魔法科高校の劣等生・来訪者編クリアRTA   作:まみむ衛門

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今回もバトル・ボードの描写がございます。
原作3・4巻の最初の方にあるコース模式図を見ながらだとよりお楽しみいただけます


6-3

 関係者用通路で「熱」が発生していたころ、それに負けないレベルで、会場の熱気は高まりに高まっていた。

 

 先ほど行われた女子バトル・ボードの決勝は歴史に残る名試合と、この数十分の間に一瞬で位置づけられた。一番の見せ場である決勝戦では良くも悪くも圧倒的な展開が多く、それはそれでとびぬけた素晴らしい技術に観客たちは満足していたのだが、ここに来てハイレベルな接戦をほのか・沓子が繰り広げたため、未だに興奮冷めやらないのである。

 

 そんな中迎えたのが、新人戦男子バトル・ボード決勝。

 

 片や、「海の七高」の中でも過去最高の逸材と言われ、下馬評では優勝間違いなしとまで言われていた黒井。

 

 そしてもう片方は、これまでに魔法力・作戦・駆け引きと運動能力以外のすべての面で相手を圧倒し、先日のクラウド・ボールでは一方的な試合を続けて優勝し、そしてその容姿と仕草でハートを打ち抜きまくった、中条いつきだ。

 

 二人が会場に現れると、空気を揺るがしていた歓声がさらに爆発する。九校戦は、今年最大の盛り上がりとなっていた。

 

「本戦よりも盛り上がるってどういうことよ……」

 

 天幕で耳を塞ぎながら、真由美は文句を垂れる。新人戦も十分重要だとはいえ、一年生だけで行われるし、点数も半分だ。試合のレベルも当然本戦の方が上である。それなのに、この盛り上がりは一体何なのか。

 

「仕方ないでしょう。本戦は大規模トラブルが起きて水が差されたか、誰かさんたちの完全勝利ばっかだったんですから」

 

 そんな真由美を、鈴音がばっさりと切り捨てる。耳を塞がず涼しげな顔をしているが、CADを操作しないで自分の耳に一定以上の振動をカットする小規模防音障壁を展開しているだけだが。

 

 ――彼女の言う通り、本来一番盛り上がるはずの本戦は、それはそれはもう盛り上がったが、決勝戦は、いまいち盛り上がりに欠ける決戦か、一方的な試合になるかのどちらかであった。

 

 相手に何もさせないクラウド・ボールの真由美、パーフェクトを連続して完勝したスピード・シューティングの真由美、相手が何かアクションを起こす前に全部氷柱をぶっ壊した花音と、相手の攻撃を全部退けながら「壁」を叩きつけて一瞬で試合を終わらせた克人。

 

 他の競技も、優勝候補筆頭二人が共倒れになって優勝決定戦にならなかった男子クラウド・ボールと女子バトル・ボード、それなりの接戦になったが範蔵が調子を崩していて微妙な塩試合にも見える男子バトル・ボード。

 

 大盛況のうちに一旦お休みとなった本戦だが、これで「最高の盛り上がり」をしろというのは、無茶な話である。

 

 それは真由美も自覚しているので、何も言い返せない。特にクラウド・ボールは、クソゲーを三年間押し付け続けた自覚が、昨日から湧き上がり続けている。完全勝利を重ねてそれは自信となってアイデンティティを形成していたが、今になって振り返ると、色々申し訳ない。

 

「それにしても、対戦相手の子もすごいわね」

 

 二年生主席のあずさの弟で、成績は当時の姉を越え、しかも戦闘をこなす本格派であり、特に移動・加速系を得意とする。いつきのプロフィールは、スーパーエリートそのものだ。血筋という要素の差で言えば――あちらが恐らく色々隠しているだろうが――深雪以上だ。

 

 だが、相手の黒井という少年も、負けてはいない。

 

 黒は、陰陽五行思想における水を表わす。数字付き(ナンバーズ)やエレメンツほど有名ではないが、苗字に五行思想に関する色などの用語が入っている場合、その分野のエキスパートの一族の可能性がある。彼はその一角だ。

 

 彼は、中学生の時から、水に関する腕では、沓子や将輝と並び称されてきた有名人だ。

 

