今話のタイトルはシン・エヴァンゲリオン劇場版の劇中挿入歌より
光に呑まれた初号機は気が付けば見知らぬ場所にいた。
速度感の伴わない真っ白な空間内を向かうべき目的地を見つけられず、果てが分からない広大過ぎる空間を猛烈な速度で飛び続けている。
「ここは、どこだろう?」
センサーによる空間の測定を行おうとするも、AIが焦点距離を問うてきた。この空間では見えているものですら、距離の概念が曖昧なようだ。
距離設定を無限大で固定し、個体の自動識別をキャンセルして自身の視線で照準をしようとするも、AIはすぐさま味方や非破壊対象を撃つ危険をAIが点滅する文字で捲し立てたので機能を停止していた。
『ディラックの海、マイナス宇宙、または裏宇宙とも呼ばれている場所さ』
「単語を言われても分からないよ」
『まあ、端的に言えばガフの扉の向こう側。地球とは次元の違う世界だとでも思えばいい』
「それなら、なんとか」
自分なりにカヲルの言うことから現状を飲み込んでだシンジは嘆息するように大きく息を吐く。
「でも、どうしたらいいんだろう……」
今の状況を端的に言うならば、目的地を見つけられずに我武者羅に走り続けているに近い。
LCLの流れに髪が靡くシンジは何の変化のない外界のビジョンを見ながら、これはマズいかもしれないと思い始めていた。
シンジがそう思うのは感覚の問題だ。何しろ風景に変化がないから進んでいる感じが薄い。
出口や目的地が見当たらないとしても航空機等の機械なら推進機を回し続けるだけのことだが、エヴァンゲリオンは感覚のデバイスだ。進んでいる間隔を奪われると本当に停止してしまうかもしれない。
『ここは地球の物理法則が当て嵌まらない世界だ。遠いと思えば遠くなり時間もかかる。逆に言えば強くイメージできれば距離に関係なく直ぐに辿り着ける』
「つまり、目的地をイメージできなければ永遠にさ迷うことになる」
『ああ、マズいことにね』
意識に比して機体は動いていないことにシンジは気付いていた。
夢の中でもがいているような嫌な感覚を感じ始めていて、速度感覚が解らないこの場所でシンジの心理に直結して初号機の速度が落ちてきているのだ。
悪循環を断ち切る方法に悩んでいたその時だった。この特殊空間内で何かがシンジの視界を横切ったと感じた。
「何だ?」
今はどんな手がかりでもほしい。初号機を急停止させて、視界を横切った何かを求めて今通って来た道を逆走する。
目標が出来たことで、初号機は感じ取ったイメージを追い始める。この距離感が定まらない不思議な空間を失踪しながら、仮想ディスプレイの一点を凝視する。
「甘い、匂い? こんなところで?」
匂いが香る空間でもないはずなのに香りを感じ取った。匂いと共にまるで近づくことを拒むかのような
自分とエヴァンゲリオンを拒絶する力、手掛かりがほしいシンジは発生源に向けて初号機を向かわせる。
『この圧力、まさか…………でも、
やがて圧力の根源である
「!?」
認識すると同時に、猛烈な風の力を受けたかのような衝撃が全身を叩く。物理的なものではない。立方体集合を見た時、明るさのない閃光と聞こえない大音響を浴びたかのように錯覚する。
この空間に物理事象は発生しない。だが感じる力。接近を拒む力に腕や手で発生源を遮ると顔を背ける。
言葉ではない言葉で拒絶されている。掌越しにどうにか見たそれは、黒曜石のように深い色のガラス細工の構造物。拒絶する物理力ではない力は、今はもう突風のように、眩しくて目が開けていられない光のようになっていた。
『箱舟?! 何故これがここに!?』
一定の距離を超えたところで圧力が突如として消え去り、進もう進もうと意識が先鋭化し過ぎて気づいた時にはもう立方体集合は目の前にまで接近していた。
『いけないシンジ君! 箱舟に触れては――』
初号機の目を通しているはずなのに機体ではなく自分の顔が結晶構造表面に大きく映り込んでいた。その影が結晶面で重なる。
物理的な接触は果たされず、物質として存在していないのか立方体集合の中に初号機は入ってしまった。
青く見えていたものの内部は真っ暗で、推進速度と立方体集合の大きさを考えれば一瞬で突き抜けるはずなのに出口は見えない。
「――ッ!?」
プラグインテリアに座るシンジは箱舟内部に突入した瞬間に周り中を埋め尽くした何かに咄嗟に振り返った。
