しばらくして、冬雪がとぼとぼと帰ってきた。
猫猫は、寝台の上の慧月と顔を見合わせてから、筆頭女官に尋ねる。
「どうでした? 玲琳さまはお許しくださいましたか?」
玲琳ならさらっと許してしまうだろう、そう思ったのだが、意外にも冬雪はわっと泣き崩れた。どれだけ泣くんだこの人。
「私は、私は本当に愚か者だ!」
「ええ、そうね、その通りだわ!」
そして、ここぞとばかりに追い打ちをかける朱慧月。
「聞けば、黄玲琳との付き合いで言えば、この薬師は短い方から数えたほうが早いらしいじゃない? なのにこいつは見抜けて、あなたは見抜けなかった。さぞかし悔しいでしょうね!」
「っ、このっ、言わせておけば!」
「冬雪さま、どうか堪えてください。慧月さまも、無駄に相手を挑発するのはお止めください」
しぶしぶ怒りを抑えた冬雪から聞いたところによると、玲琳は、罰を求める冬雪に『自害の禁止』『慧月への危害の禁止』『辞職の禁止』『殿下や陛下への告発の禁止』、それから『猫猫たちと仲良く』と命じたらしい。
甘いような厳しいような、判断に困る処分である。
「……朱慧月め、私を愚弄できる元気があるとは、随分と回復したものだな」
「ええ。呪いの効果が和らいでからは薬も効くようになりましたし、食事もお召し上がりになられました。心なしか玲琳さまご本人よりもお元気そうな気さえいたします」
感情的で嫌味で、主人に危害を加えた女がぴんぴんしているのは少々不服だが。薬屋として、助けられる相手を助けないのは信念にもとる。
「冬雪さま。お話したいことがございます」
「なんだ? 玲琳様とこの女の入れ替わりを見抜けなかったこの私になんとかできる話か?」
めんどくせえ。
「慧月さま……玲琳さまのお身体に呪いをかけた犯人に関するお話です」
「!」
すっかり夜も更けた頃合いだ。筆頭女官と薬師がついている場にやってくる者もいまいが、念のため人払いをしてもらってから、慧月の推測を告げる。
「あの呪いは、わたくしが半ば独学で身に着けたもの。同じ形式で用いられる者は、わたくしから直接使い方を聞いた人間。つまり、朱貴妃様しかいないわ」
「馬鹿な!? 朱貴妃様は朱駒宮の主、しかも慈悲深いと名高いお方だぞ!? 何故玲琳様の命を狙わなければならない!?」
「そうね。確かにあの方は慈悲深いわ。わたくしを拾ってくださったことには感謝している。……でもね、朱貴妃様の慈悲はそこまでだった!」
元下級貴族の雛女が女官たちに侮られ、嘲られていても、悲しげな表情を浮かべるだけで具体的な行動は起こさなかった。学のない慧月に率先して教えを施そうともせず、どぶネズミと呼ばれる状況を見過ごしていた。
「……いまにして思えば、黄玲琳との入れ替わりだってあの方に囁かれたのがきっかけだった。蟲毒の呪いをかける方法だって、わたくしの話に耳を傾けるふりをして巧妙に聞き出したんだわ!」
「それは貴様があまりにも迂闊だっただけだろうが……」
「なんですって!?」
「だから、今は喧嘩するのはお止めください」
朱貴妃が呪いをかけたのであれば、朱家の雛女である慧月──結果的に中身は玲琳だったが──に、野垂れ死ねと言っているに等しい境遇を強いたのも、慧月を単なる駒としか見ていなかったのだとして納得がいく。
「慧月さまのお話を信じるのであれば、朱貴妃さまは入れ替わりの件も知っていたことになります。そのうえで『黄玲琳』『朱慧月』両名の命を狙ったのだとすれば、これは巧妙な計画と言えます」
「ちょっと待ちなさい、黄玲琳も狙われていたっていうの!?」
「ええ。雅容と名乗る金家の上級女官が、朱家の下級女官を唆して『朱慧月』を殺害させようとしていました。ですが、雅容などという女官は金冥宮にはいないと金清佳さまから証言が取れております」
「偽名……そうか! 朱『雅媚』様が白練に扮していたのだな!?」
はっとした冬雪はいきなり身を翻そうとする。
「ならばあの方は玲琳様の仇! 刺し違えてでも仕留めてやる……!」
「いきなりなにを言っているのですか。荒事の類は禁じられたのでは?」
「そこの女を害するなとは命じられが、朱雅媚を殺すなとは命じられていない」
「馬鹿じゃないの!? 筆頭女官のあんたがそんなことをしたら黄玲琳だってお咎めなしじゃ済まないのよ!? つまりわたくしが割を食うってことじゃない!」
その通りだと猫猫は頷いた。
「どうしても殺害したいのであれば、面の割れない方法であるべきでしょう。私としては毒殺がおすすめです」
「完全犯罪をおすすめしてるんじゃないわよ!? ああもう、黄麒宮にはまともな女官はいないわけ!?」
「冗談です」
「……なんだ、冗談だったのか。真剣に検討してしまったではないか」
「毒殺を狙っても、相当上手くやらない限りは毒見役なり、傍付きの女官なりが死ぬだけですので」
ちなみに、もし玲琳が同じことをされれば毒見役は猫猫である。毒を食えるとか役得だな?