 液体に干渉する魔法のエキスパートである一条家に生まれた過去類を見ない天才である将輝と、神道では吉田家――幹比古の吉田家は苗字が偶然一緒なだけ――と並んで由緒正しい家系である白川伯王家がルーツである百家・四十九院家出身の「水の申し子」沓子と並べられるということから、そのレベルが伺い知れよう。

 

 そんな二人の戦いなので、当然観客たちからは素晴らしいレースを期待されている。もはや、盛り上がらない要素は、一つもなかった。

 

 画面の中で、いつきが観客に手を振る。そうすると、ミーハーな歓声が響き渡った。一方の黒井は何も観客に反応しない。その不愛想ともいえる姿は、むしろ、この圧倒的アウェーの中でも揺るがない強さを感じさせ、見る者の目を惹きつける。そのせいか、だんだんと彼に対する声援も大きくなってきた。

 

 

 そしてついに、レースが始まろうとしている。

 

 

 静かにするよう会場アナウンスが流れた。スタートの合図を選手が聞きやすくするための配慮だ。それでも声援は中々止まなかったが、少しずつ小さくなっていって、いつしか小さなざわめきだけになる。

 

「さあ、頼むわよ、いつき君」

 

 真由美は祈る。

 

 新人戦女子はとんでもない成績を残しているが、男子は散々だ。駿が『カーディナル・ジョージ』と良い勝負をして準優勝になっただけで、他はいつき以外悲惨である。今後のこの学年の男子の士気は、彼にかかってるとすら言えよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――そしてついに、スタートのブザーが鳴った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「速い!」

 

 お互いに好スタートを切った。一番近い距離でコースを生で見られて、そしてあらゆる角度からモニターで観戦できるようになっている、関係者用の特等席で、沓子は叫んだ。

 

 スタートの出力が高いのはやはりいつきだ。また立った状態でスタートしたこともあって姿勢制御もスムーズ。これまでと同じ、他を寄せ付けない、綺麗な先行だ。

 

 だが、相手の黒井も負けていない。座った状態からスタートし、加速魔法の出力も負けているというのに、最初の二回のカーブが終わるころには、もういつきの後ろにぴったりとつけていた。

 

 沓子には分かる。恒常的に、ボードと水の接地面に、進行方向と逆方向へ働く力だけを中和する魔法を行使しているのだ。あれだけの移動をしながら、この地味ながらもハイレベルな魔法を維持し続けているあたり、沓子と同じく、この分野のBS魔法師的なエキスパートなのだろう。

 

 そして最初の難関であるS字ヘアピンカーブ。ここはいつきが得意とするところなので、差をつけたいところ。

 

 

「なっ、そんなのありなのか!?」

 

 

 その最初のヘアピンで、沓子は大きな目をさらに見開いた。

 

 いつきはいつも通り、かなり内側を、ほとんど減速せず良いスピードで曲がり切ろうとしていた。だが、内側に開いたわずかな隙間に黒井が突っ込み、接触覚悟のインベタでぶち抜いたのだ。しかも、曲がる際には当然外側に力が働くため、それによって、ヘアピンというデリケートな関門の途中だというのに、すぐ外側にいたいつきに波と水滴が襲い掛かる。波は当然として、水滴もまた地味に集中力を削いでくる。

 

 だが、沓子が驚いたのはそんな妨害ではない。

 

 あのわずかな隙間のインベタを、いつきを抜く程の速度で駆け抜けるという選択だ。今目の前で成し遂げられているから不可能でないことは確かだし、沓子もできないことはないが、リスクを考えると、本番でやろうとは思えない。しかも、こんな序盤に。

 

 だが、結局それは成功したのだ。いつきは確かな妨害によって今までで最悪のペースでヘアピンを乗り越え、逆に先行した黒井は悠々と駆け抜けていく。

 

 バトル・ボードは先行有利だ。だからこそ、スタート出力・姿勢制御、そして最初の関門であるS字カーブを得意とするいつきは、有利に立ち回れた。だがついに、それを否定できる存在が、全力でぶつかりに来たのだ。

 

 モニターにいつきの顔が映される。さすがに動揺しているかと思いきや、その顔はいつもの笑顔こそないものの、じっと黒井の背中を睨んでいる。パニックになっている様子はない。

 

 だがそれでも、いつきもかなり本気を出している。続く直線や直角クランクでは、これまでのレースでも十分速いにもかかわらず、それよりもさらにギアを上げた全速力だ。だが相手選手との差は中々縮まらない。