静かに佇む何か、その息遣いがこの構造体の大きさ以上の広がり、この宇宙の彼方まで埋め尽くしている気配。その全てがシンジを見ている感覚。
「なんなんだよ!」
気持ち悪い感覚に手を振り回すが何もいない。だが浴びている気配は消えない。内も外もなく全ての空間を誰かが何かが埋めていた。
「う、うわぁ――ッ!!」
シンジの悲鳴に、それまで静かだった無数のそれらは一斉に反応し、動き、渦巻く流れのように運動し、激しく騒めき始めた。
数が多すぎて唸りのように聞こえる。それは巣に集う蜂の大軍のように、うおんうおんと時折波動している。
「ヒトの声、これみんな人間だ――!」
何十億、何百億のヒトのさざめきだった。
そう気づいた時、シンジの姿はエントリープラグの中に無かった。
自分の姿がない。その状態をシンジはシートの上から見下ろしていた。だが自分の手が見えない。足も体もない。あるのは視野だけだった。いや、音も聞こえる。それが本当に光で本当に音なのかは解らないが。
「そうか」
自分の周りにいたもの、人達と同じになってる。触れると、彼らは何かが直ぐに解った。個々人が生まれ出でて死ぬまでの全生涯が一瞬で流れた。名前、生まれた時代、成功挫折、出会いと別れ、個人を形作るもの全てが儚い光の瞬きだった。
ヒトの情報、他人の全生涯に当てられ、シンジは意識が途切れそうになりながらも理解した。
「シンジ君!!」
自分の名前を呼ばれたことで、箱舟に触れたことで許容量を超えた情報の塊に呑み込まれていた混乱から一欠けらの自分を取り戻した。
「自らの在り様を思い出すんだ。カシウスの槍が、シンジ君の槍があれば出来る。認識するんだ。自分は何者で、世界の広がりはどこまでで、自分はどこに立っているのか」
カヲルの声がシンジに自らが握っている槍を強く意識させた。
「それは意識の届く限界を示す自己認識の槍。武器でもない、神話でもない、君の哲学の槍、ルクレティウスの槍だ。出来ないはずがない」
槍がシンジを認識し、シンジが槍を認識することで自己を確立させる。
入り込んだ碇シンジを構成するのに不要な情報が排除され、再び自己を確立したシンジはエントリープラグではなく、水に半ば沈んだ幾つものビルが見える湖岸に立っていた。
「か、ヲル君……?」
斜陽に照らされた世界に、天使の像に腰かけた学生服の渚カヲルの姿を見たシンジは全てを思い出した。
「まさかあんな所にもう一つの箱舟があるとは思わなかった。シンジ君が情報に呑み込まれていなくなる前に助けることが出来て良かったよ」
「君は、ここは……」
ここは第16の使徒に浸食された零号機が自爆したことで生まれた見覚えのある場所。だが、現実に存在しているはずがない。第三新東京市はシンジが起こしたニア・サードインパクトによって廃棄されたのだから。
「ここは僕の精神世界。マイナス宇宙を我々の感覚機能では、認知できない。LCLが知覚可能な仮想の世界を形成している。この光景なのは最も印象深いからだろうね。なにせ、ここは」
「僕達が初めて会った場所だから」
カヲルが続けようとした言葉をシンジが先回りして口にした。
「…………
コクリと頷くシンジ。
「思い出したよ。何度もここに来て、君と会ってる」
「ほぼ全ての世界の補完計画の発動を担ったのは君だ。生命の書に名を連ねてるからね、何度でも会うさ」
天使の像から飛び降りたカヲルがシンジの横に移動して、斜陽に沈む世界を一緒に見つめる。
「今ようやくカヲル君が言っていたことが分かった。僕は何度も同じことを繰り返していた。この終わらない連鎖を続けている」
第三新東京市でエヴァンゲリオンに乗って使徒と戦う以外にも世界には様々な違いがあった。
外見・内面だけでなく生い立ちもシンジに良く似た山岸マユミとの交流。戦略自衛隊から送り込まれたスパイだった霧島マナの好意――――登場人物が増えたり減ったり、その都度何かが違っていた。
逆に母や父と共に第3新東京市でエヴァンゲリオンに乗らずに日常を過ごす世界もあれば、設定が根幹から違うような非日常を過ごす世界もある。
千差万別。一つとして同じ世界は無く、似ているようでも必ずどこかが違う過去世界達。全ての世界に共通するのは、発動された補完計画の最後にシンジが必ず関わるということ。