「ならば、朱貴妃様の企みを告発するか?」
「無理よ。証拠の香炉は壊してしまったし、もし残っていてもあれは『金家からの贈り物』という名目だったもの。朱貴妃様がやった証拠にはならない」
「さっきお前が言っていたことを伝えればいいだろう」
「それじゃあわたくしが道術使いだってバレてしまうじゃない!?」
慧月の保身はさておくとしても、証拠としてはやや弱い。香炉が運ばれた流れを丁寧にたどれば大元にたどり着けるかもしれないが……おそらく朱貴妃は工作に使った女官になんらかの対処をしているだろう。
「時間をかけるとまた呪いを用意されてしまうかもしれません。なんとかして本人から自白を引き出せないでしょうか」
「馬鹿にしないでちょうだい。二度も同じ手は食わないわ。材料さえあればこっちだって同じ呪いをかけられる。『呪い返し』をすれば痛い目を見るのは術者のほうだわ」
「そんなことができるのなら今からでもやればいいじゃないか」
「今すぐは無理よ。あれは蟲毒を用いた呪いだから、生存競争を勝ち抜いた蟲がいるの」
蟲毒については猫猫も知識がある。あくまでも伝承としてだが、異なる種類の蟲を同じ壺などに放り込んで喰らい合わせると、生き残ったものが最強の毒となるとか、そんな話だ。
「蟲毒ならちょうどいいのがあるかもしれません。玲琳さまにお願いして提供していただく必要がありますが」
「はあ!? なんであの女は蟲毒なんて作ってるのよ!?」
「いえ、玲琳さまご自身にその気はなかったようです。蟲を殺さず退避させる際、容器を節約しようとした結果だとか」
「……猫猫。それを聞いたうえでなんの対処も行わなかったのか?」
「ええ。蟲毒を実際に見る機会などそうありませんので」
何故だろう、慧月と冬雪が揃って頭を抱えている。
「ただ、呪いを返しても朱貴妃さまの罪を公にするのは難しいでしょう」
「はあ? なんでよ、別にいいじゃない。先に呪ってきたのはあちらなのだから、呪いで死んでも自業自得だわ」
「そうではない、考えてみろ朱慧月。それでは単にやり返しただけで、一連の事件の犯人が誰かはわからずじまいだ」
「あっ……!」
「冬雪さまの仰る通りです。まあ、都合よく本人がぺらぺら喋ったところに鷲官が居合わせでもすれば別ですが」
呪いを返した結果、朱貴妃が死にでもすれば今度は慧月が呪殺の犯人にされかねない。
入れ替わりの首謀者と唆した人間が揃っていなくなれば平和は戻るかもしれないが。
「……朱慧月。今のうちに玲琳様との入れ替わりを解消しろ」
「い、嫌よ! そうしたらお前、わたくしを殺すつもりでしょう!?」
「安心しろ、玲琳様とお約束した以上それはできない。……例えば、猫猫に命じて毒を盛れば話は別かもしれないがな」
「ほら! いいこと、この身体は人質よ! 事態が解決するまで入れ替わりは解消してやらないから!」
いや、毒を盛られるほうならともかく盛るほうをする気はないが。
「中元節の儀の前に解明を終えられていれば良かったですね。それならば、位の高い方々の前で朱貴妃さまを糾弾することも可能だったかもしれません」
「その中元節のおかげで判明した事実もあるのだ、明らかに無理があるだろう」
そう否定した冬雪は、不意に眉をひそめて。
「うん? ……位の高い方々の集う場、か。それならば、直近で用意できるかもしれぬ」
「は? さすがに直近で同じ規模の催しはないでしょう?」
「殿下が起こしになるわけではない。明日、黄麒宮にて玲琳様の回復を祝う茶会が開かれるらしい。絹秀様の主催で、茶会には他の妃たちと雛女が招かれる」
病み上がり、というか、常識的には快方に向かって一夜明けただけの『黄玲琳』はもちろん不参加。そのため、冬雪も女官からそういう催しがあると聞かされただけで強く気に留めてはいなかったそうだ。
「それは……絶好の機会かもしれませんね。あまりにも急すぎますし、計画が間に合うかわかりませんが」
