菜さん、すごい」
「全然追いつけなかったよ~」
褒められて、頭を掻いて照れるせつ菜。
僕に対することで思い詰めてたところもあったみたいだから、少しは発散できたようでなにより。
やっぱりせつ菜には笑顔が似合う。
そこからさらに、パーティゲーム、ガンシューティング、スポーツ系など、ありとあらゆるものをやり倒して……
「すっかり遊び倒してしまいましたね」
気づけば、もう二人が帰る時間となってしまった。
「こんなにやるつもりじゃなかったのに」
「でも楽しかった」
それについては完全同意。同好会のみんなとゲーム大会なんてのも面白そうだな、とふと思った。
こういうテレビゲームじゃなくても、ボードゲームとかアナログなのでも、十分盛り上がることだろう。そういうのをたくさん持ってる部があったはずだから、貸してもらおうかな。
まだまだ外は明るい。だけど、二人とも門限があるから、名残惜しくも片付けを始める。といっても、昼食の前に、テーブルに置いてあったノートやら教科書やらはもう鞄の中にしまわれてる。
きょろきょろと周りを見渡して、忘れ物がないことを確認すると、見送りのために玄関へ向かう。
「また来てね」
「ここならどんだけ騒いでも大丈夫だからさ」
親がちょっと厳しいらしい中川家と、学生寮じゃ遊びたい盛りの高校生には少しきついだろう。
うちは休日でも親があんまりいないし、お高いマンションなだけあって防音もばっちり。二人で使うには持て余す。
僕らもちょっと寂しい時があるし。
「うん。用事無くても、来ていい?」
「もちろん」
「次は、私特製のご飯をごちそうしてあげます!」
それは勘弁。