 

 そして迎えた派手な関門・落下だ。黒井はセオリー通り、着水の大波を、自分には推進力へ、後ろのいつきには妨害になる形で、魔法で操作した。

 

 だがいつきも負けていない。着水の直前に無理やり魔法でボート一つ分前方に浮遊スライドして、妨害を回避し、それどころか、その妨害の波を推進力として利用して見せた。

 

「どんな目をしとるんじゃ……」

 

 驚きで声を漏らす。コースの性質上、着水点は滝を飛び出してからでないと見えない。空中コントロールの難しさもあって、着水点に先行者が妨害を仕掛けるのがセオリー――とはいえ普通の選手は問題なく着水するので精いっぱいなので摩利などの達人だけの特権だが――なのは、それが理由だ。

 

 だがいつきは、まるで未来予知のようにそれを華麗に回避し、逆に利用して見せた。

 

 それでも、黒井との差は中々縮まらない。距離はボード三枚分ほど。大差とは言えないが、僅差とも言えない、苦しい距離である。

 

「来る!」

 

 そして迎えた、登りからの下りループ。この難しいコースを七高選手は得意としていて、当然黒井も例外ではない。新人戦の仲間二人どころか、本戦決勝もかくやという速度とコース取りで、急流ループを駆け抜ける。

 

 ――圧巻の走りだ。

 

 観客たちはそれを見て、大きな歓声を上げる。沓子も普段なら大喜びしただろうが――いつきに感情移入しすぎて、つい歯噛みしてしまう。

 

 いつきもまた黒井ほどではないが七高選手としても十分通用する速度でループを下る。だが、ついに両者の間には、ボード六枚分ほどの大差がついてしまっていた。

 

「どうする、いつき!? がんばれ!」

 

 小さな柔らかい手を強く握って、祈るように声援を送る。手のひらには、真夏の暑さだけではない理由で、じっとりと汗が浮かんでいた。

 

 そうこうしている間に二周目に入った。黒井は明確に先行して悠々とS字を駆け抜ける。それに対していつきもまた、一周目の黒井もかくやと言うインベタで高速で乗り越えた。こうして差が開けば、逆に妨害の心配がないから、思い切り攻めることができるのだろう。

 

 だがそれでも両者の差はなかなか埋まらない。

 

 いったいどうするのか。

 

 沓子もついに焦り始めた時――いつきの右手が、これまでにない動きをした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――瞬間、黒井の目の前の水面が、激しく光り輝いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ほのかの目くらましか!」

 

 沓子はパッと顔を輝かせる。そう、いつきはほのかと同じ一高選手だ。同じ作戦を共有していても不思議ではない。

 

 ゴーグルをつけていなかった黒井はそれでわずかによろめいたが、ただそれだけだ。観客たちは眩しさにやられたが、その真っただ中にいたというのに、彼にさほど衝撃は出ていない。

 

「…………ほのかと同じ性質か?」

 

 沓子はいぶかしむ。

 

 最初に思いついたのは、魔法式によるサイオンの光に敏感なので、遮光魔法をとっさに使ってダメージを軽減した、という理由だ。だが、そんなスキルを持つ者がそうそういるわけないし、そもそもほのかは光のエレメンツという飛びぬけて特別な血筋だ。黒井にそれはない。

 

 いつきは自分の魔法の効果も確かめず、これまでと同じハイレベルな速度を維持したまま、さらなる妨害魔法を仕掛けていた。

 

 クランクの直前。そこに急に、いくつもの小さな波が現れたかと思うと――黒井がそこに飛び込む瞬間、身長の半分ほどの大波が起きた。

 

 ほのかと同じ低空浮遊で乗り越えようとした黒井は、魔法の規模からは想像もつかない大波によって、急に足元を掬われた。予選・準決勝で沓子に蹂躙された相手選手たちのように、大きく体がよろめき、急ブレーキがかかる。

 

 だがそれでも魔法で無理やり体勢を立て直し、着水は免れた。黒井は驚き焦りながらも、なんとか大波を乗り越え、クランクへと突入する。だが、今の間に両者の差は目に見えて縮まった。

 

「今のは――波の合成か!」

 

