・レピュシア・ミルデッド(雪兎さん)
エメリオが生まれたときに雇い入れられたメイドさん。
15歳からベリリオン屋敷で働いており、今は20歳ぐらい。
数代前に大森林からベリル領に移り住んだ、兎獣人の一族。
彼女自身は生まれも育ちもベリル領。
『銀槌』ローレンシアは、北王を
しかし、彼女をよく知る長命の冒険者たちは、彼女の実力が北王に収まらないことを知っている。
実のところ彼女は、彼女の師によって北帝を認定されているのだ。
それでも彼女は北王を名乗っている。
それはなぜか。
その理由には、その彼女の師が関係している。
北帝として名を馳せていた頃のある日、彼女は紛争地帯の国の一つの、国境付近の酒場で彼女の師に再会した。
その再会は、以前に別れてから実に100年ぶりのことになる。
かつてはどの戦場にいてもこの師の噂を耳にしたものだったが、ここ50年ほどはパタリと聞かなくなった。
彼女の師が
どうやら、今はかつてとは別の名を名乗って活動しているらしい。
道理で、噂を聞かなくなったわけだ。
酒を酌み交わして旧交を温めているとき、彼女はふと、師の傍らに立てかけた
彼女の師はよくぞ聞いてくれましたとばかりにその棒のすばらしさを語った。
「というわけで、
彼女の師は、長口上をそう締めくくった。
必死に欠伸を噛みころしながら聞くふりをしていた彼女には、結局何が「というわけで」なのかわからなかったが。
「はあ。相変わらずだねえアレックス。あんた、
「ああ、
「……なんとまあ、あっさりしたもんだ。それで、その棒っきれで修行するのと、北神英雄譚の終わりには、何か関係があるのかい?」
彼女の師は、いかにも哀愁たっぷりに演技がかった様子で酒をあおり、答える。
「ふふ。新説・北神英雄譚が始まるんですよ。
私の北神英雄譚は、結局は偉大な父、北神一世の生き方を模倣したにすぎません。
その模倣は、ある程度成功を収めましたがね。
しかし王竜剣を振り回して悦に浸っていても、私は列強上位はおろか、列強下位とも同列のままです。
闘気を操る技術に果てはない。この棒は、闘気を操る技術を鍛えるのに最も効果的な得物です。
私はこの、最も非力な武器でもってして、かつての王竜王ですら圧倒できる技術を磨くのです。
まあ、あとは息子も大きくなりましたからね。北神三世を名乗らせるのにちょうどいいかと思いまして。」
「なるほどねえ。まあ、
ローラはあまり興味なさそうに相槌をうったつもりだった。
しかし彼女の師は彼女の目を見据えている。
いやな予感がする。
「そこでローラ。あなたも
あなたは槍使いとして北帝を名乗るに恥じない実力ですが、伸び悩んでいるでしょう。」
「げ。いや、別にあたしはこれ以上強くならなくても……。」
「いや、遠慮せずに。強くて困ることはありませんよ。
それに、槍は怖がられるからやりづらいと言っていたじゃないですか。これを機に得物を変え、心機一転やりましょう。」
ローラはため息をついた。
彼女の師はこれまでも、不死魔族特有のゴリ押しで何かと彼女に言いつけてきた。
極めつけは、
なんにせよ、こいつは言い出すと聞かない。
「わかったよ、しばらく使ってみてどうしようもなかったら、戻すからね。」
「ええ。何だったら棒じゃなくて素手を磨いてもいいですよ。そのアイデアもあったんです。――」
そういって彼女の師の熱弁は一層ヒートアップしていった。
彼女は適当に付き合いつつ、夜も更けたころに別れた。
この師にしてこの弟子ありといったところだろうか。
結局、それ以来50年以上もの間、ローラは武骨な棒を使い続けている。
北帝の槍使いであったころの自分の実力を超える日まで、北王としてそのぼうっきれを振り続けることを心に決めて。
~
俺の寝床は、土魔術で適当に作った。
自分の身長に合わせて造ればいいので、小さくて済む。
イメージは、前世で、オリンピックの選手村で使われたことで話題となったダンボールベッドだ。材質が多少柔らかくても、構造がしっかりしていれば強度に問題はない。
こうして俺の温泉合宿は始まったのだった。
合宿において、俺の仕事は日中の火の番、薪集め、山菜採りである。
基本的に5歳の体の負担になる仕事は割り当てられていない。例えば洗濯は雪兎さんがやってくれている。雪兎さんいわく、温泉のお湯が使えるので洗濯は格段に楽だそうだ。
また、料理も雪兎さんの仕事だ。
保存食糧と俺の採ってきた山菜をうまく組み合わせて、おいしい料理を生み出してくれる。
俺の胃は完全に雪兎さんに掴まれている。離れては生きていけないだろう。
ローラからは剣術の基礎を学んでいる。基本的には素振りだ。
俺が素振りに疲れたら、温泉に入って俺の素振りの良かったところ、悪かったところを指摘してくれる。
温泉から出るとまた素振りだ。
手のひらの剣ダコが少し大きくなってきた。
しかしまだ、闘気らしきものの気配はない。
ローラが言うには、闘気とはすなわち、魔力であるらしい。
魔術を使うときに手に魔力を集中させることができるのであれば、似た要領で闘気も纏えてもおかしくないそうだが……。
ひょっとしてセンスないのか?
