沈んでいく自我の中、光と闇に抱擁される。それは、相反するようで矛盾しない理解出来ない現象だった。
暖かい。抱かれて最初に感じたのは、赤子が親に包まれるような安心感だった。
やがて、頭を撫でられる。壊れものを扱うかのような繊細な動作で撫でられる。少しくすぐったい感覚に襲われてしまう。
耳元で何かを呟かれる。悲しげに嬉しげな声音を纏う言葉を聴覚が拾っていく。しかし、何故だろうか、それを聞いてはならないような気もする。
「……貴方はここで終わってはダメよ」
聞こえたのは女性の声だった。いや、女性というには超越的な何かを言霊の節々から感じる。おそらく、俺が認識していい存在ではないのだろう。
「貴方は死んではいけないのだから」
彼女は玩具を欲しがる幼児のように俺に懇願してきた。その言葉を一つ一つ認識すると共に、脳が甘言を受け入れろと命令してくる。
俺は口を開こうとするが、動かなかった。物理的に動かないのではない。精神的に口を開いてはいけないと直感したからだ。
「生きなさい。生きて生きて、足掻いて足掻いて、私に貴方を魅せて?」
一方的な態度だ。彼女を認識出来ないというのに、雰囲気や声の抑揚から拒否は許さないというのが伝わってくる。
「さあ、起きなさい。貴方はもう起きられるのだから…また会いましょう」
その言葉を最後に女性は離れて何処かに消えてしまう。俺もここにいた記憶を薄れさせながら少しずつ身体が消えていく。おそらく、現実の世界に戻るのだろう。結局、最後まで女性を認識することは不可能だった。
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瞼を徐々に開けていくと、溶岩のように煮えたぎる熱さと痛みが持続的に襲ってくる。何処とか、其処とか、部位など関係なく、全身が悲鳴を上げている。
「ヴァァァァ!?」
烈火のような鋭い痛みを転げ回ることで逃していくが…意味などなかった。ああ、終わりが見えない。途方のないほどの苦痛の時間を耐える、耐える、耐えていく。それでも終わらない。
「ガフッ…ァァァ…」
口から血潮を出しながら呼吸経路を確保する。酸素が足りない、もっと欲しい。そんな原初的な感情が人間の生命維持に必要なものをだけを的確に選択していく。
「ゥゥァァァ」
自分自身でも理解できない声を出しながら、ゆっくりと酸素を身体に送っていく。何十分、何時間、そうしていたのかは定かではない。そんな地獄のような時間を超えて、脳に酸素が行き渡ったのを理解する。
俺は疑問を焦燥した声で出す。
「…なんで生きてる?」
ハジメを洞窟に投げ込んだ所で俺の記憶媒体は停止している。いや、正確に言うなら、己の身に強烈な衝撃を受けたのが最後の記憶だ。その衝撃は人を即死させるには充分であったことは分かる。だから、おそらく、この後に直ぐに死んだはずなのだ。
「何故だ?」
分からない、分かる訳がない。何があったのか、どうして生きているのか、なぜ生きてしまっているのか。およそ、人間が生きられるような落下距離ではなかった筈だ。
「ははっ、ははははは」
奇跡的に死ななかったのか、死ぬことを許してくれなかったのか。どちらにしても理解を超えた現象に思考が追いつかず、乾いた笑い声しか出なかった。
「ああ、生きてるのか。そうか、生きてるんだ」
自ら出した言葉が鼓膜に入るたびに生きてることを実感する。「さよなら、ハジメ」とか言いながら生きているのだ。恥ずかしくて仕方がない。
「確か…ハジメは意識は失っていたはず……聞いてないよな?」
もしも、聞いてたら頭を叩いてやろう。あの時の記憶だけ消してやろう。そんな冗談を考えられるようになるまで思考が回復した。
「にしても……」
生の実感を終えて、満足したので現実を直視していく。
