今話タイトルはオープニング曲より
碇シンジがいたのは病室だった。
入り口とは反対側の壁一面には人力では破壊不可能な強化ガラスがありカーテンはない。太陽光が部屋に注がないのは今が夜だからで、灯りがついていない中で月光が最も大きな光源だった。
部屋の主が眠るベッドが広すぎる室内にポツンと置かれ、その傍らで椅子に座った少女が月光に照らされたシンジの顔を飽きもせずに見つめている。
「ン……」
眠っていたシンジの口から微かに声が漏れた。次いで、瞼がピクピクと動く。
少女は少年が覚醒に近づいていると考え、ベッドに身を近づける。
「はっ……」
直後、空気が破裂するようにシンジは目を覚ました。
瞼を開いて天井の電灯を見上げたシンジは見慣れた場所であることに気づいて、ほっと息をついて力を抜いた。室内に一人でいると思ってリラックスしているシンジに、椅子に座る少女がニヤリと笑って口を開く。
「おそよう、ワンコ君」
「は?」
まさか誰かいるとは思わなかったシンジは目をパチクリとさせて顔を横に倒す。
灯りのついていない室内では少女の顔は暗がりで良く見えない。誰だろうとシンジが思っていると、「失礼」と言って少女が椅子から立ち上がりベッドの方に身を乗り出した。
伸ばされた手がシンジの入院着の襟を掴んでガバッと開く。シンジが止める間もなかった。
「わ!? な、なにを…」
「言葉は話せる。ふむふむ、心肺機能も正常。はい、手上げて、足上げて、指開いて握って――――――四肢の麻痺も認められず、と」
「き、君は、誰?」
勝手に手足を動かされたりしたシンジは赤い顔のまま乱れた入院着を直しながら、手元の携帯端末に記録を取っている少女に問いかける。
問われた少女は意外そうに携帯端末から顔を上げた。
「あれ、分からない?」
逆に問い返されてシンジは少女と面識があったかと記憶を思い返すも該当はしない。
基本的に真面目な性格のシンジは相手が不快と感じる言動と行動は避ける。眉間に皺を寄せて必死になって思い出そうとしている姿を面白げに見つめた少女が人差し指を立てる。
「ヒントその1、屋上」
「お、屋上……?」
名前でも言ってくれれば思い出せる確率は高くなるのに、場所で言われても直ぐに思い至らないシンジを更に悩ませた。
まるでご馳走を前にしてご主人様にマテをされた犬のようで、笑いながら少女は人差し指に続いて中指も立てる。
「ヒントその2、メガネ」
少女はこれ見よがしにクイクイと鼻の上の眼鏡を動かす。
眼鏡が本当にヒントになるのならシンジは既に少女が誰か思い出せているだろう。
「まだ分からない? じゃあね、ヒントその3――」
思い悩む子犬を嗜虐心に満ちた眼差しで悪戯を仕掛ける成猫のように、少女が身を起こすシンジの足を跨いでベッドの上がった。そのままシンジの方に体を倒していく。
「う、うわぁ!?」
迫ってくる少女から少しでも距離を取ろうと体後ろに倒すも距離は離れない。直ぐにシンジの頭がベッドの枕で行き止まりになり、少女の胸が迫ってくる。咄嗟に手で止めようとして、意識内では初対面の異性に触れることを躊躇してしまった。
フニュンと顔を埋め尽くす柔らかい二つの塊。そしてシンジの耳元に少女の口が近づく。
「――――乳の大きいイイ女」
フラッシュバックするのは、第8の使徒を斃して暫くした後、シンジが屋上で一人でいた時のことだった。
少女が身を起こしてニッと笑う姿が記憶と重なる。
「あの時のパラシュートの人?」
「間違ってないけど、乳の大きいイイ女で覚えておいて」
ベッドから下りて二本指を立ててこめかみから離してピッとキザなポーズを取る少女に、シンジは奇妙な感情を抱くと共に印象が定まった。
(変な人……)
まだ二度目の会ったばかりの人に正直な感想を口にするほどシンジは世間知らずではない。
「それでパラシュートの人がどうしてここに? 医者には見えませんけど」