まだあきらめるには早すぎるので、ローラに教えてもらえることは試そうと思う。
冒険譚の聞き取りも進んでいる。
ローラの話は相変わらず刺激的で、飽きが来ない。
そうして過ごすうちに寒さは日に日に増し、冬が深まってきた。
小屋の周囲には雪がうず高く積もり始め、街への道も雪に閉ざされた。
父と兄も、数日前を最後に訪問を控えると言って、しばらく来ていない。
これからが合宿本番ともいえる。
日が短くなり活動時間は減ったが、暖炉に火の入った暖かい小屋で楽器を弾いていると、憂鬱な気分にはならない。
前世では休日も一人で部屋にこもって、だらだらと憂鬱な一日を過ごしていたものだ。
それと比べると、今は毎日が充実している。
俺は小屋にリュートを持ってきていた。ネタ帳も充実してきたので、日が沈んでからの暇な時間を使って、リュートの練習と、曲作りを進めている。
しんしんと雪が降り積もる年の瀬の夜に、ローラから聞いた
~
遥かの旅路を行く者の
噂話に華添える
あの山を越え、森を抜け
暁差し射るその谷ぞ
人の云う也
飢えをその目に映しては
只一欠けの石たりと
渡さぬと猛る強欲の竜
その翼元には落陽の
まばゆく照らす財宝の山
遥かの旅路を来たりし者の
目に射て
差す影は重く
顎より零るる魔の吐息
魂吹きとぶその一閃
あゝ翼元にはまた一欠け
降り積もりたり財宝の山
~
「う~ん。歌としちゃあ、悪かないんだけどね。
なんかその詩だとあたし、死んだみたいじゃあないか。
そうじゃなくて、運よく生き残る話にしておくれよ。冒険者に必要なのは、運気の上がる情熱的な歌さ。非情な現実じゃなくってね。」
うーむ一理ある。
確かにその通りだ。
ハッピーエンドを書き足そう。Cパートってやつだ。
遥かの旅路を行く者の
噂話にまた一欠け
織り込まれたる物語
行きて帰りし者の云う
いつか戻らん、翠宝郷
「お、だいぶいいね。
そもそも噂話があるってことは、その噂話を流したやつは生きてなきゃおかしいもんだ。
その一節だけで随分引き締まったじゃないか。」
今度の感想は好意的だ。
悲劇もいいが、もっとロマンのある、楽しい話の方が冒険者受けがいいらしい。
覚えておこう。
~
ある晴れた日のことだった。
いつも通り午前中の剣の修行を終え、温泉でローラの講評を受けた後、俺は薪集めを始めた。
木の根元周りは雪が浅いところもあり、薪を集めやすい。
とはいっても小屋の周りの枝はほとんどとりつくしてしまったので、俺は少し行動範囲を広げることにした。
小屋がある山は東西に延びる山脈の一つの峠を構成している。
その峠から別の峠へと至る稜線に程近い、小高い崖の中腹に温泉小屋はある。
俺は少し足を延ばして、稜線から少し外れた山腹の林に薪を採りに行った。
背負子に薪を積み終わり、そろそろ帰ろうかというころだった。
背後で木々を揺らす歩き音が聞こえたのだ。
ローラだろうか、と思って振り返った俺の眼の先には――
果たして、冬眠し損ねたのだろうか。
痩せて空腹に目をギラつかせる
「ひゅっ――」
息をのむ声が聞こえる。俺の声だ。
俺の思考はすぐに、パニックで真っ白に染め上げられた。
死の象徴のような熊の黒々とした影を前に、息すら付けないありさまだ。
その熊はしかし、確実に俺を捉えて喰うためか、ゆっくりと、慎重に距離を詰めてきている。
真っ白な思考で心に浮かんだのは、前世の5tトラックの運転席だ。
シフトレバー、クラッチペダル。アクセルを踏み込んで……
進め――
カチリ、とギアがはまるように、俺は思考を取り戻した。
