「………っ」
ふらりと、朱貴妃がよろめく。貴妃付きの上級女官が信じられない、とばかりに首を振った。
「この香炉に書かれた文字はなんですか! こんな気味の悪いものを貴妃様に贈ろうなどと……!」
「これは申し訳ありません。どうやら別の香炉と取り違えてしまったようです」
冬雪が、あらかじめ打ち合わせしていた通りの内容を淡々と答える。
「そちらは玲琳様の快復を願って記したもの。決して『呪いの類でも嫌がらせでもございませんので』ご安心くださいませ」
「呪いですって……!? ぶ、無礼だわ! あなた、朱貴妃様になんの恨みがあってこのようなことをするのかしら!?」
「…………」
金切り声を上げる朱家の女官たち。それに同意したわけではないだろうが、この場における一番の権力者──皇后、黄絹秀もまた、不快そうに眉を寄せた。
「冬雪。これはどういうことか説明せよ」
「はっ。申し上げました通り、そちらの文字は快復祈願のためのものでございます。……が、付け加えさせていただくならば、玲琳様へ贈られた品の中に似たような文字が記されていたのが発端でございます」
「玲琳への贈答品の中にだと?」
猫猫は一礼して、用意してきた包みを開いた。手近な卓に置いて、形を整える。
入っていたのは破片だ。蟲毒の依り代に用いられ、猫猫が割ったあの香炉。比較的大きめの破片を集めたそこには『貴人在黄宮』と書かれている。文字の色は、まるで血を混ぜたようにどす黒い。
「中には蜘蛛の死骸も混入されておりましたが、そちらはお見せするものではないかと思い、処分いたしました」
「ひっ……蜘蛛の死骸ですって……!?」
「待ちなさい、玲琳様の筆頭女官。これは金家の好む様式の香炉でしょう。まさか金家が玲琳様を呪ったとでも言いたいのかしら!?」
金家の淑妃が悲鳴を上げ、雛女である金清佳が抗議する。ここは香炉を示した猫猫がそのまま応じる。黄家が質実剛健的な性質を持つのに対し、玄家は率直な言動と武を好む。その両方の血を引く冬雪は化かし合いには向いていない。
「呪いなどというものが実際にあったとは申しません。ただ、まじないに頼りたくなった理由をご理解いただければと考えたまでです。それに……心無い者が金家の贈り物を装った可能性もございます」
「まあ!」
ここで朱貴妃が声を上げた。瞳に涙を浮かべ、ふるふると首を振る。
「それではまるで、この中に犯人がいると言っているようではありませんか……! そのような事実無根の疑いをかけるのは、貴き雛女に仕える者のすることではありません」
上手いな、と、猫猫は思った。この状況で最も疑わしいというか、悪意を向けられているのはどう考えても朱貴妃当人。その事実から周囲への同情という形で目を逸らさせようとしている。日頃から慈悲深いと名高い朱貴妃だからこそ周囲もこれを疑わない。
絹秀はふんと鼻を鳴らすと、機嫌を損ねていることを隠しもせずに宣言した。
「くだらぬな。冬雪、その香炉を持ち帰り、後日代わりの品を朱家へ贈れ。……無論、詫びの品を添えてな」
「かしこまりました。せっかくお集まりいただきました皆様に大変な失礼をいたしましたこと、あらためてお詫びを──」
「し、失礼いたします! 朱駒宮より──し、朱慧月様が参られました!」
〇●〇
ここまでの流れは、おおよそ猫猫たちが打ち合わせた通りである。
香炉の文字は、慧月の持つ道術の知識を元に書いたもの。血を混ぜた墨で書くことで蟲毒の対象を指定できる。『侵食黄麒宮貴人之蜘蛛』ならば黄麒宮の貴人を侵食す蜘蛛、『貴人在黄宮』ならば黄麒宮にある貴人を狙った呪いになる。
ただし、破片の文字はでっち上げである。
本来、文字は呪いを発動させる際に消えてしまうからだ。つまり発動後の香炉に文字は残らないし、朱貴妃に贈った香炉も文字が残っている時点で呪いとしては機能していない。
これらは単に朱貴妃を動揺させるためのものだ。ああやって見せれば、蟲毒の呪いを知る者は焦る。なぜなら相手方も蟲毒の呪いを知っており、そして既に呪いの準備ができていることを突き付られているも同じだからだ。
そして実際に彼女は取り乱した。
だから、ここからは、自分で朱貴妃と戦うことを望んだ雛女の出番だ。
「皆様、突然の訪問となり大変申し訳ございません」