少女はシンジと同世代、離れても二、三歳上という程度だろう。表情はまだあどけなく、女性というよりは女の子と言った方がしっくりくる容姿だ。検査はされたけど医者には見えない。
シンジは状況が理解できないという風な怪訝な表情を向けながら、彼女に質問を送った。
「私の名前は真希波・マリ・イラストリアス。以後、よろしく」
マリはそう言ってシンジに片手を差し出す。
握手を求められていると理解しながらも、シンジはマリの手を見ながら困ってしまった。
初対面に近いのに異性から一時的接触を求められればシンジならずとも戸惑いもする。シンジの困惑を察しながらもマリは手を下げない。
「握手って互いに接触を許容するじゃない? それって仲良くなるおまじないだと思うんだよね。私はワンコ君と仲良くなりたいと思っている。ワンコ君はそう思ってくれないのかにゃあ?」
眉を下げながら悲し気に言われたらシンジに拒否することなど出来ようはずがない。恐る恐るマリの手に自分の手を重ねる。
手を重ねて握手の形になれば後はマリががっしりと掴んで上下に振る。
「今の話をした上で握手したんだから私達はもう仲良しだ、ワンコ君」
「…………そのワンコ君というのを止めてもらえませんか? 僕には碇シンジっていう名前があります」
学校の屋上で会った時から『ネルフのワンコ君』呼びだったので訂正する。
「自己紹介されなかったし」
「今、しました」
ようやく握手を解いたマリはニンマリと笑う。
「名前で呼んでもらえなくて拗ねてる子には『ワンコ君』で十分。名前で呼んでほしかったら男を見せてみな」
抽象的過ぎることを言われても、どうしていいか分からない。
シンジの戸惑いを表情から読み取ったマリは「良く考えるといい」と言って答えは明示せず、話を先に進めることにした。
「私の詳しい立場についてはまた後ほど。ワンコ君。今の状況は分かる?」
「状況って……」
「君がどうしてここにいるのかってこと」
結果的に質問を返される形になり、シンジは今の状況を理解しようと努める。
使徒戦でシンジが病院に運び込まれるのは何時ものことだった。エヴァンゲリオンパイロットだから何時も隔離病棟に搬送され、目覚めるとこの何もない病室の一室というパターンが何度もあった。ある意味で見慣れた天井を見上げ、シンジは記憶を想起する。
「使徒に零号機が食べられるのを見て、エヴァに乗って戦った。でも、エネルギーが切れて初号機は動かなくなった。だけど、せめて綾波だけは取り返さなきゃって」
一度だけ見てしまった綾波レイの体を再現したような使徒をネルフ本部からミサトの手を借りてジオフロントに追いやり、後少しで倒せるというところで活動限界が来て初号機が動かなくなった。
そこから先は少し記憶が曖昧だった。
「うんうん、記憶の継続性も認められる、と」
マリがまた手元の携帯端末に何かを記録している間も、シンジは過去の記憶から今の状況に繋がるまでの道筋を探そうとしていた。
「綾波を取り戻した…………はず」
「どうやって?」
「分からない」
綾波レイを取り戻すという意志だけが先鋭化していた。
どうやって、どのようにして、という明確な言語化が出来ない。あの時のシンジには何故か出来るという確信があった。
「分からないけど、確かに綾波を助けた。そうだ綾波は!」
綾波レイを助けたのは間違いない。しかし、そこから記憶は続いていない。目的をやり遂げた達成感と気力を振り絞った脱力感で意識が遠くなって―――。
「語るよりも見てもらった方が早いと思うんだ。歩けるかニャ?」
「え、ええ」
記憶に囚われていたシンジを現実に引き戻すようにマリが立ち上がって告げた。
立ち上がったことでマリの顔が月光に照らされず、その時の彼女がどのような表情をしていたのかシンジには分からなかった。
「着替えはここにあるから、終わったら出て来てね」
「分かりました」
ベッドの下に手を入れて取り出した制服が手元に置かれ、マリが直ぐには答える気はないと知ったシンジも不承不承に頷く。
