全ての関係者にとっての夢、最も権威のあるレース。
とあるトレーナーはこう言った、ダービーを勝てたらもうトレーナーを辞めてもいい。
とあるウマ娘はこう言った、ほかのG1レースを5勝するよりもダービーを勝つ方が嬉しい。
毎年このレースを目指し、夢破れる者がいる。このレースで燃え尽きてしまう者がいる。
「日本ダービーに出させてほしい。枠順は大外でいい。他のウマ娘の邪魔は一切しない。賞金もいらない。この娘の能力を確かめるだけでいい」
陣営の口から出たとされるこの言葉が紙面を踊った。
ファンはマルゼンスキーの出走する日本ダービーを望んだ。世代最強を決めるこのレースに主役不在では成り立たない。同世代のウマ娘達も対戦を望んだ。
世代の先頭を戦いもせずにひた走るマルゼンスキーに日本ダービーで勝ってみせる。
強気の発言が飛び交ったが、結局マルゼンスキーの日本ダービー出走はかなわなかった。
日本ダービーを3週間ほど後に控えながら、マルゼンスキーの5ヶ月ぶりの出走が決まった。このレースでマルゼンスキーは世代最強を証明した。
一体誰なら勝てるのか、クラシック級の器じゃない。
今すぐにでもシニア級で戦うべきだ。誰もが口をそろえてこう言った。
当時3強を形成していた“テンポイント”“トウショウボーイ”“グリーングラス”の3人よりも強い。G1を一つもとった事の無いウマ娘に現役最強の可能性を感じさせる衝撃のレースだった。
スタートから最後の直線まで一切ピッチがずれることはない。ほかのウマ娘達のスパートと同じようなスピードで道中を流していく。常に一定のスピードでただ先頭をひた走る。
それはもうレースではない。ただ走っているだけなのだ。駆け引きも、仕掛けるタイミングを探って、相手を知って、自分の良さを知って、強敵をマークして、細い勝利の道筋をたぐり寄せる。そんなみんなが、ウマ娘が必死にやってきたことは全て、マルゼンスキーには関係が無かった。
たった一人第4コーナーを回る、マルゼンスキー。その余りのスピードにほかのウマ娘はもうついて行けていない。息も切れ、酸素が回らない視界の中、先頭を走るマルゼンスキーだけが写っているのだろうか、必死に走るその足は前を向いていた。だが、彼女たちにとっては見えていない方が幸せだったのかもしれない。
それはギアが入れ替わる瞬間だった。
ミッション車のギアが入れ替わったように、エンジンの回転とギアがかみ合った瞬間。ゴールに向けて、誰よりも速く、どこまでも速く満面の笑みでスパートをかけたマルゼンスキーの姿はどこまでも美しく、華やかで、残酷だった。
これは一人だけ格が違う。
必死に、必死に追いすがる。まだ自分は負けていないと必死に腕を振り、足を伸ばしていたウマ娘達の中で何かが切れた。
最初に指導される、走り方。こうなって走ってはいけないと言われる走り方。背中は丸めるな、顎を挙げるな。そう言った基本中の基本すらできなくなっている彼女たちを誰が責められるだろう。
一瞬で最後の直線を駆け抜けたマルゼンスキー、歓声すら遅れて上がったその姿を、スーパーカーの凄さを見せつけながら彼女のダービー出走は認められなかった。
そんな日本ダービーでの景色は他のレースとは全く違う。中央のレースでは基本的にフルゲート、つまりマックスが18頭までと決められている。ただし例外も存在する。それが日本ダービー、この年の日本ダービーには合計で28人のウマ娘が参加していた。大外枠の不利はその分増している。それでも、そこでも良いから出走したいと語ったマルゼンスキーの姿を観客は存在しない29番目のゲートに見ていた。
10万人を超す人数が押しかけた東京競馬場は嫌に重たい雲に包まれており、その空模様はせっかくのダービーにもかかわらず、マルゼンスキーがいない事に不満を隠しきれない観客の気持ちを表しているようだった。
普段の倍以上の人数が集まったターフの上、最も目を引くのはやはり一番人気ハードバージ。彼女ならマルゼンスキーに勝てるのかどうか、もはやこのレースはたらればが溢れるレースになって居た。
そんな観衆の注目を浴びているハードバージだが、彼女は彼女でそんなことを気にしている余裕はなかった。両足が燃えるような痛みとも熱とも言えるような感覚を持っていた。担当トレーナーの六平には口酸っぱく言われていた。