 沓子はしばらく考え込んで、その仕組みを理解した。魔法師は、たとえ古風な伝統にべったりの古式魔法師であろうと、創作物のイメージに反して、現代科学に詳しい。それは沓子もこう見えて同じで、特に水に関しては一家言持っている。

 

 今のは、一発大波、またはフリークウェーブと呼ばれる現象を、魔法で再現したのだ。

 

 海洋には常に波が起きているが、それには数多くの要素が絡んでいる。通常、巨大地震などではない限り波同士が打ち消し合って大波は起きない。

 

 

 

 

 だが――様々な偶然が重なることで、一つ一つの要素からは想像しえないような、巨大な波が起こるのだ。

 

 

 

 それこそが、フリークウェーブである。

 

 いつきはそれを、魔法で人工的に起こした。使った魔法自体は、このレベルではほぼ妨害にならない程度の小さな波を起こす魔法を複数同時だが、それは、波長が重なるように発動された。これによって、魔法式からは想像もつかないほどの大波が起きたのだ。

 

 沓子は知らないが、この魔法を彼に授けたのは、バトル・ボードの偉大な先輩である範蔵である。

 

 彼は、魔法の結果を合成して別の現象やより大きな現象を起こす、コンビネーション魔法の名手だ。この魔法、その名もそのまま『一発大波(フリーク・ウェーブ)』は、その一種である。

 

 例えば範蔵の攻撃手段としてよく使われる『這い寄る雷蛇(スリザリン・サンダース)』は違う種類・系統の魔法を複数使うが、この『一発大波』は小さな波を起こす同じ魔法を複数使うだけで済むため、事象改変規模的にも使う魔法の種類的にも、比較的楽である。

 

 ただし、波の位相・周期がぴったり大波が起こるように状況に合わせて調整しなければならないため、演算面でも確実性の面でも、難しい魔法だ。実際、範蔵は一応手段としてCADに登録していたものの、去年も今年も使っていない。

 

 だがいつきは、この土壇場で成功し、確実な成果を収めた。

 

 そうして縮まった差でクランクを走るが、いつきの妨害は止まらない。

 

 

「あれはわしの!?」

 

 

 沓子が驚きと興奮と喜びが()い交ぜになった声で叫ぶ。

 

 黒井の進路上には、大量の渦が発生していた。古式魔法と現代魔法とで違う面はあるが、沓子が得意とする戦術だ。いつきは、沓子のことをしっかり見ていたのだ。

 

 だがその効果は薄い。黒井はまるで予知していたかのように、ほのかと同じく低空飛行でそれを乗り越えた。先ほどの『一発大波』と違って上方向の妨害に効果はない。とはいえ、直線ではなくクランクで空中移動を強いられているため、その速度はそれなりに落ちる。いつきとの差が、また少しだけ縮まった。

 

「……むう、相手はどうやって分かったんじゃ?」

 

 自分の魔法を使ってもらえてうれしかったものの、さほど効果が出なくて沓子は拗ねるが、それを黒井への疑問と言う形で発露する。

 

 先ほどの『一発大波』は予想できなかったのに、目くらましと渦潮はまるで予言のように回避した。

 

 その違いは何か。

 

 

 

「そうか、分かったぞ!」

 

 

 

 沓子は叫ぶ。

 

『一発大波』は、その一つ一つは些末な小規模魔法に過ぎない。だからこそ、あの結果を予測できなかったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そう、黒井は――水に投射された魔法式への感受性が、圧倒的に高いのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 沓子もかなり高いが、黒井のそれは、まさしく神に認められた才能だ。

 

 これでは、いつきの妨害も、先ほどの『一発大波』のような複雑な搦手しか通じない。それも、二回目は通用しないだろう。

 

 いよいよ、難しい戦いになってきた。

 

 クランクを乗り越え、黒井が一周目の時よりも開いた差でまたも先行して、滝を落下して着水する。いつきも遅れて滝を飛び出すが、今度は広い範囲に波が広がっていた。黒井が先ほどの対策を受けて、さらに規模を大きくしたのだろう。

 

 

 だが、いつきが着水する直前に、全ての波が、押さえつけられようにぴったりと止まって、静かな水面となる。それは黒井が置き土産として残していた数々の妨害も同じで、いつきの進路上だけぴったりとそれらが消えていた。

 

 

 

 

 まるで、風のない、凪いだ水面のように。

 

 

 

 

「まさか、全部魔法で?」

 