異性がいれば着替えにくいだろうと一足先に病室を出たマリは廊下にもたれ、後頭部をコツンと壁に当てて物憂げに溜息を吐いた。
「世の中、知らない方が良いってこともあるけど。そういうわけにもいかないんだろうなぁ」
人の気配のない廊下に、静かなマリの独白が雪が溶けるように消えていった。
入院着から第3新東京市立第壱中学の制服であるカッターシャツと黒のスラックスに着替えたシンジはマリに先導されるままに歩く。
何故か誰とも会わない中、ケーブルカーに乗り込んで地中深くに掘られた空洞の中を進む。
病室では饒舌に話していたマリは無言を貫き、鉄の塊で出来た箱が鳴らす大きな音だけが二人の間を行き来する。シンジの目はどこかの学校の制服らしき物を着ているマリの首元に向けられていた。
「あ、あの……この首のチョーカーは」
鏡が無いので自分の目では確認できていないが、触った感触からマリが首に付けている物と同じように思えた。進行方向を無言で見つめて口を開かないマリに恐る恐る問いかけた直後にケーブルカーはジオフロントに出た。
「空を見てごらん。ワンコ君の見たいモノの一端が見えるよ」
トンネルを抜けた車両の窓に光が差し込む。
施設の光といった人工物の光ではない。病室にも差し込んでいた天頂からの月光に、ケーブルカーの窓に取り付いたシンジは目を見張る。
「ジオフロントなのに、空が見えてる……」
階段状に刻まれた固い地質の黒い谷間と、その先に広がる夜空の中で青白い満月が嫌な存在感を放っていた。
「下を見てごらん」
上に気を取られていたシンジは言われた通りに視線を下げる。
ジオフロントの中心に座すネルフ本部の威容は変わらず、異常は本部から少し離れた場所にあった。
「初号機!?」
サルベージが終わって仮設施設が解体途中であり、その中心で未だカシウスの槍で貫かれたままの初号機の姿がある。周りにはシンジが初めて見る使徒封印呪詛柱が結界を作り出している。その外から初号機を照らすライトの光が何重にも当てられ、谷底に向かうシンジの目にもその姿を映し出していた。
「ワンコ君が綾波レイを取り戻そうとした時、凄い力を発揮したんだよ。その力を危険視した人達がああやって隔離してる」
「凄い力って、そんな大袈裟な」
「大袈裟、か。あれをやったのは君だよ。覚えてないの?」
マリが指差したのは空が見えるジオフロントの天井だった部分。今は満天の星空と青白い満月を映す地下からの見える光景が少し前までのシンジの認識ではありえないことで、嫌でも現実を突きつけて来る。
シンジが知る最大の威力を誇るN2爆弾であろうともこんなことは出来ない。
「使徒との戦いですんごい力を発揮した初号機は今もああやって凍結されている。半壊したネルフ本部の修繕やら何やらで、お偉いさん達は第三新東京市は復旧を諦めて今はご覧の有り様」
「これじゃあ、街のみんなは」
「生き残った人たちはみんな疎開したよ」
生き残った人、という言葉がシンジに嫌な想像を働かせる。
目を背けて耳を塞ごうにも、一度見てしまったものが嘘と思わせてくれない。心臓が嫌な動悸を発し、視界が歪む。
「綾波は、綾波はどこにいるんですか?」
居場所を教えてもらう為に病室を出て来たはずと、シンジは自分が為してしまった行為から逃げたくて縋った。
月光に照らされた眼鏡でマリの表情の一部がシンジには見えない。
「今から数時間前までワンコ君は初号機の中にいて、あそこからサルベージされたのは君だけだ」
「僕だけって、そんなはずはない! 僕は確かに綾波を助け出したんです! きっとまだ初号機のプラグの中にいます! よく探してください!」
狭いケーブルカー内でハウリングするほどのシンジの大声にマリが少し顔を顰めた。
「プラグ内も初号機内も全て探索したよ。ワンコ君の知る綾波レイはエヴァから帰って来なかった。MAGIの記録を全て見せてもいい。帰って来たのは君と、何故かこれが復元されていた」