「もう今日は休め」
「オーバートレーニングだ」
「休むのもトレーニングの一つだ」
「同世代と一緒に遊んでこい」
六平の目を盗むようにして自主トレを行なったことがばれたこともあった。彼は自分の足の状況をある程度理解していたのかもしれない。
今度からはもう少し彼の言うことを受け入れても良いかな。そんなことを思いながらも、彼女の中に今日休むなんて言う考えはなかった。
初めての勝利を挙げたとき、毎日杯に勝ったとき、皐月賞をとった時、チームの皆も六平も自分のことのように喜んでくれた。初勝利を挙げるまで7戦もかかった自分を、どうしようもない自分を見捨てずに一緒にいてくれた皆への恩返し。
今日だけは譲れない。最高の栄誉を、自分が返せる最大のプレゼント。
このレースが終われば正直に白状しよう。六平の言うとおり、ゆっくり休もう。これが最後の我が侭だ。
誰よりも堅い覚悟。皐月賞ウマ娘のプライド、その凛とした立ち姿には周りを納得させるだけの何かがあった。
ハードバージ、灼熱の時。
この時ハードバージは間違いなく自分の殻を破ろうとしていた。そこから生まれるのはマルゼンスキーと戦える怪物か、それとも……
2分30秒、彼女たちの人生をかけた戦いが始まった。
28人もの人数が参加するレース。一度集団に飲み込まれれば出てこられない可能性がある。研ぎ澄まされた神経がいち早くゲート開く音を捉えてはじき出されたかのように飛び出したウマ娘達。
前目の熾烈な位置取り争いをするのは5人。
ラッキールーラ・カネミノブ・ワールドサバンナ・プレストウコウ・そしてヒシスピード。
先頭を一息に捕まえる位置を確保しようとする彼女たちとは違い、ハードバージは集団の中で不気味にレース全体を伺っている。
第1コーナーを曲がる頃にはラッキールーラとプレストウコウはインコースをしっかりと確保していた。
外側の枠から大外を回っていくのは不利だ。それならいつも以上に主導権を握る。足を使ってもいいから先頭をとっていく。外枠で出ても運が悪かったとは言わせない。
激しい先頭争いに次いで抜け出しやすく、後ろからの仕掛けに反応しやすいポジションを巡って激しい争いが繰り広げられる。抜群の嗅覚で絶好の好位置を抑えたのはヒシスピードだった。このレース感の鋭さと、直線のスピードがヒシスピードの強さを構築していた。
第2コーナーを回り終えて、先頭に立ったのはラッキールーラ。このレースのペースを掌握したラッキールーラは意識的にレースのペースを落とした。スタートダッシュで使った足を休めるためのスローペースの中、2番手にぴったりとついているのはプレストウコウ。内側をひた走るプレストウコウだが、その注意はすぐそばを走るヒシスピードとカネミノブの二人に向けられていた。
プレストウコウにとってこのレースに挑むに当たり、一人その実力を掴めていないウマ娘がいた。それが今後ろを走っているカネミノブ、彼女はまだ実力の全てを発揮していないのではないか? 同世代として同じ時間を過してきたからこそ感じられる直感。いつも飄々としている彼女の本気をプレストウコウは警戒していた。
何度も何度もジュニア級の頃からその名前を世代屈指と知らしめていた彼女たちとは違い。このクラシック戦線の主役は遅れてやってきた。ついぞジュニア級では勝利を挙げることはできなかった。そんな彼女のキャリアを表しているかのようにハードバージは21番目、このレースも最後方からじっくりと組み立てる。
最後に先頭に立っているのは自分だと、この世代最強は自分だと証明する勝ち方を。
後方一気、全てを捲る。その果てにある栄光へ。レースは序盤のポジション争いを終えて、激しい駆け引きに段階が移る。
ここまでのスローペースを嫌って、ワールドサバンナが向こう正面で一気に仕掛けた。ペースを落としていたラッキールーラを簡単に躱して先頭に立つ。彼女のペースに巻き込まれて徐々にペースが上がり、その勢いのままに第3コーナーに侵入する。
ヒシスピードが3番手ほどの位置から第3コーナーを曲がり際、チラリと視界の端に写ったハードバージはするすると集団の間を割って上がってきていた。
第三コーナーを回って、一気にペースが上がっていく。集団の中にいたウマ娘達も一気にスパートをかけて、横いっぱいに広がっていく。東京の最後の直線が所狭しと埋め尽くされていく。