身体は朱慧月、中身は黄玲琳、健康な身体と鋼の精神を併せ持った少女は、上級女官の衣を纏った莉莉を伴い現れた。その手には珍しく団扇。恭しく一礼した彼女はちらりと猫猫たちを見て、わざとらしく目を丸くする。
「まあ! これは玲琳様!? もう起き上がって大丈夫なのですか!? わたくし、心より心配しておりました。ご快復を嬉しく思いますわ」
前半が見事に棒読みである。途中からは心がこもっていたものの、どうやら玲琳は嘘がつけない性格らしい。
心労の種が次から次へとやってくる朱貴妃はわなわなと震えて、
「慧月。中元節に続き、またしても……。あなたには謹慎を命じていたはずです!」
「ええ、存じております。『自主的に謹慎をせよとの朱駒宮内での取り決め』でございますよね。ですがわたくし、こちらで本日茶会が催されると偶然耳にしまして、居ても立ってもいられなくなってしまったのです」
やらかした雛女に茶会の存在を知らせない。不自然ではないものの、獣尋の儀を経てのこの仕打ちは少々徹底しすぎているように皆の目に映るかもしれない。
ここで玲琳は目を伏せて、
「それにわたくし、どうしても朱貴妃様にお伺いしたいことがございまして」
斜め後ろに立つ莉莉に目くばせをする。こくん、と、女官の少女は頷きを返す。
「朱貴妃様。なぜ『白練の雅容』などと名乗って、わたくしの女官を唆したのですか?」
「朱慧月!」
絹秀の持っていた茶器が音を立てて床に落ちた。皇后は先ほど以上の態度で雛女の一人を叱責する。
「どうやら茶会の目的がわかっていない馬鹿が多いらしい。縁起が悪いにも程があるし、当の玲琳はこうして快復したのだ。茶会は仕舞いに──」
「あらぁ、良いではありませんか。せっかくですから最後まで伺いましょうよ」
「り、理由もなく貴妃様を犯人扱いしたのであれば、いくら雛女といえど咎を受けることになります。朱慧月様にもなにかお考えがあるのでは……?」
金淑妃が遮るように継続を促し、藍家の雛女である芳春がおどおどと擁護。
絹秀はなにも言わず、自らの席に座り直した。玲琳は一礼すると、皆に向き直って、
「先日、この莉莉は『金家の雅容』を名乗る白練から脅され、わたくしを害するように命じられました。命令の中には殺害も含まれております。これは雛女の命を狙った、紛れもない罪でございます」
「ですが、それがなぜ朱貴妃様の仕業ということになるのです!?」
「先日の中元節にて、金家に雅容などという白練がいないことは清佳様よりお答えいただきました。その場にいた金家女官の顔は莉莉も確認しております。……それにそもそも、このようなわかりやすいやり口で雛女を害するのはおかしな話」
「……何者かが、我が金家を装っていた、ということですわね」
清佳が呟いた。話が「香炉を贈った何者かについて」と同じところに戻ってきている。
少し頭を回転させれば、両者の関連を疑うだろう。
加えて言えば、中元節にて清佳は宮から簪が盗まれたことを皆の前で口にしている。
「自慢ではございませんが、わたくしは朱家の女官にも嫌われております。ですが、同じ女官である莉莉に面が割れている以上、朱家女官が犯人という線は薄い。では、下級女官ではお傍に寄ることもできず、普段、薄布や扇で顔を隠していらっしゃる方ならばどうでしょう?」
再び玲琳が振り返れば、莉莉は声を震わせながらも断言した。
「間違いございません。あの日、私に朱慧月様の殺害を命じたのは──朱貴妃様でございます」
「ですから、なにを根拠に!」
「顔は、化粧である程度変えられす。『雅容様』はこうして……団扇で隠していたそうですので、猶更判別しづらかったことでしょう。ですが、声は特殊な訓練を行わない限り、大きく変えることはできません」
こうして直に声を聞けば、まして、『廊下にも響くような大きめの声』を聞くことができれば、より判断しやすい。
「だが、慧月殿。上級に昇格させたとはいえ、その者はもともとただの下級女官だろう。他に目撃者もいない証言を信じて貴妃様を罪に問うというのは無理があるぞ」
「では、物証があればいかがでしょう」
にこりと、微笑んだ玲琳は視線を金清佳へ向ける。
「清佳様。たしか、金冥宮から盗まれた品があったそうですね?」
「え、ええ。簪と、それから白練の衣が」