マリはスカートのポケットから袋に包まれたシンジのSDATを差し出す。
「検査結果に問題はないから返しておくよ」
「父さんの……あの時、綾波が持っていた……やっぱり助けたんじゃないか!」
受け取った物は間違いなく、元は父ゲンドウが使っていたというSDAT。第9の使徒との戦いの後、第三新東京市を離れると決めたシンジが父との繋がりを断ち切るために捨てたそれを、綾波レイが拾って第10の使徒戦で共に食われたはずの物。
「仮に助けたのだとしても、いるとしたら君が知る綾波レイはまだ初号機の中にいる。けれど、あらゆる方法を試して帰って来たのは君だけ」
「信じない。僕は信じない……っ!!」
シンジはそれでも食い下がったところで、ケーブルカーがその終点に辿り着く。
先に降りたマリを追うようにケーブルカーを出たシンジは衝動に囚われていた。
「ミサトさんは? リツコさんは? みんなに会いたい! みんななら綾波がどうなったかを知ってるはずだ!」
足を止めることなくネルフ本部内に足を踏み入れたマリは振り返ることなく答える。
「会えないよ。知りたいことがあるなら一緒に付いてきた方が良い」
目的地がどこであるかも知らされていない。相変わらず誰一人として他の人と出会うことのない廊下に取り残されるのは心細い。
「くそっ」
行き場のない気持ちを言葉と共に吐き捨て、マリの後を追うことだけが今のシンジに出来ることだった。
広大過ぎる本部内の全てに精通しているとは言えないシンジもマリが迷っているのではないかと思うほどで、直ぐに自分がどこにいるのか分からなくなった。直ぐに後を追っていなければ見失っていたことだろう。
「あの、どこに」
「もう直ぐだから」
相当歩いたところで、聞いた少し後に明らかに区画の様子が変わった。
(この先は……)
天井や壁に電灯などなく、通路に血のような赤いライトが廊下を照らしている。何時見ても不気味で人を威圧する廊下はシンジも何回か通ったことのある区画だった。
予想した通り、ドアにもこれまた同じように赤いライトが走っている司令室の扉の前でマリは立ち止まった。
「さあ、ワンコ君。司令
何時もならわらわらと現れた司令部付きのSPが所持品チェックなどを行うのに今回は誰も出て来なかった。第9の使徒戦の後、拘束されて連行されたシンジが解任された時ですら出て来たというのに。
「代理?」
司令室に来たのだから、そこにいるのは父ゲンドウであるはずだった。それ以外の人物がいるとは夢にも思っていなかったシンジが聞き返すも、マリは聞こえなかったかのように足を踏み出す。すると、司令室のドアが自動的に開いた。重いドアが勝手に開くはずがない。中から誰かが開けてくれたのだ。
「やあ、碇シンジ君」
あらゆる意味で心の準備が出来ていないシンジを出迎えたのは、シンジとそう年の変わらない少年――――司令服を着た渚カヲルだった。
広い部屋の向こうで、机の前に立っていたカヲルはマリに背中を押されて司令室に足を踏み入れたシンジに笑顔を向ける。
「こんな夜分に来てもらってすまない。君と話が出来る時が今この時にしかなかったものだからね」
広すぎて豆粒程度にしか見えない相手に向かって足をゆっくりと踏み出し、カツンカツンと歩く足音が室内に響く。ドクンドクン、と足音に合わせるようにシンジの心臓の音も耳の中に木霊する。
シンジの目はカヲルを見ていなかった。見ていたのはカヲルの横3mほど離れた場所に立つ、『07』と胸の部分に書かれた黒いプラグスーツを着た見慣れた少女。
「やっぱり綾波だ……!」
表情に乏しい顔も、赤い瞳も、見慣れない色のプラグスーツを纏っていることを除外すればアヤナミレイその人に違いない。
「助けてたじゃ」
「無事だとは聞いていたが壮健そうで何よりだ」
先のマリの言葉を否定する根拠を見つけたシンジとアヤナミレイの間にカヲルが入り、今にも抱き付いてきそうな態度で距離を詰めてきた。
