博麗霊夢は飛んでいた。毒々しい紅が次第に濃く降りてくる様は、異変の主犯の居場所をこの上なく確かに知らせている。幻想郷で最も広く、最も美しいと呼ばれた霧の湖は、いまや雷雲が集い紅霧の立ち込める悪魔の根城となったのだ。耐性のないものを静かに蝕む鮮やかな霧は湖の奥へひとつの流れを作っている。まるで、巫女たる人間を誘うかのように。それは罠であったかもしれないが、霊夢は迷うそぶりもなく紅へと姿を消した。
同じ頃、湖の対岸から突っ込んだ影があった。黒ばかりでいかにも魔女といった感じの洋服をはためかせ、綺麗な金髪を大きな三角帽子で押さえ込むひらひらした少女。箒に跨り霧中を突き抜ける彼女の名は魔理沙と言った。
魔法使いになるために魔法の森に住み着いてからはやくも二年が経つ。魔法の腕もずいぶんと上がり、新しい刺激を求めたくなった矢先に起きた異変はまさに好機だったのだ。行動力と思い切りの良さで生きてきた魔理沙という人間にとって、この度の異変は多少の危険を冒してでも関わる価値のある事象である。長い付き合いの青年に作ってもらった特製八卦路を握り締め、飛び出してきた先がここだった。
「霧ばかり濃いくせに、いやに静かだな」
視界は紅を帯びるばかりで、妖怪のひとつも現れはしない。強いて言うことがあるとすれば、もうおおよそ夏だというのに霧の太陽光遮断のせいか肌寒いことか。湖面近くに下れば寒さもいくらか紛れようとは思うものの、障害物だの大ナマズだのに出くわして時間と魔力を浪費するのは勘弁願いたい。仕方なしに直進を続ける魔理沙に待望の妖怪らしきものが立ちふさがるのは、それからすぐのことだった。
「……ようこそ魔法使い。あたいと遊びましょ?」
青い服と青い髪で普遍的妖精サイズのヤツと出くわしたのは、丁度そのとき寒さの原因を他に求めたからではないかと思う。人里の子供にも負けそうなちっさい女の子の癖して、背中に三枚二対の氷の羽を広げた姿をしっかり捉えたときには、そこはもうヤツの作った陣の中だった。つまり、アウェイゲーム。
「遊びたいのか。あいにく、がきんちょは帰っておねむの時間だぜ」
「あんた、あたいの作った氷柱に囲まれときながらそのセリフ。生意気だわ」
「わたしは生意気な魔法使いだからな」
指先から飛ばす小さな星屑のウェーブ。ファンシーなお菓子みたいだけど、それでも木の枝を折るくらいの威力はある。それだけに、ヤツに触れる前に凍り付いて砕けたのは結構ショックだ。一秒でどうでも良くなるけど。とにかく、一秒あったから魔道具のセットアップはばっちり。実践派魔法使いは伊達じゃないってコトで。
「あっはっは!おもしろい、あんたおもしろいかも!」
ヤツのはじめの一手は降り撒く霰。しかもただの霰ではなく、器用に杭の形だ。隙間ならあるけれど、当たったら痛いじゃすまないであろうことは見れば分かる。ひんやり冷たくきらきら光る、鋭く細かく死の香り。そりゃ避ける。もう全身を使って躍動感あふれる臨死的アクロバット。服の裾に時々当たっては、霜が降りるように凍りつく。
「まったく、馬鹿の相手は疲れるってのが相場だぜ」
「あんた今、バカって言ったな!この最強で最高で最上たる氷精チルノ様をあろうことかバカと評したな!ええい、あたいを前にしてそんな台詞を吐き捨てちゃうヤローにはこうだ!」
馬鹿は激情に身を任せると言うべきか霰は勢いを増し、高ぶった感情に合わさってかわたしを中心に渦巻きだした。スピードなんてのは当然目で追えるくせに、ぐるぐる回ってきまぐれに降り注ぐせいでどんどん氷の範囲が増えていく。霰どころかつららくらいの大きさになっていて、鯵なんかの群れにさえ見えてきた。外の文献に載っているのを見たくらいでしかないので、あくまで想像だけども、たぶんそんなに間違っちゃいないと思う。
関係ないことを思い浮かべる余裕がわたしにあったのかといえばそうでは無いけれど、少なくとも未だ星は墜ちずといったところ。いくら力が強くたって、妖精にしちゃ上等な頭をしているからって、それでやることが単調な力押しじゃあこの魔法使い魔理沙にはとうてい墜ちるほどではない。が、今すぐにこの状況を打破できる方法があるわけでもない。そんな方法がわたしにあるのなら、こうして絶え間なく響く風を切る音に冷や冷やしてなんかいないから。