 沓子はまたも驚く。

 

 黒井は水に関しては特に干渉力が高いだろう。

 

 だが、いつきは、それらを全て、魔法で抑え込んだのだ。

 

 彼は、水に関しては特徴こそないが、移動・加速系に関しては、深雪すら超えるエキスパートである。その干渉力はすさまじく、「水」という土俵に、移動・加速系の力で殴り込みをかけたのだ。それはちょうど、鏡面化魔法で沓子の魔法を退けた、ほのかのように。

 

「いつきの姉君じゃな?」

 

 思い浮かべたのは、いつきの隣にいつもいた、彼と瓜二つの可愛らしい姉・あずさだ。

 

 彼女は女子の方も担当していたはずだ。三高は尚武の校風のせいか、愛梨や栞、将輝や真紅郎は例外として、エンジニアや作戦スタッフは用意していない。だが、他校のエンジニアは、性質上、その競技の作戦参謀を担うらしい。となると、どちらもあずさが考えたものだろう、と考えついたのだ。

 

 ――いつきばかり見ていたが、ずっと一緒にいた彼女もまた、面白い存在だったのだ。

 

 実際鏡面化魔法作戦を思いついたのは達也であるが、それはさておき、黒井には妨害の数々が襲い掛かるが素早く気付いて対処し、いつきへの妨害は全て押さえこまれてただの水路を悠々と進む形となった。両者の差は、二周目に入った時の半分程度になっている。

 

 だがここで迎えるのが、二度目の下りループ。いつきも先ほどの速度は流石に全力のはずだったろうが、黒井には及ばなかった。また突き放されるだろう。

 

 そう、誰しもが思った時。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――巨大な魔法が、水路上に展開された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「なんじゃあれは!?」

 

 沓子は今までで一番の大声で叫ぶ。だがそれは目立つことはない。なにせ、会場の全てが、そんな声を上げて驚いているほどだ。

 

 魔法の範囲は、それなりに長くて広い下りループの内側半分。それが、ループの端から端まで展開されている。

 

 この内側だけ、不自然に流れが速くなっていた。通常の下りも相当だが、ここまでくると、本物の急流下りと同レベルである。

 

 傾斜を登り切った黒井もまた、それを見て、目を見開いた。

 

 身体に沁みつくほどに練習した、見慣れたループが、すっかり様変わりしていたのである。

 

 七高の下りループの伝統芸は、校内に設置された完全再現練習コースと、そこでの果てしない反復練習によるものだ。大天才の黒井と言えど、いや、彼だからこそ、この反復練習を誰よりもこなし、まるで毎日通る道のように、この下りを駆け抜けることができるようになった。

 

 

 

 

 だが、今は。

 

 

 

 見慣れたはずの道は、彼を地獄へと叩き落とす、修羅の道へと変わっていた。

 

『ぐっ』

 

 コースに取り付けられたマイクが、黒井のうめき声を拾う。彼はしばし躊躇ったのち、コースの大外を回り始めた。こんな急流は全く想定していないから当然全く練習していないし、そもそも危険極まりない。落水で済めばよい方というレベルだ。

 

 結果、内側を走るよりも楽なはずだが、さほど練習していない外側を回らされたことで、初めてややぎこちなさを見せた。当然、コース取り的にも、不利なのには変わらない。

 

「じゃが、こうしたところで……」

 

 すさまじい範囲にわたる大魔法で、黒井を大きく足止めできたが、それも果たして有効と言えるだろうか。沓子の顔が曇る。

 

 なにせこの急流は、いつきにも牙をむくだろう。その難度と派手さに対して、有効性が全く釣り合っていない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――だがその心配をよそに、いつきは迷わず、自分が生み出した内側の急流へと飛び込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「そんな、無茶じゃ!」

 

 一高関係者と同じく、悲痛な悲鳴を沓子は上げる。

 

 このループは、下りな上に常にカーブしているという、危険な関門だ。それゆえにコース最後の難関として設置され、ここをチャンスと見て七高選手たちは練習を重ねてきている。

 

 そんな下りループを急流にしたうえで、飛び込んでいくなんて。いくら差がついているとはいえ、自殺行為だ。

 

 一高応援団たちは見ていられなくて目を覆う。沓子もそこまでではないが、祈るような気持ちで、いつきが考え直してくれることを強く願った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――この瞬間において、いつきを信じていたのは、ただ二人。

