突然だが、「異変」という言葉を日常生活で耳にすることはあるだろうか。この言葉には、普段は見られない異常な現象や出来事を指すのだが、こと幻想郷においては、人ならざるものたちが起こす騒ぎのことを指す場合がある。何故このようなことを話すのかといえば、丁度その「異変」の対処に向かおうというところだからだ。
つい数日前、残暑に唸る幻想郷を突如として現れた紅い霧が侵し始めた。霧はまず高空で太陽を覆い隠し、次いで幾分か早い冬の訪れを告げるがごとく低空へと降り始める。この騒ぎ、当初はどこかしらの妖怪の気まぐれとばかり思っていたのだが、鮮やかな紅が山頂に立つ博麗神社まで覆い始めたものだからただ事ではないと考え、霧に僅かばかりの毒性を認めると確信に変わった。
この博麗霊夢、主犯の思惑などどうでも良いが人里への危害は何があろうと許すわけにはいかないのだ。外を出歩く人間がぱったりと途絶えた以上、妖怪たちは気が立っている。目星をつけたのは湖。最短距離を飛び、邪魔者はなぎ倒すのが良いだろう。
「博麗の巫女、ただ今より異変解決と行きましょう」
紅に染まりつつある幻想郷の空を信念固く翔けぬける。勢いのままになぎ倒した妖精はさっきので五匹目か、と余計なことを考えていたばかりに、不意を突いて現れた真っ暗な闇に突っ込んでしまった。……このあたりで闇を扱える妖怪は何が居ただろうか。そんな考えをめぐらしていると、闇の向こうから幼げな声が響いた。
「あなたは、取って食べられる人類?」
油断大敵とはまさにこの事か。姿を見ればいくらか手の内を探ることも出来ようが、こう暗いままには如何せん表情ひとつ見ることも出来ない。
「良薬は口に苦しって言葉、聞いたことはあるかい?」
闇の向こうの声の主は、考えを纏めるぐらいの少しの間をおいて、妖力の塊を打ち出した。
「苦くても構わないわ。だって、お腹がすいているんだもの!」
空腹を強調するということはつまり、人食いか。そのような考えを導き出すくらいの余裕があったのは、打ち出された塊がまったくもって見当違いの方向へ飛んでいったからだろう。おまけに、強く輝いていた塊の軌跡から奴の居場所もだいたいの見当が付いた。
適当に退魔針でも打ち込んでやろうかと構えた瞬間、一筋の閃光が走る。体が反応する。一瞬のうちに打ち込まれた針はしかし、木の幹に四つの穴を開けるだけに終わった。わき腹を鋭い痛みが焼く。だが、声など漏らさないし思考を乱すことも無い。そのようにしてこれまで生きてきたのだから。あの一瞬、奴は布が擦れる僅かな音を頼りにわたしのわき腹を打ちぬいた。奴がもっと正確な狙いを付けられるだけの腕を持ち合わせていたのなら、とっくに心臓を潰されていたかもしれない。油断しているつもりは無かったが、やはり気の緩みは少なからずあったようだ。
「わたし知ってるわ!夜に出歩く人は取って食べてもいいのよ!」
傷に御札を貼り付け、奴との鬼ごっこが始まった。闇の中を飛び回るわたしを、何本もの閃光と、たくさんの妖力の玉とが入り混じって掠めていく。無論、わたしのからだを掠めるのではなく、両の手のひらに広げた結界にだが。打ち落とされたかのように回転を続け、弾きとんだ黄色や青の妖力弾が方々へ散る様は今宵見えぬ筈の夜空のように幻想的な魅力を振りまいた。何せ奴もあちこちへ飛び回るものだから、そこら中へ妖怪の殺気が振りまかれて迷惑極まりない。
壮絶な鬼ごっこに変化が訪れたのは、それから少したってからだった。光の届かぬ闇の中で鋭く尖らせた聴覚を駆使する奴は、身を蝕む空腹と当たらぬ攻撃に痺れを切らしたのか猛攻を途切れさせた。三流ならばこれを好機と見て突っ込むだろう。二流ならば守りを固めてから突っ込むだろう。だがわたしは違う。わたしはただ立っているだけでいい。一度戦いに発展したのならば、相手のもてるすべてを残らずいなした上で彼我の実力差を嫌というほど刻み込んでやればそれでいいのだ。それこそが他ならぬ我が母から学んだ博麗の巫女の流儀なのだから。
