今の気持ちを伝えるのに相応しい言葉はなんだろうか。彼の目を瞑っている顔、男性を感じさせる筋肉質な腕、耳元に聞こえる吐息…雫はそれらの発生源に包まれている。
雫の混乱する思考に追い討ちをかけるように、彼が「成長した黒髪の女の子」と呟く。そして、腕に力を入れて更に強く抱きしめる。結果、私の身体が今まで以上に密着して、女性としての象徴である柔らかな半球が形を変える。
(ダメ、恥ずかしくて仕方ない…)
雫の心臓がバクバクと激しく動き、夢のような高揚感に支配される。ずっと、こうしていたいと思う感情が飛来する。溶けるような甘いご褒美に脳がショートする。
(あれ?…私は何を…)
現実逃避をするため、雫は過去を振り返る。おかしなことはなかった。ここに来る前に髪飾りを外して、長い黒髪をストレートにしていただけ。ただ、それだけだったはずだ。しかし、効果は絶大で寝ぼけた彼の腕の中にいる。
(こうなったのも香織のせいなんだから!)
いつもニコニコしている幼馴染を思い浮かべて、届きはしない文句を述べる。
幼馴染の数時間前の突拍子もない行動で連行されたことを嘆き、それと共に良くやったと歓喜する。相反するせめぎ合いの感情に心を震わせるのだった。
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ー異世界トータス一日目ー
教室が白い光に包まれて、神殿のような場所に転移して、戦争に参加する決意をする。そんなありえないはずの怒涛の展開に雫の心境は枯葉のようになっていた。
(はあ〜、なんでこんなことになっているのかしら)
荒れた心は潤いを求めるかのように、とある人物を探す。そして、谷口君が南雲君と話している姿を見つけた。いや、話しているというよりも警戒している。
(それなのにチラチラと銀髪や白髪のメイドさんに目は向いてるのは許せないけど)
いつもなら無視しているような出来事も疲れているせいか激しく反応する。嫉妬の炎がメラメラと燃え上がる。
(私はこんなに嫉妬深い方だったのね…)
自分自身の新たな一面に驚けばいいのか、悲しめばいいのかよく分からなくなる。
雫は両手で頬を叩いて思考を正常にさせる。そして、現在、手元に並べられている食事を食べる。
(うん、美味しいわ。色は少しダメだけど)
形容し難い食べ物に眉を顰める。こんな色のモノを食べている人なんて…いた。全ての料理を少量ずつ食べている人がいた。現実を直視したくないが、谷口君だ。
(えっそれも食べるの?それよりもお皿に乗っている量を食べられるの?)
想い人の行動に唖然とする。変な老婆心が雫の精神力を低下させる。そんな雫の存在を否定するように晩餐会は続くのであった。
心労が溜まる晩餐会が終わった後、雫は香織の部屋に訪れていた。
「雫ちゃん!最初はどうなるかと思ったけど、異世界って夢のようだね!」
「もう…香織落ち着きなさい。それに始まったばかりよ。明日から忙しいらしいし、早く寝ないと」
そんな雫の言葉に「えー」と抗議する香織。彼女は今からが本番だと鼻息を荒くして力説する。どうやら、寝るにはもう少し時間を有するみたいだ。
「そんなに文句を言って…することなんて、もうないでしょう?」
「あるよ!」
香織は腕を胸元で組んで、今からすることの説明を始めた。さながら、私達の先生の愛ちゃんのようだとクスッと笑ってしまう。
「今からするのはね…そう、想い人の場所に行くこと!ロマンチックでしょ!」
星も綺麗だから恋人の語り合いにピッタリだと追加情報も付けて、雫に素晴らしさを語ってくる。
「私は…想い人なんていないわよ」
雫は顔を赤く染め上げながら幼馴染の言葉に反論する。香織はその表情を見て、「え〜本当に〜?」とヤジを飛ばしてくる。
「うんうん、言葉で言っても無理と。よし、谷口君のところに行きましょうね〜」
香織はゆっくりと雫の傍に這い寄り、両手で肩をガシッと強引に掴む。目からは絶対に逃さないという強い信念を感じる。
「えっ、いや…だから私は…」
雫の抵抗は拒絶され、ジリジリと部屋の入り口に向かっていく。
(何故、香織にこんな力が!?)