手を伸ばせば相手に触れられる距離にまで接近してきたカヲルに一歩後退るシンジ。
「カヲル、ガッつきすぎ。ワンコ君が引いてるよ」
シンジの後ろにいたマリが背後から手を伸ばしてカヲルを通せんぼする。
マリの手を避けようとはしなかったカヲルは腰が引けているシンジを見て、懐かしそうに目を細めた。
「一時的接触を極端に避ける。まだ怖いのかい、ヒトと触れ合うのが」
「初対面に馴れ馴れしく接されれば、誰だって腰が引けるのが普通だニャ」
「おっと、よりにもよって君から普通を説かれる思いもしなかった」
「喧嘩売ってる?」
「まさか、ただ事実を述べただけだよ」
「もっと悪いわ」
気安い関係を滲ませる会話のキャッチボールを、二人の間に挟まれながら聞かされる立場のシンジには溜まったものではない。
居心地悪げなシンジの顔を見て、カヲルは踵を返して司令席へと戻る。
「さあ」
シンジもマリに背中を押されて司令席に近づく。
嘗てこの部屋でゲンドウと対峙した距離で立ち止まったシンジの背をマリもそれ以上押そうとはしなかった。代わりにシンジとカヲルの対角線上に位置に移動する。
シンジの目からはカヲルが司令席に凭れるように立ち、その横3mに未だ無言のレイ、その反対側のシンジに近い位置にマリがいるということになる。
「まずは自己紹介といこうか」
口火を切ったのはカヲル。
「僕の名は渚カヲル。君と同じエヴァのパイロットであり、失踪した碇ゲンドウ氏に代わる代理の司令でもある」
「父さんが失踪? 君がエヴァのパイロット?」
いきなり爆弾を幾つも落とされ、病室で目覚めてから事態についていけないシンジの頭はパンクしそうだった。
「君がエヴァに取り込まれている間に状況は変わったのさ。まずはシンジ君が知りたがっている綾波レイのことを話そうか」
カヲルが後ろ手に机のコンソールを操作すると、シンジの目の前にブラインドが下りて来てそこに荒い映像が映し出される。
零号機を取り込んだ第10の使徒がエネルギーの切れた初号機に帯状の腕を突き刺し、施設の残骸に叩きつけた直後から始まった。
「見やすいように編集はされているが映像が安定しないのは勘弁してほしい。当時のことを思えば記録が残っているだけでも凄いことなんだ」
動かないはずの初号機が緩慢な動作で立ち上がったところに、使徒が帯状の腕を叩きつけんとした。しかし、初号機は強力なA.T.フィールドで攻撃の一切を寄せ付けない。それどころか失った左手を光で再現すると、形状変化させて使徒を跳ね飛ばした。更に目から強力な光線を放ち、使徒のフィールドをものともせずにダメージを負わせる。その頭上に天使のような光の輪が発生する。
「凄い。エヴァにこんな力が」
他人事のようにシンジは呟いた。現実感がない。この時のシンジは綾波レイを取り戻すという一心で、自分が何をしたのか分かっていなかった。
映像は時折視点を代えながら続く。
初号機が使徒に覆いかぶさってコアに手を伸ばし、翳したまま空へ浮かんでいく。頭上にあった光の輪は、赤いブラックホールのように変化し、徐々に大きくなっていく。
やがて初号機が使徒のコアから手を引き抜くと、分解しされて一つの形に収束する。コアの結晶は綾波レイの姿に変わって初号機と共に天空へと上って行き、二つがやがて融合すると上空に渦巻く赤いブラックホールが全ての物を飲み込んでいく。
そして空から巨大な槍が飛来して初号機に突き刺さる。初号機の頭上にあった赤いブラックホールが晴れていく。そして、静かな夜と満月が空に戻った。
「――――世間ではアレを、ニア・サードインパクトと呼んでいる」
空より舞い降りエヴァンゲリオンを最後に映像は終わった。自分の為した結果を突きつけられたシンジは目を瞑った。
「覚醒したエヴァ初号機の力は強大だよ。サードインパクトを起こせるほどに」
「…………違う……僕はただ、綾波を助けたかっただけだ……」
シンジは感情を声に乗せて抵抗する。身に覚えのない出来事を認めたくはなかった。