そんな集団の中から完全に抜け出したハードバージはそれでも前から数えて10番目程度の位置。先頭との距離はかなり開いている。
間に合わないか、観客がそう感じた瞬間。このレースをここまで抜群のポジションで送っていたヒシスピードが仕掛けた。外から先頭、ワールドサバンナへと迫るその末脚は間違いなく一流で、一瞬の輝きだった。
スタミナ切れ、皐月賞の時から分かっていたこと。2400メートルは持たない。それでも挑む、それでも走る最後まで、なぜならここは日本ダービー。
後ろから迫ってくるウマ娘に追いつかれて、ヒシスピードが先頭集団から脱落し、中団に沈んでいく。
それでも東京の直線は終わらない。一人、また一人と脱落していく中、最内からプレストウコウもラッキールーラも、ワールドサバンナも抜き去ってカネミノブが先頭に立った。
能ある鷹が隠し続けた爪がこの土壇場で放たれた。
その勢いそのままにダービーウマ娘に迫るカネミノブ、その後ろで最後の勝機を狙うラッキールーラ。二人の争いに待ったをかけた。大外から主役がやってきた。
流星のように真っ直ぐに、ただ先頭だけを見つめて、痛みを抱えたその両足が東京競馬場の芝を巻き上げる。
自分が元々持っていた、使いこなせなかった爆発的な末脚。六平が、チームの皆が授けてくれた第4コーナーを全力で回ってもぶれない強靱な足腰。そして何度も何度も練習に付き合ってもらって身につけた集団の抜け出し方。
それはハードバージの今までの結晶。最後の我が侭、最大の恩返し。距離の不利も抱えた痛みも問題にならない。一気に詰め寄りプレストウコウを躱すハードバージ。
ゴールまで残り300メートル。
ラッキールーラが最後にため込んだ足を解き放った。
最後にハードバージに差しきられ2着に沈んだ皐月賞、プレストウコウに見事にしてやられたNHK杯、カネミノブにやられたジュニアレース。自分がこの世代で一番ではないことは自分が一番分かっている。それでも譲れない。このタイトルだけは、3度目の正直を渇望するラッキールーラ。それぞれがそれぞれに負けられない理由を持っていた。
残り200メートル。
ラッキールーラがカネミノブを躱す。もはや先頭争いに残っているのは3人のみ。差しかえさんと力を込めるカネミノブ。突き抜けんと走るハードバージ。
残り100メートル
カネミノブの足がほんの少し鈍る。ラッキールーラとハードバージは自分の体を投げ出さんばかりに最後のラストスパートをかけた。
残り50メートル。
レースという勝負で彼女たちは自分の持てる物全てを出し切った。それは今まで練習で培ってきた物がしまわれた引き出しを一つ、また一つと開けていくようで、全てを出して空っぽになっている引き出しの中に、そこに入っている物こそが日本ダービーの勝敗を分ける“運”なのだろう。
先頭はラッキールーラ。第44代ダービーウマ娘はラッキールーラとなった。
翌日の新聞の一面はダービーウマ娘ラッキールーラが、二面を怪我で第一線を退くことになったハードバージが飾った。
名馬列伝 ハードバージ
悲劇の皐月賞馬、この言葉がこの馬以上に似合ってしまう競走馬を私は知りません。
勝利にかかったのは8戦、7戦勝ちなしだった馬があっという間に毎日杯を制すると、その勢いのままに皐月賞をかっさらいました。“天才”福永洋一に導かれたこの馬ですが、引退後は種牡馬として結果が残せずにサーカスのような場所で働き、最終的には過労死してしまっています。
血統面で言えば母方はウイニングチケットやマチカネタンホイザを排出したスターロッチ牝系に属しており、父は当時最も勢いのあったプリンスリーギフトの流れをくむファバージとかなりの良血。
ウマ娘で考えればそれこそお嬢様系かなと勝手に妄想しています。
もしもマルゼンスキーがいなければ、その評価も変わっていたのではないでしょうか。そう思わせてくれる名馬だと私は思います。
弥生賞は皆様ご覧になったでしょうか?
さすがディープインパクト記念、意地の勝利を見た気がします。そりゃライバルのハーツクライ産駒に負けられませんね。
ドウデュースもその強さを見せてくれましたし、キタサンブラック産駒のイクイノックスも皐月賞には来ますから、今年のクラシックも楽しめそうです。