ラッキールーラは約5ヶ月の休養を経てターフに戻ってきた。そんな彼女を迎えた環境はダービーの時とは大きな違いがあった。
クラシックも77世代も大きな穴が空いてしまっていた。
ハードバージの怪我での引退から始まり、ヒシスピード・マルゼンスキーとこの世代の中心にいた3人がことごとく抜けてしまった。
怪我はウマ娘にとってはすぐそばにある、ありふれたものだ。
ラッキールーラ自身ダービーから数ヶ月間練習も禁止され、今でもこの勝負服の下、膝にはサポーターが巻かれている。
これはお守りだ。
怪我をしないように、先に最前線から身を引いた同世代の分も戦うために。私が負けたハードバージのヒシスピードの、マルゼンスキーの強さを証明し続けるために。
復帰戦、ラッキールーラは強さを見せた。スタートから一度も先頭を譲ることはなく、そのまま逃げ切る。だが観客はそれでは満足できなかった。
圧倒的で絶対的なカリスマ。マルゼンスキーは太陽のように日本を照らし、これまで興味をも他中田人間も振り向かせ熱狂させた。
そして突然ターフから去った。
彼女に興味を引かれ、レースに来ていた観客は自然とその足を別の場所にむけるようになった。
熱が失われ、ぽっかりと大きな穴を開けてしまっている会場に立つウマ娘達はこの穴を埋めようと、熱を取り戻そうとこれまで以上に努力を重ね、レースに参加するようになった。
彼女たちの努力は残念ながら実ることはなく、この会場に熱を取り戻すことになるのはクラシック3冠を達成することになる皇帝で、彼女たちは下地を作る事になった。
クラシック最後の冠、最も強いウマ娘が勝つ菊花賞。
このタイトルを前にして、クラシック戦線の様子はかなり変わっていた。
最も菊に近いと言われているのはラッキールーラ、そこに次いでいるのはプレストウコウ。
ハードバージもヒシスピードの名前もそこにはない。
カネミノブと、この秋最大の上がりウマ娘、テンメイを加えたメンバーで最後のタイトルを決めるための戦いに挑んだ。
トレーナーも、ウマ娘も、トレセン学園も皆必死だった。
「……行けるか?」
菊花賞直前、レースまで数時間と迫りながらトレーナーは本当にこのレースにラッキールーラを送り出すのか悩んでいた。
直前の京都新聞杯でプレストウコウに敗れ、この菊花賞まで完全にオーバーワークを続けている。
「大丈夫です、トレーナーさん。今日も勝ってここに帰ってきますよ」
にっこりと笑うラッキールーラは胸を張り、こちらを見下ろしてくる。
「分かった、行ってこい。俺はお前のタイトルを待ってるよ」
京都、芝3000メートル。
菊花賞は皐月賞の2000、ダービーの2400を大きく超えるクラシック最長のレース。
ゲートが開いた。
6つのコーナーからなるコースをいつも通りにラッキールーラが逃げる。
先頭に立ったラッキールーラだが、2つめのコーナーを超えたところで外から彼女を捉えたウマ娘がいた。
オサイチセイダイというウマ娘が一か八か、まさかの大逃げを打った。
G1レース、それも菊花賞という舞台での大逃げ。奇策中の奇策に会場全体がざわめきを抑えきれない。
ぐんぐんとスピードを上げていくオサイチセイダイにレースのペースが上がっていく。
3つめのコーナを回る頃にはレースは完全に縦長の展開。先頭からしんがりまで一体どれぐらいの差があるのか、一目では分からない程の距離の中、プレストウコウはゆっくりと位置取りを下げることでスタミナを温存することを決めた。
そんな彼女の前で、テンメイがプレストウコウを完全にマークしてぴったりとついてきていた。
テンメイの武器はダートレースから上がってきたウマ娘特有のパワーとスタミナを持っているウマ娘だ。
ただしG1どころか重賞も初挑戦。
簡単に勝てるようなレースではない。もしかしたら流れに入れないままにレースが終わってしまうという可能性もある。
そこで彼女の立てた作戦がプレストウコウをマークしながら走ると言うことだった。
大一番で今ひとつ活躍できないプレストウコウだが、その実力は間違いなくこの場所にいるウマ娘の中ではラッキールーラとともに頭一つ抜けている。脚質的にも似ている彼女の後をついて行けばゴール前で勝負をかけられる場所にはつけられるのではないか。このテンメイの考えは正しく、更に重賞初挑戦がプラスに転んだ。
大逃げで大荒れになって居るこのレースで、異様なハイペースに自分のレースを忘れてしまっているウマ娘も少なくない。
余りに前にいる先頭に焦らされ中途半端な位置取りをとらされるウマ娘もいる中、自分のレースに殉ずるプレストウコウについたことでテンメイも自分のレースを進めることができた。
第3コーナーから第4コーナーを回り、芝3000メートルの怖さがウマ娘を襲う。
普段のレースなら終わりが見えてくる。ゴール板の前めがけて全身全霊で走る距離だが、菊花賞ではまだコーナーが2つと直線が残っている。
先頭を大逃げするオサイチセイダイの足が鈍り出す。3000メートルのレースに合わせて調整はしてきたが、大舞台のプレッシャーと後ろにつけているウマ娘のプレッシャーが肺と心臓を捕まれたような恐怖感を煽ってくる。
(嘘でしょ、嘘って言ってよ。なんでこのペースの逃げで後ろにいるの? 何このプレッシャー、これがダービーウマ娘って事!?)
