いつきが学校に行きたくないと言い出した日以来、あずさの心には、常に不安と恐怖が渦巻いていた。
(いっくんが……学校に行かない……?)
小学校に入学して、少ないながらもお友達も出来て、先生たちからもいっぱい褒められて、思い切り遊んで、勉強して。
悲しいことがなかったわけでもないが、楽しいことや嬉しいことの方が多かった。そしてそんな場所に、大好きな弟と通えるようになることが、待ち遠しかった。そして待ちに待った弟の入学。さらに、いつきはあずさ並の学力をすでに持っていて、友達と話が合わない勉強のこともいっぱい話せると、さらに楽しみになり、有頂天になっていたと言っても良い。
だがその翌日、いつきは、学校の勉強があまりにもつまらなくて、親に相談したのだ。
――考えてみれば、そう言いだすのも無理はないことであった。
あずさ自身、今の状態で、時間的・場所的に拘束され続けて無理やり一年生のお勉強をさせられるとなったら、かなり辛いだろう。今も正直、二年生の内容はとっくに通り過ぎたものなので、退屈さを感じつつある。それでも、クラスの友達と一緒に話したり、遊んだり、給食を食べたりする時間は楽しくて、さほど気にならない。
「……ねえ、いっくん、学校はどう?」
いつきが学校に行きたくないと言った二日後の朝。2086年は4月1日がちょうど月曜日であり、今日は金曜日で、今週の学校はお終いと言う日。今日も二人で小さな柔らかい手を繋いで、並んで登校していた。
そんないつきに、あずさは、震える声で問いかける。つい、いつきの手を、ギュッ、と強く握ってしまっていた。
「楽しいよ! いっぱい遊べるし、給食も美味しいし!」
その返事に、あずさはほっとする。
良かった。楽しんでくれているみたいだ。
実際あずさは、こっそりといつきの担任に、弟の様子を尋ねていた。休み時間はみんなと同じように楽しく遊んでいるらしい。運動能力的には負けているけど、鬼ごっこなどでは小学一年生とは思えない頭の良さで、先回りなどをして対等に遊べているとか話していた。いつきの言うことは、嘘ではないのだろう。
「……でも、お勉強は、やっぱつまんないかなあー」
だが、続く言葉が、あずさの心に大きな影を落とした。
これも担任の言っていた通り。授業中はかなり退屈そうで、話を聞かずに別のことをやっているらしい。二日前の時点で母親のカナから話が通っていたらしく、仕方ないこととして指摘したりはしないが、何かしら対応はしたい、とのことらしい。本来二年生のあずさに話すようなことではないが、彼女の聡明さは職員室で話題になっており、実姉と言うこともあって、いつきの担任は少しばかり口が軽くなっていた。
「…………そうなんだ」
出かかった色々な言葉を飲み込んで、曖昧に笑う。
この話を続けると、何だかこのままいつきが意志を固めてしまいそうな気がして、怖かった。
――ここで決意を持って説得しようとするには、まだ彼女の心は、幼すぎたのであった。
☆
「そうか、やっぱり……」
我が子はどちらも天才であったらしい。
それも、飛び切りの。
嬉しい出来事ではあるが、世間一般に合わせて動くという楽な選択肢を奪われるのは、やはり親と言えども、辛いことであった。
いつきが学校に通い始めてから一週間半経った日の夜、父親の学人と母親のカナは、子供二人が寝静まった夜に、仕事の疲れも忘れて、居間で深刻に話し合っていた。
今週の頭から、希望通り、いつきは特別学級へと移った。最初の一週間、担任曰く、クラスになじんで楽しんでいるように見えたが、授業だけはどうしても心底退屈そうだったらしい。そしてその間に何をしているのかと思えば、魔法について勉強していたそうだ。
入学式初日に自分の適性診断を見たがり、部屋では小規模な魔法の練習を自主的にやっていて、授業中は禁止されているので練習こそしないがその勉強。幼稚園生のころからあずさを慕って魔法に関心を示していたが、いつの間にか、かなり興味を持っていたらしい。
そんな最初の一週間を経て、特別学級に移ったものの、初回の学力テストで衝撃の結果が出される。