つまり、何者かが衣と簪を盗み、それを用いて『金家の雅容』に扮した可能性は十分にある。そして、莉莉が彼女と出会ったのは『朱家の領域』。
「実は、わたくしの莉莉はそちらの猫猫と仲がいいようで、面白い話を聞かせてくれたのです。人の指の模様というのはひとりひとり違っていて、ひとつとして同じものはないのだとか。そして……『金属』や『宝石』にはその跡が残りやすい」
つい、と、人差し指を立て、空中で滑らせる玲琳。
「細かい粉をはたくなどして模様を浮かび上がらせれば、その品に誰が触れたか一目瞭然。……さて、時に清佳様。『銀の土台に真珠をあしらった』あの髪飾りは、お返しした後どのように?」
「……も、もちろん、保管しているけれど」
話の流れがだいぶ変わってきた。ここまでの状況証拠に物証が加われば、さすがに朱貴妃が怪しいかも……? 程度には疑わしさが生まれる。皆の視線が集まる中、金清佳は少し気まずそうに答えた。
「指の模様まで残っているとは断言できないわ。気を利かせた女官が一度拭いているかもしれないし、そうでなくとも他にも触れた者がいるもの」
証拠能力があるか疑わしい、というもっともな意見に落胆の空気。ここだ。猫猫は玲琳と目くばせしあって一歩前へ。
「では、別の品物ではどうでしょう」
「別……?」
「はい。かの『金家の雅容様』は彼女──莉莉へ短刀を渡して雛女さまの殺害を命じたそうです。その短刀は『漆塗りの』上等な黒鞘に収まっていたそうなのですが……朱慧月様、その短刀はどちらに?」
にっこりと、笑う玲琳。
「返却する機会がございませんでしたので、まだわたくしの手にありますわ。もちろん、拭き取るような真似はしておりません。まあまあ! 漆塗りの品も、見るからに指の模様が残りそうですわね?」
「いかがでしょう、朱貴妃様。『身の潔白を証明するためにも』指の模様を採らせてはいただけないでしょうか。そうすれば少なくとも、その短刀にあなた様が触れたことがない、と証明できます」
「ま、待ちなさい! もし仮に、仮によ? 模様が一致したとしても、朱貴妃様が雛女殺害を企てたとは言えないでしょう? そう、金家から簪や衣が盗まれたように、短刀も盗まれたのかもしれないじゃない!」
「簪や衣ならばともかく刃物、それも、貴妃様の目に留まるような品が盗まれたのであれば直ちに鷲官へ報告すべきでしょう。管理体制の不備などもってのほか」
再び猫猫。
「このお話は前もって鷲官長──壬氏さまにもお伝えしております。色よいお返事をいただきましたので、早ければもう今頃、捜索が始まっているでしょう」
「なっ……!?」
「怪しい品がなにも出てこないことを祈っております。そう、例えば『燃え残った白練の衣』とか」
しん、と、茶会の席が静まり返った。
誰もが朱貴妃に注目している。そしておそらく、最もこの状況に心を痛めているのは皇后・黄絹秀だろう。
「雅媚。……なあ、雅媚よ。何故、なにも言わぬ。こやつらの戯言など全て出鱈目だと一蹴してしまえば良い。まさか、お前が」
「……ええ、ええ。その通り。すべて真実でございます」
ここまでなにも言わず、俯いていた朱貴妃は、顔を上げると笑った。これまでの淑やかで慎ましいそれではなく、壊れてしまったような、自棄になったような、そんな笑み。
絹秀は口を開け、共に妃として皇帝に尽くしてきた女を見つめる。
朱貴妃……雅媚は、にっこりと笑いながら袖に手を入れ、短刀を取り出す。莉莉に渡したそれとは別物だが、そんなことはもうどうでもいい。あれは証拠どうこうではなく、人を殺めるという本来の目的で取り出されたものだ。
きっ、と、憎々しげな視線がこちらに、正確には、玲琳の身体に入った慧月に向けられ。
「慧月、せっかく目をかけてあげたのに裏切るなんて。しかもことごとく、わたくしの計画を邪魔してくれて」
振り上げられる短刀。小走りに、一人の人物の元へ向かう雅媚。
「あなたたちさえ、あなたたちさえいなければ……っ!!」
「よせ、雅媚」
振り下ろされた短刀は、その人物──絹秀その人によって軽く止められ、逆に雅媚はあっさりと腕を取られ、床に組み伏せられる。
「そんなへっぴり腰で妾を殺せるはずもないことは、お前が一番知っているだろうに」
呟く皇后の表情は、大切な友を失ってしまった悲しみでひどく歪んでいた。