自然と呼吸は荒く、足色は鈍る。向こう正面を終えて、第5コーナーに入った時先頭をラッキールーラに奪われた。先頭を走っていることだけがスタミナが切れた状態で走る理由だったオサイチセイダイは一気に沈んだ。
躱した勢いそのままに一気に直線を向こうとするラッキールーラ、そんな彼女の上体が一瞬流れた。
ゴール板が直接見える場所にいたトレーナーの目からもラッキールーラの異変は見えた。
「駄目だ、やめろ。スパートはかけるな、お前までそっちに行くな!!」
トレーナーの足は群衆をかき分けながら必死にラッキールーラの方に向いた。この距離では、この歓声のの中では俺の声は届かない。
ラストスパートをかけるラッキールーラ、そのスピードには普段の切れはない。鈍く、重い、全力のスパート。後ろから迫ってくるプレストウコウとテンメイからいつも通り逃げ切ろうと、黒い重戦車はボロボロの体に鞭を打ち、必死にそのキャタピラを回している。
徐々に確実に迫るその距離に、ラッキールーラの表情が苦悶にゆがめられていく。
体を前に乗り出して、手すりを掴んで、トレーナーは声を張り上げた。
「ラッキールーラ!! 無事に帰ってこい!!」
その声は歓声にかき消されていた。他のウマ娘の耳には届いていなかった。
しかしラッキールーラの耳には届いていた。悔しそうだが、どこかすっとした表情でその足に力を込めるのをやめた。
最終直線で失速、ラッキールーラのクラシックはここで終わった。
ラッキールーラの内側と外側、プレストウコウとテンメイが上がっていく。
後ろから上がってくるウマ娘は他にもいるが、既に大勢は決している。後はどっちがこのレースを勝ちきるのか。
皐月賞にダービー、ハードバージとラッキールーラの一騎打ちで綴られたこのクラシック最後の一冠はやはり一騎打ちがふさわしい。
先手をとったのはテンメイ。
彼女の本質はステイヤー、偉大な母親の背中を追ってやってきた未完の大器が、全ての前評判もこれまで積み上げてきた物も超えて初挑戦、初制覇に向かって走る、走る。
3000メートル、最後の直線誰もが息をのんだ。新たなヒーローの誕生に解説すらも声を張り上げる。
「偉大な母トウメイに次いでG1制覇だ!! テンメイだ!!」
ゴールまでおそらく後200メートルを切っただろうか、ああ、テンメイだ。そう言った考えが一瞬頭をよぎる。結局私は大一番で勝てないのか、プレストウコウが前を走るテンメイの姿に悔しさを覚えるよりも先に諦めが来た。
私は芦毛だから
言葉にもなっていない諦めが彼女を縛っていた。偏見をはねのけると挑んだこのクラシックで何も成し遂げられなかった。
ラッキールーラを躱した時、偶然彼女の表情を見た。悔しいのだろうか、それともやりきったのだろうか。
大型ウマ娘は大成しない。
彼女はその偏見に打ち勝ったはずだ。彼女は押しも押されぬダービーウマ娘だ。私はあの日彼女に勝ったウマ娘だ。こんなところで諦めるような事はできない。
何かが彼女の背中を押した。
ジュニア級からこのクラシックまで全てに参加した。ヒシスピードの覚悟も、ハードバージの瞬間最大風速も、ラッキールーラの意地の逃げも、マルゼンスキーの夢も、今更来たようなウマ娘に横からかっさらわれるほど、菊のタイトルは安くない!!
誰もがテンメイの勝利を確信している会場の中、プレストウコウは最後のスパートをかけた。
ゴール前で並んだプレストウコウに、テンメイを応援していたファンから悲鳴が上がる。最後の競り合い、勝負は一瞬、がっかりしたというため息、悲鳴、それは勝者に向けられるにふさわしいものではなかった。
それでも芦毛のウマ娘として初のクラシック制覇。この世代で最も強いウマ娘は“プレストウコウ”に決まった。
レース後ラッキールーラの怪我が判明、チームアトラスの最初の一歩は踏み切られ次の一歩に後を託した。