虹ヶ咲は生徒数も多いが、もちろん放課後には教室に残る生徒は少なく、各自帰宅したり部活へ赴く。
音楽科の人間は特に、部に参加していない者も防音室や音楽室へ行き、練習する人が多い。
そんなわけで誰もいなくなった教室で、僕とある女性は椅子に座ってお互いに向き合っていた。
無遠慮に組んだ足をぷらぷらさせて、彼女の言葉を待つ。
「…………」
「昨日は、どれだけ眠れたの?」
いつもの質問だ。
これに何の意味があるかわからないけど、僕もいつも通りに返す。
「よく眠れたよ」
「学校生活は?」
「順調。何の不満もなく、楽しくやれてる」
この相変わらずの返答に、彼女はなぜか引っかかりを覚えたみたいで、ほんの少し首を傾げた。
「……正直に話してくれないと、あなたを理解できないわ」
なぜ。なぜ理解する必要があるんだ。
喉まで出かかった言葉をぐっと飲み込み、表情をそのままに口を開く。
「本当のことだよ。勉強も音楽も部活も全部、問題ない」
「あなたの親は心配してるみたいよ。家に帰れば、必ずあなたが出迎えてくれることに」
急に親の話をされて面食らう。
動揺したのを抑え込もうとするあまり、目が開いて、座り直してしまった。
「子が親の帰りを待つことに、心配することなんてないじゃないじゃないか。微笑ましい話だろう?」
「ええ。それが、日を越えるような深夜じゃなければ──毎日、掃除や料理、洗濯、その他もろもろ……一人でこなしていなければ、私も心配いらないと答えていたでしょうね」
確信めいた言い方に、冷や汗が出そうになる。
「家事が好きなんだ」
「それでも、親や妹に一つの文句を言わず、甘えることもしないのは問題よ」
「知り合いに、特待生としての成績を維持しながら、家事もこなして、部活もして、バイトまでやってる人もいる。それくらいは珍しくもない話だ」
僕がそう言うと、彼女は目を細めて、憐れむように頭を振った。
「見過ごされていい話ってわけでもないわ」
△
「みんなで一緒に活動するの、なんだか久しぶりに感じるねぇ」
「なんだか、嬉しいね」
女子更衣室では、遅れて来ると湊から連絡を貰った同好会のメンバーが着替えを済ませていた。
ここにいるのは総勢で七人。元よりも賑やかになって、特に彼方とエマは嬉しそうににこにこしていた。これから活発に活動できることを考えて、かすみもしずくもわくわくと目を輝かせている。
ただ一人、せつ菜だけはほんの少しだけ陰りを見せていた。
「湊さんと侑さんのおかげで、これから上手くいきそうです。それなのに、私、あんなことをしてしまって……」
「あんなこと?」
「……私の最後のライブの時、ステージが終わった後、私は引退を告げました」
勝手に一人で立ち、勝手に終わり、湊にステージの裏で言った言葉を思い出す。
「追いかけてきたあの人の手を……払ってしまったんです」
ステージの調整も、衣装作成協力も、楽曲制作も、あらゆることを手伝ってくれた湊を裏切る行動に、彼はどう思っただろうか。
怖くて聞けないままなのは良くないと思いつつも、せつ菜はいまだ面と向かって腹を割った話を出来ていない。
「きっと大丈夫ですよ! そんなの気にしてる素振りなんてなかったですから」
「そうだよ。戻ってきてほしいって、湊さんが一番言ってたんだから」
「ほ、本当ですか?」
かすみと侑の励ます言葉に、せつ菜は顔を上げる。
「うん。元気なせつ菜ちゃんが見たいって。だから、せつ菜ちゃんが元気だったら、湊くんも嬉しいんだよ」
『僕はまだまだ、君のステージが見たいんだ』
湊はそう言った。必死に呼び止めようとした。同好会に戻そうと動いてくれた。であれば、やるべきは不安を募らせることではなく、彼が思うようなアイドルであること。
そう、そうですね。よぉし、とせつ菜は手を握った。
△
みんなの着替えが済むまで、なんとなくぼーっとしたくなって、中庭のベンチに腰を下ろす。
一度同好会が解散してからここまで、ものすごく長い時間が経ったような気がする。
僕だけじゃ、どうしようもなかった。
『だったら、ラブライブなんて出なくていい!』
高咲さんの叫びが、頭の中で反響する。
あんなこと、僕は言えない。
ラブライブはスクールアイドルにとって大切なイベント。それを捨ててしまおうなんて、言えなかった。
でもそれをきっちり切り伏せる高咲さんの覚悟が、僕には眩しかった。
「強い、なあ……」
みんな、心の中で折り合いをつけて、どんどんと前に進んでいく。その中で、たぶん、僕は……
「にゃあ」
鳴き声とともに、足元に小さな感触があった。
なんだ、と目線を下げると、白い猫がすり寄ってきていた。
「はんぺんか。お前、璃奈のところに行かなくていいのか?」
抱き上げ、膝に乗せる。かつて生徒会長が追いかけ、今は璃奈が面倒を見ているあの猫だ。
逃げられるかな、と思ったけど、意外とその場で寝転がりだした。猫ってもっと、人に懐かないと思ってたのに。
あくびをしだしたはんぺんの頭を撫でる。
「気持ちいいか?」
喉がごろごろ鳴っている。これは機嫌が良い時だったっけ。