私立中学校の入試問題相当のテストで、全科目9割。
理解していなさそうなミスは見受けられず、ちょっとした凡ミスしかない。
つまり、すでに、小学校卒業レベルどころか、小学校の内容をかなりの深さで理解しているということに他ならない。
これでは確かに、授業を受けるのは苦痛であろう。たとえ特別学級だったとしても、その領域すら逸脱してしまっている。
「行きたくない、か……」
特別学級は、普段の座学は別クラスでも、体育や図工や給食などは元のクラスで一緒に行う。時代が進むにつれて社会制度が整備されてその必要性こそ少しずつ薄れてきつつあるが、それでも今なお、一定の空間で集団生活を幼いうちに行う意義は大きい。
だが果たして、深いところまで理解している勉強をわざわざ場所・時間を拘束して無理やりやらせてまで、それをする意義はあるのか。その苦痛に、果たして常人が耐えられるのか。自分が今の記憶を保ったまま小学校の授業を受けさせられたら……と想像してみると、およそ耐えられそうにない。
「特別クラスももう完全に追い抜いてるのよね……」
「ああ、学校の制度的には、あれ以上を教えるのは流石に厳しいだろう」
いつきを満足させる教育を、学校では受けさせられない。
それならば、いっそ、本人が言うように。
「形だけのリモート学習をさせて、いつきの興味のあることをいっぱいやらせてあげたほうがいいわよね」
「ああ、僕もそう思う」
二人とも、魔法師でしかもそこそこ苦労した割には、一般的な感覚を持つ善人であった。
それゆえに、こんなにも速い不登校の決断に悩み、だが、息子の身になって考え、子供の興味関心を尊重する。
そんな二人が出す結論がこうなるのは、もはや必然であった。
この二日後の金曜日、いつきが特別学級での成果を手に二人に直談判に行ったとき、すでに結論を出していた二人は、愛しい息子に、学校に行かないことを許した。
だが、この結論は、家族の一人を、置き去りにするものでもあった。
☆
日曜日。
あずさは、深刻そうな様子の両親から居間に呼ばれた。
「あずさ、その……いつきは、明日から、学校行かないことになったんだ」
言い出しにくそうに、父親の学人が、それでもあずさの目を真っすぐ見て、事情を話す。
そして誠実な両親は、穏やかで心優しくてお利口な娘が、きっと理解してくれると信じて、ゆっくりと説明をしようとした。
だが――いくら天才少女と言えども、やはり、小学二年生であった。
「いや!!!」
あずさは耳を塞ぎ、いきなり立ち上がると、金切り声で叫んで居間を飛び出し、階段を駆け上がる。
彼女にとって、それは確かに衝撃であった。
一方で、賢すぎるがゆえに、大きな衝撃でもなかった。
分かってしまっていた。いつきは、いつの間にか、あずさがまだ理解できない領域にまで届いてしまっていることを。そんな彼にとって、学校がもはや「檻」でしかないことを。そして、ここずっと学校が退屈で暗い顔をしていたいつきが、金曜日からは一転上機嫌だったことも。
そうして「察し」て、積み重なった不安と恐怖が、今爆発したに過ぎない。あずさは、両親が思っている以上にお利口ではなく、そして思っている以上に賢い娘であった。
「いっくん! いっくん!!!」
向かったのは、自分の部屋の隣。
ずっとそばにいてくれると思っていた、だが今はどこか遠くに感じる、可愛い弟の部屋だ。
すでに慎みを覚えた彼女は、家族間であろうとノックをする癖がついている。だが今はそんな余裕もなく、ドアを乱暴に開けて部屋に飛び入り、床に女の子すわりをしながら手元で小さな魔法を弄っていた弟に、飛びつくように抱き着く。
「いっくん! なんで、学校行かないの!? 行こうよ! これからも、一緒に行こうよ!?」
ずっと楽しみにしていた。
そしてこの二週間は、不安もあったけど、それでも手を繋いで、一緒に学校に行くのは、すごく楽しかった。
「私と学校行くのがイヤなの!? イヤなところがあったら直すから!」
分かっている。
いつきは、あずさのことを全く嫌いになっていない。