「ふたつ、みっつ。……もうちょっと足しとくか」
唐突だが、魔理沙の魔法使い歴2年という数字は当然ながら余りにも短いものだ。普通2年程度の魔法使いに出来ることはせいぜいが初歩的な魔法の行使が限度であり、そもそも魔法使いという種は自宅に引きこもっておどろおどろしい薬を作っているのが一般的、魔理沙のように異変に駆けつけて刺激を得ようなどと考える行動的な馬鹿はほとんどいる者ではない。ならば何故魔理沙が実戦において一流の退治屋のような動きを見せるのか。それは、魔理沙自身の根本的な性質にあった。
「小細工でどうにかできるほどあたいは甘くないぞ!」
どうしようもなく利己的で、何をするにも自分本位。それでいて楽しむことだけを念頭に置いた真性の馬鹿で、頭を空にしてノリと勢いで走り始める刹那主義者。名のある商家の娘としてこれほどまでに不適合な人間は存在しないだろうといえるほどの逸材で、12の時に取引先の顔面へ蹴りを入れてついに勘当された。
「じゃあ、小細工で突破した奴はわたしが初めてってコトだな」
なぜこの自由奔放な性格が魔法使いにマッチしたのか。魔法使いがその長い一生のうちに行うほとんどの事象は、すべからく自分自身の欲によるものなのだ。つまり、その全てにおいて自分のために行動する魔理沙の気質は、人間でありながら魔法使いそのものだったのである。捉えようによっては幼いとすら見えるその身で、人ならざる力へと半身を染めるのに一年とかからなかった金髪の小娘は、まさに生まれる種を間違えた存在だったと言える。
話しは戻り、この霰吹雪の中で魔理沙が辺りへ仕込んだものは二つ。ひとつは手製の魔法爆薬。あらかじめ魔力を混めておくことで衝撃に指向性を持たせる自慢の一品である。もうひとつは魔力で編みこまれた細くて透明な糸。別の魔法使いと物々交換した品だが、よく燃えるくせに耐久力が高いので火をつけてもなかなか焼け落ちない。これを魔法爆薬に括り付け、さっきからばら撒いたわけだ。
「さて氷精、今ここでわたしがこのマッチに火をつけたらどうなると思う?」
「あたいの結界の中はすでに氷点下なんだぞ。そうそう火なんてつけられるものか!」
「はい、どーん」
魔理沙のおちゃらけた台詞と同時に、マッチの火が薬を起爆させた。外へ外へと爆風に押され、霰は綺麗に吹き飛ぶ。罠のためのマッチに、発火のための細工を忘れるほど魔理沙は馬鹿じゃあないのだ。
「気になってたんだけどさぁ、お前氷精って名乗るからにはもしかしなくても妖精なんだろ?」
「それがどうしたのさ……まだあたいには玩具がいっぱいあるんだ、いい気になるなよ」
「そりゃ都合がいい。わたし熱がりだからよ、氷の魔法にも手を出したいとこだったんだ。ラーニングにはナイスだろう、聞いてるかよ妖精。チルノとか言ってたっけか?妖精って死んでも勝手によみがえるんだってな、わたしそれにも興味あるんだよ。こんな結界造れるんだから力も相当なもんだ。ま、それは今身をもって体感してるわけだがさぁ、妖精の不死性ってのを間近でみたいわけよ。つまり、単刀直入に言い直しちゃうとだな……」
勢いづいてまくし立てる魔女の姿は、もはや少女などとはかけらほども言いがたい。
「お前ってさ、どれくらい潰せば死んじゃうの?」
チルノのからだが、そして心が冷えた。氷そのものであるはずの自らが冷たさを感じたことに、氷精はこの上なく恐怖した。箒に乗ったテンプレートな魔女が自分に抱く感情は未知への好奇心ただ一点なのだと気づいたからだ。笑顔が怖い。どれくらい死ぬのか、なんて訪ねているのに、友人との世間話のように笑顔で言い放ったヤツの精神が怖い。妖怪も妖精も幻想の生き物なのだ。外的要因よりも、むしろ双方の感情の波にその有様を左右される。魔理沙のほのかな狂気とチルノに芽生えた恐怖心が混じり合ったその時点で、戦いの勝者は決まった。
「……やめろ」
「なに?」
「こっちに来るな……潰してやるッこの氷柱でッ!」
感情の波に飲まれたチルノは、まだいくらかの優位性を残していたにもかかわらず、展開した結界の全てを氷柱と変えて魔女へ殺到させた。勝負が決する。圧殺にかかった氷柱は、眩い光の奔流に飲まれて消滅した。呆然とするチルノの六枚羽を、六つの光が撃ちぬいた。
「さて、ちょっと時間はかかっちゃったが……」
「わたしに未知をみせろよ?氷精」