崩れ落ちそうな体を支えるのが精一杯で、耳を塞ごうにも力が湧かなかった。
「そうだね。しかしそれが原因で――」
「そんな……僕は知らないよ!そんなこと急に言われたってどうしようもないよ!!」
誰かが死んだという言葉は聞きたくなかった。聞いてしまったら引き返せない。自分の所為で誰かが死んだなんて知ってしまったら、シンジの心は破綻する。
「そう、どうしようもない君の過去。君が知りたかった真実だ」
憐れみと哀れみが入り混じった声がシンジを労るように振り落ちる。その声すらもシンジの耳には罪を糾弾する弾劾に聞こえた。
「綾波は、綾波だけは助けたんだ」
それだけが今のシンジを支える
「残念ながら彼女は君が知る綾波レイではない。サルベージでエヴァから出て来たのは君だけだ」
「彼女は別の綾波レイ。第1の少女と区別する為に、我々は便座上、彼女をレイ№トロワと呼んでいる」
フランス語で三番目を意味する名前を与えられたレイ№トロワをシンジは一縷の希望を託して縋るように見る。
「ねぇ、綾波だよね?」
「そう、私はアヤナミレイ」
レイ№トロワはアヤナミレイであると肯定する。
「だったら、あの時助けたよね?」
今度も肯定が返って来るとシンジは信じた。信じれなければ心が折れる。
「…………知らない」
「知らないって……助けたんだよ、あの時!」
「私は、知らない」
否定されたシンジの心は膝と一緒に折れた。地面に膝と手をつき、ガクリと項垂れる。
「助けてなかったんだ……綾波……」
シンジのしたことは全て無駄だと、寧ろ大きな災害を齎したという意味では害悪でしかなかったと全ての答えが突きつける。その中でシンジはたった一つの希望に縋りつく。
「……………綾波は初号機の中にいるんだ。もう一度初号機に乗れば、綾波を取り戻せる。そうすれば!」
「無理だ」
綾波レイを取り戻すことに固執したシンジの希望を、カヲルは言葉の刃で無情にも断ち切る。
後ろ手にコンソールを操作して、立ち上がったシンジの目の前に一つのデータを表示する。
「君と初号機の深層シンクロテストの結果は0.00%。仮に搭乗したとしても起動すらしないんだ。この状態ではコアに干渉することは叶わない。仮に万が一起動したとしても、それを良しとしない者がいる」
シンクロ率の次に表示されたのは、リング状の物体。
「リリンがかけた保険であり、リリンが与えた罪の証明。それが、その首のものなんだ」
「このチョーカー?」
「DSSチョーカー…………エヴァ搭乗時、自己の感情に飲み込まれて覚醒リスクを抑えられない事態に達した場合、搭乗者の一命を以ってせき止める。リリン達のエヴァパイロットへの不信の象徴さ」
ピッ、と音を立てて映像が消される。
「一命を以ってせき止めるって…………死ぬってこと?」
カヲルは否定しなかったが無言こそが何よりも雄弁に物語っていた。
「罪だなんて……何もしてないよ! 僕は関係ないよ!!」
自らの首にある物が命を容易く奪う物であると知らされ、シンジはDSSチョーカーを外そうとしたが鉄の首輪は人の力でどうにかなるものではない。
「君にはなくても他人からはあるのさ。エヴァパイロットにはインパクトを起こす危険があるから須らくDSSチョーカーが付けられている。例外はない。僕然り」
そう言ってカヲルは司令服の襟を開き、首に巻かれたDSSチョーカーを見せる。
「そしてそこにいる彼女にもね」
「改めて、エヴァンゲリオン8号機パイロットにして第四の少女、真希波・マリ・イラストリアス。よろしくにゃ」
悲壮になっているシンジとは裏腹にマリには生殺与奪の権利を他人に握られても気にした風もない。
「トロワ、君も見せなさい」
「はい」
まるで初めて会った時のような無感情なレイ№トロワもプラグスーツの襟を開き、DSSチョーカーを見せた。
カヲルは全てを詳らかにしている。嘘をついている証拠はなく、少なくとも真実と思える証拠だけが積み重なる状況からシンジは逃げようとした。