彼が不登校を選んだのは、あくまでも、学校があまりにも退屈だからだ。
それでも、弱気な彼女の頭は、いつきが学校に行かないかもしれないという不安から、自分が悪いかもしれないという不安に変わって、一杯になっていた。
「だからお願い! 学校、一緒に行こうよ! いっぱい色んなこと知って、色んなお話しようよ!」
あずさがいくら小学二年生の中で小柄と言えど、いつきもまた小学一年生の中でも小柄な方だ。飛びつき、さらに強く抱き着くと、いつきの体は耐えきれずに押し倒される。押し倒したいつきに、まるで床に縛り付けるように抱き着いて、あずさはその胸に顔をうずめて泣き出す。
「お姉ちゃん……」
いつきはどこか、困ったような、思いつめたような声を出すしかない。
それでも、今にも壊れてしまいそうなあずさに、そっと、その細くて小さい腕を回し、ふわりと抱きしめる。そして、あずさのふわふわの髪を、そっと撫でた。
「不安にさせちゃってごめんね。僕はお姉ちゃんの事、世界で一番大好きだよ」
いきなり姉が大泣きして押し倒してきたというのに、その声は穏やかだった。これでは、どちらが上で、どちらが下か分からない。それでもあずさの心に、温かな安心感が広がる。
「でも……ごめん。やっぱり、学校は無理なんだ。僕は、我慢できない」
だが、それに続く言葉は、あずさを絶望へと叩き落とす。拒絶するように、いつきの背中に回していた腕を強く締め、さらに強く服を鷲掴みにして、ギュッと頭を胸にさらに沈める。
「だからさ、あずさお姉ちゃん」
それでも、苦しそうに声を震わせることなく、いつきは話し続ける。それと同時にお返しのように、強く抱き返しながら。
「これからも、いっぱいお話しよう。いっぱい遊ぼう。お勉強のこと、魔法のこと、お互いのこと、好きなこと、嫌いなこと……今までみたいに、二人でお部屋を行き来してもいい。なんなら、同じお部屋になったっていい。ボクも、大好きなお姉ちゃんと、ずっと一緒にいたいから」
諭すように、言い聞かせるように、語り掛けるように、いつきは言葉を紡ぐ。
それが心に沁み込んできて、いつの間にか、あずさがいつきを拘束する力は、徐々に弱まっていく。
「だからさ――」
あずさの背中に回していた腕を緩め、優しく、それでも確かな意志を籠めて、二人の間に差し込み、力を入れて、彼女を自分から離す。
拒絶ではない。
胸にうずめていた顔が離れ、お互いの瞳に自分の姿映っているのが見えるほどの近距離で、見つめ合う形になる。あずさの目からは絶えず涙が流れていて、対照的にいつきの瞳は静かな光をたたえている。
そして、いつきを挟むように床についていたあずさの両手を、いつきが優しく握って、自分の胸の前へと引っ張った。
必然、あずさは急に体の支えを失って、いつきに倒れこんでしまう。
――――鼻先がくっつく距離で、二人は見つめ合う。
学校に行くときよりも固く、お互いの両手を握りながら。
「お姉ちゃんも、これからもずっと、僕の傍にいてね?」
「――――――っ! いっくん! いっくん!!!」
数秒の沈黙の末、あずさは堰を切ったようにまた泣きだし、再びいつきに抱き着いた。
大好きな弟。
可愛くて、お利口で、でもちょっぴり頼りなかった。
でもいつの間にか、あずさとは別次元の存在になってしまっていた。
いつきが、学校だけでなく、あずさからも離れて行ってしまいそうに思えた。
だが、いつきは――ずっと、あずさの傍にいてくれるのだ。
あずさは感激し、恐怖と不安からくる先ほどまでと違って、ただただ弟への愛おしさと感激で、泣き叫びながら抱き着く。
この日、二人はこのまま、同じベッドで、抱き合うようにして寝た。
泣き叫んで疲れたのもあるが、あずさはこの二週間の中で、一番安らかに眠れた。ずっとあった不安と恐怖が、弟のぬくもりと鼓動で、ゆっくりと溶けていった。
そんな二人の様子を見て、ずっと迷っていた二人の親は、そっと胸をなでおろした。
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