「そうだね。世界がどんなに代わっても君は相補性のある世界を望み続けた。シンジ君が他人を望まなければ補完計画は完遂し、世界は閉じられる。ヒトは、リリンは、知恵を失って永遠に存在し続ける神の子として生き続ける。苦しむことなく、悲しむことなく。この地上世界、大地の上で縛られ藻掻き永遠に彷徨い続けることがヒトに許された姿であり定めだから」
「誰も悲しまない。誰も苦しまない。争いも、諍いも、支配も、服従も、飢えも、寒さも、痛みも、何も無い世界。たった一人だけの寂しい世界だ」
寂しい世界が嫌で、誰かに関わっていたくて、どの世界のシンジも他人がいる世界を望んだ。結果として、世界が繰り返すことなど知らず。
「仮に補完計画が完遂されたらカヲル君はどうなるの?」
「何も変わらないさ。僕の存在を消せるのは、真空崩壊だけだ、だから僕は定められた円環の物語の中で、演じることを永遠に繰り返さなければならない」
世界が繰り返していることを認識したシンジは他にいない。だからこそ、シンジは記憶を有するカヲルの行動に疑問を感じる。
「一つだけ聞かせてほしい。僕が知る全ての世界でカヲル君は補完計画を完遂させることを目的としていないように感じる。それどころか」
シンジを生かすことを優先しているように思えた。
言外に込めた気持ちを感じ取ったカヲルは彼特有の特徴的な笑みを深める。
「僕は君だ、僕も君と同じなんだ。だから君に惹かれた、幸せにしたかったんだ」
同じだというその言葉の意味は良く分からないものの、気持ちを受け取ったシンジは小さく頷く。
「ここまでシンジ君が補完計画の核心に近づいたのは今回が初めてだろうね。アダムの重複から始まったイレギュラーが積み重なったお蔭かな」
「そうだ。結局、この槍はなんなの? それに他の世界ではマリさんはいない。どういうこと?」
カヲル曰く、カシウスの槍でありシンジの槍にしてルクレティウスの槍。
握っているのがシンジだからか、エヴァンゲリオンが持つサイズから人間が持てるサイズに縮んだ槍は以前と一筋のより槍らしい形状と紫色に変わっている。
「前回の世界が特大のイレギュラーの連続でね。ここは精神世界だ。言葉で語るよりも伝える方法がある」
カヲルが伸ばして来た手を握る。
すると前回世界でのカヲルが見て来たモノ、即ちその世界でのシンジが見ていたモノが流れ込んできた。
「そうか、そういうことだったのか」
スーパーエヴァ、0・0EVA、アルマロス、ロンギヌス、ゼーレ、補完計画、エンジェルキャリヤー、ウルフパック、トーヴァート、ウルトビーズ…………前回世界でのシンジを通してカヲルが見て来たモノを得た今のシンジは得心がいった。
「でも、箱舟はマリと共にあるはずじゃ。あの場所にあるなんて」
世界を繰り返すキーアイテム、地球上の全生命個体情報の集積体である箱舟は最終的にあの世界のマリがリンゴの芯、この世界の月で共にあるはず。
「箱舟は二つある…………正確には一つの箱舟が全く同一な二つの箱舟に分けられたことで、通常物理の存在ではなくなり永遠の時間の中で劣化せず破壊も出来ず、触れても素通りするだけだ」
但し、先程のシンジのように影響は受けると続ける。
「シンジ君が言うようにマリと共にある箱舟は今も月でアルマロスと眠りについている。恐らく前回世界で余程、干渉されたのが嫌だったんだろうね。もう一つの箱舟は誰の手にも触れられないように、このマイナス宇宙に移したんだろう」
「偶々、触れてしまったのは僕の運が悪かったってこと?」
「そうとも言えるかもね。天文学的な確率だと思うよ」
「笑い事じゃないよ」
「流石はシンジ君だと感心しているのさ」
「馬鹿にされているとしか感じないよ」
一つ一つの世界で接した時間はそう長くは無くとも、繰り返されて来た世界を合わせれば膨大とも言える付き合いの長さが会話が弾ませる。
「槍自体も一度はマリの手によってシンジ君の下に返されたけど、あの世界のシンジ君はこの世界で再び始まるであろう補完計画のことを考えてもう一度槍をこの世界に送ったんだ。イメージしたのがマリだったから月に届き、それをゼーレに先んじて見つけた僕がロンギヌスの槍の
会話を楽しんでいたカヲルは話を進める。
「前回の世界で箱舟は多大な影響を受けた」