 

 

 

 

 

 

 

 

 一人は、いつき自身。

 

 

 

 

 

 

 

 

 そしてもう一人は――ハラハラしながらも、大好きな弟を見守っている、姉のあずさだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 大勢の心配をよそに、いつきはすさまじい速度で急流に乗っかって下っていく。その動きに乱れはなく、表情も冷静そのもの。まるで安全に管理された直線の流れるプールで遊ぶように、一気にループを下り切った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「そんなの――――そんなのありか!?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 そのド派手なファインプレーに会場は沸いた。沓子もまた、いつきが下るにつれ、どんどんと、悲痛から驚きへ、驚きから歓喜へと、表情が変わっていっていた。

 

 下りループ内側に起こされた激しい水流。いつきは、その速度を利用したうえで、何の問題もなく、超高速で下り切ったのだ。

 

 いくら自分で起こした急流とはいえ、そんなことができるのか。そもそも、あんな広い範囲へ魔法をかけるなんて、干渉力の負担もさることながら、莫大な演算が必要なはずである。

 

 いつきとあずさ以外の全員が混乱した。だが、何はともあれ、いつきがとんでもないプレーを見せた。コースの急変で乱されたとはいえそれでも十分な速度で下り切っていた黒井の真後ろに、ついにぴったりとついた。

 

 

 

 そして三周目。ついに、決着のファイナルラップだ。

 

 二人はぴったりと前後に並んだまま、本戦決勝を越える速度で走る。先ほどまでとは一転して、お互いに妨害も駆け引きもしない静かな展開だが、だからこそシンプルな速度とコース取りの勝負だ。ド派手なプレーで盛り上がった会場が、さらに湧き上がる。

 

 そして、今までいくつものドラマがあった、最後のS字ヘアピンを迎えた。

 

 黒井はお手本のようなカーブ。無理にインベタは攻めず、高い速度を維持したまま、一人が通れるペースをギリギリ内側に残さないようにして曲がる。思想としては、皮肉にもいつきに近い。だが、その内側のスペースがより狭い分、いつきよりも明確に格上だ。

 

 これでは、内側から抜けないはず。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 だがいつきは、ほぼスピードを落とさずに、さらに内側へと突っ込んでいった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「それは流石に!?」

 

 理論上乗りこなせないことはない急流とはわけが違う。いくら小さないつきとはいえ、あの隙間を物理的に通ることはできない。そもそもあの速度で入ったら、大きく外側に膨らんでしまうだろう。一周目の意趣返しのつもりなのか知らないが、これこそ、正真正銘の無茶。

 

 だが、いつきは、何を思ったか、ボードの先端をヒョイと持ち上げて浮かせ、さらに身体をやけに早めにひねり――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――内側プールサイドへと、先端を乗り上げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ガリガリガリガリガリッ!

 

 何かが一気に削れる音をマイクが広い、会場に響き渡る。

 

 誰しもが、その音に驚いたが、その驚きは一瞬で、いつきの姿に塗りつぶされる。

 

 サーフボードの一部を内側プールサイドに乗り上げたいつきは、その接触面がまるでレールになっているかのように、インベタのさらにインを高速で駆け抜ける。その、究極のインベタと速度を組み合わせた鋭いカーブは、一瞬で終わった。

 

 だがその一瞬で、ついに、いつきが黒井を抜かすことに成功した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「………………は?」

 

「……なんだあれは?」

 

「うっそでしょ?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あまりの光景に、会場が、沓子が、達也が、真由美が、唖然として静まり返る。

 

 一番近くで見せられた黒井もまた、ハイレベルなレースをしながらも、驚きで顔が染まっている。

 

 その間にいつきは、二度目のヘアピンも、ボード先端を内側プールサイドに乗り上げて、あり得ない軌道で鋭く曲がり切る。よく見ると、プールサイドに削れた跡が残っていた。

 

「やった! いっくん、決まったよ! すごいすごい!」

 

 喜んで飛び跳ねまわるあずさ以外のすべてが唖然とし続ける中、いつきはこのヘアピンでつけた差を維持したまま、超高速で残りのコースを駆け抜け――一着でゴールをして、新人戦男子バトル・ボードの優勝を決めた。




プールサイドリフト、覚えてた方は果たして何人いるのか

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