初めに目につくのは自分自身の姿だ。
頭からつま先まで見る。石橋の瓦礫や戦闘時に受けた怪我が何処にもなかった。まるで、そもそも怪我など存在していないように消えている。
(怖いな…)
次に、服や靴は落下の衝撃で何処かに消えて無くなった。そのため、今は裸で血塗れになっている。これから、裸で洞窟の中を移動することになるのかと気が滅入る。どこかに服や靴が落ちていて欲しい。
(流石に落ちてないよな…)
続いて、探索用のリュックは……紛失していた。うん、気にしないことにしようと自分自身を慰める。まあ、そんなことをしても食糧や水分補給の時に嘆くことになるのだが、現雑逃避という奴である。
(にしても…腹の減りや、喉の渇きを感じないんだよな。なんか気持ち悪い)
最後に、武器に関しては無事だった。黒い杖がここにいるぞ!っと強調するように洞窟の灯りを吸収している。黒い杖の中身を確認するため、鞘から仕込み刀を出す。見た感じは、刀身に欠けている場所もなく使用しても問題ないだろう。頑丈すぎる武器に笑みを溢し、武器屋で会った店主を思い出す。
(今度会った時に武器屋の店主に感謝しないとな)
視線を変えて、今いる場所を見ていく。
床の広さは12畳ほどで長方形のように広がっている。天井は深淵の如く、真っ暗で奥が見えない。俺はこの場所に一直線で落下したのだろう。
地面は血を吸ったのか黒く変色しており、踏むたびにビチャビチャと音を出している。まるで、雨上がりの地面みたいになっている。
壁は普通…とは言えないが、奈落に落ちるまでに見たものと遜色ないと感じる。
以上が俺がいる場所の状況だ。魔物の存在が認識出来ないので、後で違う場所に向かって危険度がどの程度か見る必要があるだろう。
(はあ〜、普通に考えて弱いわけはないよな)
ベヒモス達が現れたところにあった奈落から落ちたのだ。あれ以上のものがいてもおかしくはない。顔を叩いて気を引き締める。
さて、今の現状を加味してすることを決めていく。
とりあえずはハジメと合流はしたい。そして、オルクス大迷宮から脱出するために協力する。まあ、既に迷宮から脱出している可能性もあるので、一人で迷宮を出ることも考えておく。ハジメが死んでいることは考えない。きっと生きている、そうでなくてはならない。
ここから出たらどうするか。悩んでしまうが、雫に一言あやまる必要はあるだろう。あれだけ、大見えを張って奈落に落ちたのだ。きっと怒っているに違いない。もしかしたら、泣いているのだろうか。最後に見た雫の顔を思い出してしまう。
(本当に悪いことをしてしまったな…)
何処までも気持ちが沈んでしまいそうになったので、雫のことを考えるのを辞める。そして、他のことを考えていく。
初志貫徹だが、生きている以上は雫、ハジメ、白崎さん達を無事に地球に帰すことは貫こうと思う。そのために自分自身の命を差し出す気持ちも変わっていない。
その他にすることとして、誰かを殺してしまう前に俺が死ぬことだが……奈落から落ちても死ななかったので、どうしようか悩んでいる。もしかしたら、異世界なら殺害衝動を抑えるアイテムやら装備が存在しているかもしれない。だとするならば、それを探すために行動するのも考える。
まあ、雫、ハジメ、白崎さん達を地球に帰すことの方が優先度は高いので、アイテムや装備探しはそれらが終わってからだ。
(見つからなくても、この世界なら俺を殺してくれる人もいるだろうし)
さて、自分自身の行動指標はある程度決められた。ここからは、実際に足を動かしていこう。ハジメを探すにしても、一人でここから出るとしても目先の情報は必要だ。
「探索に行くか」
誰もいない寂しさを隠すために独り言を呟きながら武器を持つ。そして、今いるところから離れるために一歩ずつ足を踏み出す。