箱舟は未だ成功を見ない補完計画の全工程を、億年単位から万年単位に短縮し繰り返す為の全生命キャラクター構造のセーブデータ。生物の発生から文明の誕生、大洪水までの全地球の生物意識体情報が格納してある。生命進化の道程自体が今の世界の現実ではなく、遠い過去の再構成で省略されたモノでしかない。
「その結果として、この世界では本来ならば起こるはずのない第1使徒が重複するという異常事態が起こった。赤木博士の言い様を借りるなら箱舟がバグを引き起こしたと言えるだろう」
リツコさんなら言いそう、と内心で留めたシンジの感想を見抜いたカヲルは何も言わない。
「このバグを知ったゼーレは歓喜しただろうね。アダムは補完計画において重要な役割を持つ。補完計画完遂への階段を何段も飛ばして進めることが出来たから」
その恩恵として他の世界よりも早く
「ここから先のことは君自身の目で見て、どうするか決めるべきだ。やり方は分かっているだろ?」
「うん、この槍があれば僕はどこにでも行ける」
ここはカヲルの精神世界ではあるがマイナス宇宙にあることは変わらない。
そしてマイナス宇宙では目的地を明確にイメージさえ出来ればどこにでもいける性質がある。シンジだけではイメージが足りなくとも、ルクレティウスの槍があれば認識を補強できる。
「まずはどこに行くんだい?」
問われたシンジは一瞬だけ考え、イメージと共に口を開く。
「父さんのところへ」
タタン、トトン――――リズミカルに揺れる足下にシンジは思わず目の前にあった吊革を掴んでいた。
差し込む夕日の中、気付けば自分の前、ロングシートに男が座っていて、こちらに顔を上げもしなかったがシンジはその肩に見覚えがあった。
「やあ、父さん」
呼びかけると男――――碇ゲンドウは驚いたように顔を上げてシンジを見る。
「まさか父さんの精神世界が
西日の満ちる車内、レールの継ぎ目を台車が刻むリズム音、どれも懐かしく、危険な状況を示唆する物は何一つない。寧ろ思い出をなぞる感覚で一杯なほどだった。
「何をしに来た、シンジ」
「追って来いと言ったのは父さんだろ?」
直前までの出来事が意識から飛びそうになっていたのに、ゲンドウの問いかけに何故か自然に言葉が出た。
「電車に乗ってどこへ行くんだい?」
シンジは吊革から手を離して父の真向いのロング―シートに腰を下ろす。
ゲンドウは突如として現れたシンジをバイザー越しに見ていたが、やがて重い口を開く。
「ゴルゴダオブジェクトだ。補完計画そのものを組み立てた、人ではない何者かがオリジナルのロンギヌスの槍と共に残した全ての始まりと約束の地。人の力ではどうにもならない、運命を変えることが出来る唯一の場所だ」
夕焼けに染まっていた電車の外の風景が切り替わり、ゲンドウの背後の窓の向こうに十字架に打ち付けられた人型がいた。
シンジの目には第6の使徒戦中にミサトに連れられて降りたセントラルドグマで見たリリスを黒く染め上げたような姿に見える。
「黒いリリス?」
「お前の目ではそう映るのか。私には巨大な綾波レイに見える」
ゲンドウの目はシンジの背後の窓に向けられていた。
「あれはエヴァンゲリオンイマジナリー。ゼーレが予測した、現世には存在しない想像上の架空のエヴァだ」
視界の中で『なんでエヴァ?』という顔をしているシンジを見たゲンドウは嘆息しながら続きを口にする。
「何故、神はこんなものを残したのかという問いに意味はない。神視点の存在が、ヒトの細かい都合に一々構うわけはなく、その意味を問うことこそ無意味」
見る者によって姿形が変わるエヴァンゲリオンイマジナリーを見つめ続ける。
「地球の人類を一つにしてもユイはいなかった。
「それが父さんのインパクト、ゼーレの目論んだ人類補完の先にあるアディショナルインパクトの概要ってわけか」
不自然なほどに物分かりが良すぎるシンジに、ゲンドウは同じ息子とは思えない変化を訝し気に見つめる。
「父さんは僕が選ばなかったATフィールドの存在しない、全てが等しく退屈な人類の心の世界を作り出すことで母さんを探そうとした。その認識で合ってる?」
「…………ああ、他人との差異がなく貧富も差別も争いも虐待も悲しみもない、浄化された魂だけの世界――――そして、ユイと私が再び会える安らぎの世界だ」
レールが通路を切り替えるようにガタンと音が鳴り、電車の傾きが体感で感じられた。
「――――本当に、そう?」
世界が、切り替わる。
最終話まで完成したので一日二話更新します。