昔は、こうやって璃奈のことも撫でてた記憶がある。いまはもう高校生だから、喜ばないどころか嫌がるだろうけど。
「お前、生徒会お散歩役員になったんだってな。居場所があるって、落ち着くだろ」
中川さんの計らいによって、はんぺんは生徒会役員の一人……一匹、学校の一員として扱われるようになった。
そのおかげで、生徒たちのマスコットキャラクターとして可愛がられ、追い出されることもなくなった。
無理やりな話だが、あの真面目な生徒会長が決めたことなら、と抗議する者はいない。
「お前が羨ましいよ」
思わず、ぽつりと本音が出る。
にゃあと鳴くだけの猫が相手だったのが幸いだ。こんな弱音、誰かに聞かれたら何を言われるかわかったもんじゃない。
彼女たちは自分のことで手いっぱい。なのにサポーターである僕が、弱っていたり揺らいでいたら、不安にさせるだけだ。
ポケットが震えた。優木さんから電話だ。ふう、一度深呼吸して、通話ボタンを押す。
<湊さん、みんな着替え終わりました>
「わかった。じゃあ、いつもの練習場所で」
通話を切ってもう一度深呼吸。はんぺんを地面に下ろし、最後に背中を撫でた。
「それじゃあ、はんぺん、またな」
△
「どうですか?」
「やっぱり、優木さんは人気が高いね。動画再生数爆上がりだよ。つられて、中須さんと上原さんも知られていってる」
「よかったね、歩夢、かすみちゃん」
「ついでみたいなのが釈然としませんが……かすみんの可愛さが知れ渡ってるということで、よしとしましょう」
練習もひと段落つき、僕の持つPCを囲んで、みんなが覗き込む。
先日、ついに優木さんのMVが投稿された。
優木せつ菜復活、ゲリラライブ、新MV。これだけの要素はスクールアイドル界を少なからず揺るがしたみたいで、虹ヶ咲スクールアイドル同好会の注目度も高まっている。
「あ、そうだ」
僕は鞄から一枚の紙を出した。
「創部届。新しく同好会作るのに必要だから、生徒会に持っていってくれる?」
今はまだ、スクールアイドル同好会は廃部状態。勝手に名乗っているだけだ。
新しく作る必要があるため、僕が代わりに用意した。
「あれ、でもせつ菜ちゃん、ここにいますよ?」
「今日はまだ副会長がいると思いますから、そちらに渡していただければ」
「渡すのは副会長でもいいの?」
「はい。代理の権限があります。それに事前に話は通してあるので、スムーズにいくと思いますよ」
「へえ~」
ここらへんの事情は、僕も何度も生徒会に足を運んでいることもあって知っている。
副会長も中川さんに負けず劣らず優秀で、きっちりした仕事をこなしてくれるから、不備があればすぐさま指摘してくれるだろう。
高咲さんもこれからお世話になることだし、顔を覚えてもらう意味も込めて、彼女に行ってもらったほうがいい。
「ん、じゃあこれよろしく」
「はい!」
高咲さんは、僕が渡した紙一枚を大事そうに抱える。そのまま、たったったと駆けていった。
「これで、やっと正式に『スクールアイドル同好会』を名乗れるわけですね」
「かすみちゃんが頑張ってくれたおかげだよ~」
「ふふん、もっと褒めてください!」
スクールアイドルとして一人で居場所を守ってくれた中須さんに、みんなが寄っていく。
一人だけ、エマさんだけは僕の隣に立った。
「ようやく、再始動だね」
「うん」
「ありがとう。湊くんのおかげだよ」
「礼を言うなら高咲さんに言ってよ。ほとんどあの子のおかげだからさ」
また頭に響く、『ラブライブなんて』という言葉。ラブライブに出ないと、みんなが納得した今でも口に出せない。
「湊くん、大丈夫~?」
いつの間にか目の前まで迫ってきていた近江さんに、はっとする。
「いきなり近くに来るのはびっくりするからやめてくれ……」
「え~? 湊くんがぼーっとしてただけだと思うなあ。彼方ちゃん悪くない。で、何かお悩み?」
「みんな戻ってきてくれて良かったって思ってたんだよ。人数いないと、同好会設立すら出来ないしね」
「……あれ? それって……」
「とうちゃーく!」
両腕を上げて帰ってきた高咲さんに、近江さんが考えていたことが吹き飛ばされる。
彼女の言う『トキメキ』を感じているときの顔で、ぶんぶんと腕を振っている。
「早かったね」
「はい。無事に受理されましたので、今から私たち、虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会、ですっ。とはいえ、部室が使えるのは明日からになりますが」
「おー」
全員でパチパチ拍手。
一度はどん底に落ちてしまったけど、全部が順調。上手くいっている。
中須さんがいなければ同好会は残っていなかったし、高咲さんと上原さんがいなければ盛り上げることもできなかったし、元同好会メンバーが戻ってきてくれなければこんな和気藹々とした空気になっていなかった。
このスクールアイドルたちと高咲さんの誰が欠けても駄目だった。
僕は彼女たちの支えになれるように努めよう。
再び壊れてしまわないように。
「さて、じゃあ練習の続きを始めよう」