「さあ、早くすべてを見せなさい。あいにくわたしは急いでいるんだ」
奴の自尊心を出来るだけ傷つけるように、奴が激昂するのを待ち望むように、出来るだけ余裕を見せ付けるように言い放った。事実としていくらでも余裕はあるわけだが、奴はわたしの思惑通り激昂し叫んだ。
「今すぐヒガンを見せてやるわ!この”ムーンライトレイ”で!」
闇を切り裂くような勢いで二つの光の柱が撃ち出される。めまぐるしく色を変えるそれらは、わたしを挟み込むように叩きつけられた。今まさに当たろうかという二つの柱は真っ白に輝き、奴が作り上げたであろう闇すら飲み込む様は敵ながら美しいと思わざるをえなかった。
自らの内に闇を引き戻し、常闇の妖怪ルーミアが光の晴れた先に見たものは、まったくの無傷で自分へと札を突きつけてみせる紅白の女の姿だった。困惑や憤りなどといった感情よりも先に、諦めと自嘲の念が湧き上がってくることをルーミアは抑えきれず、にわかには受け入れがたい事象を目の当たりにして半ば放心状態にあった。無理も無いことだった。何も見えぬ闇という自身の作り出した圧倒的優位の中で、じっくり追い詰めた上で放ったはずの最高の一撃を涼しい顔でやり過ごされようものならば、誰しも立ち尽くすほか無いだろうから。
「なんで……どうして……こんな、こんなことッ!」
もはや為す術のない状況において、敗者が見せる最期の表情というものは、錯乱し恐怖に塗れた最高にみすぼらしいものであろう。あまりの恐ろしさに歪み、強く食いしばりすぎた口から血がこぼれ、涙とハナミズでぐしゃぐしゃになった顔を見て女はとても不機嫌な表情を見せた。もとは可愛らしい少女の顔がこうして醜く歪む様を視界に納めているというのに、勝ち誇り悦に浸るでもなく、同情し悲しげなまなざしを向けるでもない。ただ単純に、まるで取りにくいごみ屑でも眺めるかのような不機嫌さを強く向けるのだ。ルーミアのこころにはこの女が心底恐ろしい存在だと、それはそれは深く刻み込まれたことだろう。生物は何よりも理解できぬ存在にこそ恐怖を感じる。
「この結果は当然のことでなければならない。それこそが、博麗の巫女の役割なのだよ」
ただそれだけを冷ややかに告げた女は、針を一本だけ取り出し、ルーミアの脳天を鋭く貫いた。ルーミアには、それが自分たちにとって絶大な効力を発揮する物で、後数回の鼓動が鳴り終わるまでに自らの命が尽きるだろうという事実が理解できた。
なまじ理解できたがために、人食い妖怪の矮小な理性の部分が両の手を突き動かし、一回の鼓動のうちに鋭い爪は喉笛を突き破った。破けた皮をさらに大きく広げるようにして、赤黒い血液が噴き出した。空気を運んだ綺麗な血液が、首元からあぶくになってとめどなく零れ落ちる。針の効力によって妖怪の肉体は強靭さを失い、支えをなくしたからだはあちこちが肉片となって崩れ落ちた。
肉片の浮かぶ血溜りと成り果てた常闇の妖怪の上に木の枝で組んだ十字架を立てた。殺した者が何を言っても仕方の無いことだが、幻想郷の担い手たるわたしはいかなる存在の死であろうとも弔うべきなのだ。どんなに急いでいようとも、これだけは絶対に欠かしたことがないと断言できる。不都合があるとすれば、予期せず血塗れになったわたしは異変の首謀者の目にどのように映るだろうかと心配になったぐらいか。
「まだ夜は始まったばかりだが……さっさと向わなければな」
異変解決の夜は、まだ始まったばかりだ。
霊夢さんは二十歳ぐらいのつもりで描いてます(多分)