「エヴァのパイロットっていうならアスカにも? そうだ、アスカに会わせて下さい!」
話題の転換。シンジが傷つけた、今まで思考の端から除外していた少女のことを思い出して吠えた。
「第二の少女に、か」
カヲルは可能ならば会わせたくないと顔が物語っていた。
そこに救いがあるかのように更に言い募ろうとしたシンジの視線の先で、ピピッとカヲルの手元で電子音が鳴った。
「なんとタイミングが悪い…………仕方ないか。止めても無駄だろう」
コンソールを操作すると、シンジの背後で扉が開く音がした。
「フィフス、シンジがここにいるって」
左目に眼帯をつけた少女は司令室に入ってきたところで、振り返ったシンジと目が合い口を噤んだ。
眼帯を付けている以外は一緒に暮らしていた頃と何一つ変わらない式波・アスカ・ラングレーの姿に、シンジは立ち上がってその目に涙を浮かべる。
「アスカ、良かった!」
帽子を被り、赤のプラグスーツの上にジャケットを羽織っていたアスカはポケットから手を出して早足でシンジの下へ歩み寄る。そのまま減速することなく喜びを爆発させているシンジの左頬に目掛けて手を振りかぶる。
「やっぱり無事だったぁうっ!?」
喋っている途中で左頬を殴られたシンジはもんどりうって地面に倒れ込む。
「駄目ね、抑えきれない。ずっと我慢してたし……」
殴った姿勢で止まっていたアスカはシンジが頬を抑えながら自身を見上げる姿を冷たい目で見下ろしながら呟く。
「乱暴は止めてくれないか」
拳を戻したアスカの前にカヲルが滑り込む。その目は背後のシンジからは見えないが次は許さないと物語るように不断の意志が宿っていた。
守られていることにも気づいていないシンジをカヲルの姿越しに見下ろしたアスカは再度手をジャケットのポケットに入れる。
「ふん、もうしないわ。バカシンジにそんな価値はない」
「人を殴っといてこの物言い。お姫様みたい」
司令室に入ってから嘴を向けられない限り何も話さなかったマリが口を挟んだ。
アスカは初めてシンジ以外から視線を外して、珍しい物を見るようにマリを見る。
「部外者は黙ってなさい」
「エヴァパイロットの集まりにいる時点で部外者じゃないにゃ」
「そのにゃあにゃあ止めなさい。気持ち悪い」
「ひどっ」
「うっさい、コネメガネ」
気安さを感じさせる会話。その全てがシンジから遠い。
「コネメガネってさ、別の呼び方にしてくれない?」
「じゃあ、六番目」
「私、第四の少女なんだけど」
「アンタはフォースじゃない」
世界から遠いのはシンジの方か。だってこんなにも声が遠くから聞こえる。その中で左頬の痛みだけがシンジを現実に繋ぎ止めていた。
「碇シンジ君、君が初号機に取り込まれている間に来訪した使徒は彼女達によって倒された」
カヲルが再度コンソールを操作して、第11の使徒との戦闘映像を映し出すが残酷な現実を突きつけられたシンジは顔を上げられず、その目は何も映していない。
「残る使徒は後一体、見ての通り戦力は充実している。初号機は凍結中、エヴァに乗れない今の君に出来ることは何もない…………心と体を休めるといい。今の君には休息が必要だ」
憔悴しきったシンジを憐れみの目で見るカヲルには司令代理の立場があり、寄り添うことは出来ない。
「マリ、頼めるかい」
「あいあいさー」
下手くそな敬礼をしたマリにシンジを託す。それだけが最低限、カヲルの出来ることだったから。
「ほら、ワンコ君」
マリによって肩を担がれて司令室から出ていく憔悴したシンジの背中を見ていたアスカが口を開く。
「ふん、あれじゃぁ、バカじゃなくて――――ガキね」
眼帯から青い光を零しながら呟かれた言葉が本音かどうかカヲルには判断しかねた。ただ、レイ№トロワだけが最初から何も無かったかのように立ち尽くしていた、言葉通りの人形のように。
アスカさん、旧劇場版とかの記憶が流入してる?