そこまで性急に事を運ぶ必要があるか? そもそも状況証拠と慧月の証言だけで動いていいのか? それは「憶測でものを言ってはいけない」という理念に反するのではあるまいか。
猫猫が、持ち前の好奇心旺盛な面を抑え込むようにそう考えていると、
「なに言ってるの。時間を置いても解決しないって言ったのはお前じゃない!」
数刻前には死にそうな顔をしていた雛女が、瞳に爛々と輝きを宿して言い放った。
「やってやればいいじゃない! どうせ、失敗して処刑されたってわたくしとしては同じことだもの! だったらばっちりやり返せるほうに賭けてやるわ!」
「…………っ」
その勢いは、猫猫の心に、冷めかけていた熱を呼び戻した。
本流ではないとはいえ、猫猫もまた黄家の血を引いているのだ。黄家の者は身内に甘く、根性を尊ぶ。そして、やられたらやり返さずにはいられない。
やってしまえ、と、主の顔をした女に太鼓判を押されたからと言って、作戦を考えるのは猫猫たちで、おそらく実行するのも猫猫たち。失敗すればこちらまで処分されかねないのだが……厄介なことに、止めるべき筆頭女官までやりたそうな顔になっている。
猫猫はため息をついて、頷いた。
「……かしこまりました。では、慧月さまにも働いていただきます。具体的には、まず、今すぐ玲琳さまと連絡を取りたいのですが」
〇●〇
慌ただしい夜になった。
慧月をけしかけ、炎を介して連絡させると、幸い玲琳はすぐに応じてくれた。
本当なら倒れるまで弓を引いていただろう彼女だが、慧月の回復が早かったこともあって多少は体力が残っていたのだ。
玲琳と莉莉まで巻き込んで作戦を練り、必要な道具を用意した。ああだこうだとやっているうちに夜は明けてしまい、結局ろくに眠れていない。仕方ないので目の隈は化粧で誤魔化すことにした。
「……それにしても慧月さま、本当にお元気ですね。まさか本当に立って歩けるところまで回復なさるとは」
「なによ。病気さえなければ、それくらい大したことないじゃない」
「それがあるのですよ、玲琳さまの場合は」
せっかくなので慧月にも協力してもらうことにした。やって欲しいことを伝えたら無理だとかごねまくったものの、最終的には観念してくれて今に至る。なお、大筋が決まったらとっとと寝かせたので彼女はそれなりに眠れた模様。
とはいえ、慧月の仕事は大したものではない。
冬雪と猫猫を伴い、皇后主催の茶会の場に顔を出すだけだ。ちなみに黄玲琳当人が参加する、という連絡は行っていない。
なので、雛女と妃たちはみな驚きの表情を浮かべた。冷静なのは皇后・黄絹秀くらいである。
「玲琳様! もうお加減はよろしいのですか!?」
猫猫に付き添われた慧月はこれに答えない。代わりに冬雪が応じて、
「玲琳様はまだ本調子ではございません。ですが、少しであれば出歩いても問題ない、と薬師が判断いたしましたので、せめて皆様へお見舞いのお礼をなさりたいと」
「ほう。これは見上げたものだ。さすがは玲琳、根性である!」
慧月の役目は、これににこりと応じ、一言告げるだけである。
「みなさま、この度はご心配をおかけいたしました。お見舞いに来てくださったこと、心よりお礼申し上げますわ」
「こちらは玲琳様より、お見舞いのお礼の品でございます。どうぞお納めください」
冬雪が各家の女官に品物を手渡していく。このうち金家、藍家、玄家への返礼品に大した意味はない。重要なのは朱家への返礼品。
感嘆すべきことに、朱貴妃こと朱雅媚は『香炉』を見てもほとんど表情を変えなかった。
香炉は、あの呪いの香炉そのものではない。金家好みの意匠を施されたあれと同じものは調達できなかったので、保管庫にあったものから一番それらしいものを選んだだけだ。だから大事ないと踏んだのかもしれない。
しかし、女官から香炉を近くで見せられればさすがにそうはいかなかっただろう。
『侵食黄麒宮貴人之蜘蛛』
香炉には呪いの対象を規定するための文字が、しっかりと記されていたのだから。