選択肢など香織の部屋に来た以上はなかったのだと認識する。然り、これは強制シナリオと同じようなものだ。どのようなルートを辿ろうとラスボスからは逃げられない。
「香織。ちょっと待って!分かったから、せめて髪飾りをさせ『逃げそうだからダメだよ!』…そんな」
香織の一言に絶望した。もしも、昔の少年が谷口君なら目を合わせることが出来ない。途方もない羞恥心でこれから生活に支障が出るだろう。雫の心はガラス細工のように繊細なのだから。
(大丈夫よね?…うん、きっと彼ではないわ)
分かりきっている虚言を心に反復させて、雫は最終戦へと向かうのだった。
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今、雫の目の前にあるものは繊細な装飾がワンポイントの木の扉。これだけ述べると語弊がある。正確には好きな人がいる扉の前だ。
「ここが谷口君の部屋…」
そんな場所に雫は一人でいる。香織は南雲君の方へと向かった。台風のように雫の恋心を荒らすだけ荒らして傍から消えたのだ。
「…私の格好がおかしくないか心配だわ」
右手を頬にあてて悩む。こんな事なら手鏡でも持ってくれば良かったとため息を吐く。
(うん、仕方ないわね)
ないものは仕方ない。諦めて気持ちを落ち着かせるために深呼吸する。そして、扉を右手でコンコンコンと叩く。だが、1秒、2秒…10秒経っても扉は開かない。
(寝ている??)
反応がないことに彼は寝ているのではないか考える。そんな残念な結果に諦めて帰ろうとしたが、「ガチャリ」と音がして扉が開いた。
「…誰だ?えっ成長している??」
何故か雫を見て彼は混乱する。そして、成長という言葉に雫も混乱する。分かってしまったのだ。理解してしまったのだ。そう、彼があの少年だと。
(やっぱり、谷口君が…)
雫の感情が奔流する。滝よりも激しく、マグマよりも熱く。己の好きな人が分かったことに歓喜する。
そして、いきなり雫は抱きしめられる。もう離さないと、絶対に離してなるものかと言われながら抱きしめられる。胸が弾けるような幸福感。至高のようなひととき。だが、それもある言葉で終わる。
「やっぱり夢だよな。うん」
彼は寝ぼけていたのだ。しかも、尋常ではないほど微睡んでいた。
(どうしよう…)
雫は苦難する。ここから逃げるべきか、現状を突き進み幸福を得るべきか。そして選んだのは…。
「そうね。谷口君は夢を見ているのよ」
天使は憐れみ、悪魔は微笑む。やはり、人間は自分自身の幸福の追求からは逃げられないのだ。
「ああ、そうか」
そう言った彼は微笑んだ後、雫をお姫様抱っこして部屋の中にエスコートする。優しく、柔らかく、華麗にお姫様を運んでいく。
(そんな、されたことないのに…)
未知の体験と彼の顔が更に近づいたことで、思わず両手で顔を隠してしまう。そして、ベットまで行くと……彼は寝た。彼女を抱きしめたまま、スヤスヤと寝た。
(うそ、ここで終わりなの!?)
心の中で咆哮する。まさかの仕打ちに乙女の純情が荒ぶる。レストランに行って前菜だけ食べた状態なのだ。メインが来なければ満足出来る筈がない。
(もう…仕方ないわね)
雫は彼の黒髪を撫でる。幼子を愛でるように、自分自身の好きな可愛い動物を愛でるように優しく撫でる。
(ふふっ。今は私だけの谷口君)
そんな独占欲を発露させて、彼の腕の中で妄想する。異世界から日本に帰った後の事を考える。高校卒業して、結婚して、子どもを作って…そんな、もしもを夢想する。
(そろそろ、帰らないと)
雫は2時間ほど彼の部屋にいたが、流石に戻らないといけないと感じた。名残惜しくて、悲しくて、辛くて…しかし、彼の腕から逃れる。
そして、雫の存在を刻みつけるかのように、ゆっくりと唇を彼の頬にあてる。初めてのキスはどこか、甘く、切ない味がした。
(また明日、谷口君)
小さな約束をして彼の部屋から出る。明日へ希望を抱いて雫は前進する。
こうして、異世界トータス1日目の雫のイベントは終わるのだった。
尚、雫は自室に戻っても寝られず、悶えに悶えたこと。また、谷口君の顔を見れなくなったこと。谷口君の部屋の鍵が開いたままであることを文末に記す。