俺は止まっていた呼吸を再開する。音が出ないように深呼吸をし、肺に新鮮な空気を満たす。
眼前の魔物を刺激しないようにゆっくりと、薪をのせた背負子をおろす。
目を合わせたまま後ずさる。
足が震えて腰から崩れ落ちそうになるが、堪えた。
魔物が近づいたのであれば、雪兎さんがすでに気づいているはずだ。
雪兎さんはすぐにローラを呼んで、駆け付けてくれるだろう。
俺の仕事は、それまで死なないことだ。
そのためには時間を稼がなければならない。
後ずさりしながら、ゆっくりと手に魔力を籠め、中級魔術の準備をする。
直ぐには打たない。睨みあいが続いている間は、時間稼ぎをする。
焦れたヤツが襲い掛かってきたときに、その攻撃をそらすために魔術をぶつける。
そのための備えだ。
30秒か、1分か。どれぐらいの時間が経っただろうか。
早鐘を打つような心臓の鼓動に、俺の時間の感覚はすでに破壊されていた。
いよいよ間合いが近づいたとき。
ヤツは大きく息を吸い込んだように見えた。
『ヴォオオオオオォォウゥゥ!!!』
耳をつんざく爆音でヤツが吼え声をあげた。
思考は完全に乱され、魔術を放つべき右手は動かない。
四つ足をついて猛然と駆け寄ってくる魔物の姿を、俺は眺めているしかできないでいた。
その時、いくつかのことが起きた。
遠くから、ローラの叫び声が聞こえた。俺の名前を、呼んでいたように思う。
そして、甲高い笛のような音が聞こえる。
『ピイイィィーーーー!!!』
その音は、かつて母さんと雪兎さんの狩りについて行ったときに聞いたことがある。
雪兎さんの威嚇の声らしい。
その音に気を取られたか、ローラの殺気に警戒したのかは分からないが、少し駆け寄る速度が落ちたように見えた。
これは最後のチャンスだ。
俺は渾身の魔力を籠めて風の中級魔術を放った。
しかし、震える右手は大きく狙いを誤った。
魔術が生み出す衝撃波はヤツの肩をかすめ――
ヤツの背のはるか後方の
あっ、と思った時にはすでに遅かった。
次の瞬間に俺の目の前に迫っていたのは、魔物でもなく、助けにきたローラでもなく。
轟音を立てながら無慈悲に木々を飲み込んでいく、白い壁のような雪崩だった。
俺は雪崩の餌食となった。
~
圧迫感と窒息の苦しさに、目が覚める。
何もかもが死に絶えたような、静けさだ。
全身が雪に覆われており、目に映るのは暗闇だけだ。
手足は動かず、顔の周りにはわずかな空間しかないようだ。
頭はズキズキと痛む。
巻き込まれたときに氷塊か、地面の岩石に打たれたのか。
脳震盪特有の吐き気と、脈に合わせたキンキンと鳴る耳鳴りを感じる。
アドレナリンに満たされた全身は、痛みをほとんどシャットアウトしているようだ。
チリチリとひりつくような鈍い痺れだけが、脚の怪我を知らせてくれる。
脚は折れているか、はたまた股関節が外れているのだろう。
この絶望的な状況で、生きるために俺がやらないといけないことは、なんだ。
まず酸素の確保だ。
俺はあと数分も経たない内に、顔の周りの小さな空間の酸素を吸いつくして、窒息するだろう。
次にけがの治療だ。
幸い、即死するような大出血や広がりつつあるような傷はない。脳震盪と脚の怪我の治療は後回しだ。
最後に脱出の手立てだ。
簡単に脱出できるのであれば最優先だが、魔術で雪をどかすのは、時間がかかるだろう。
助けを呼べたとして、助け出されるのにはやはり時間がかかるはずだ。
よし、優先順位が決まった。
やはり、まずは酸素だ。
俺は風魔術を出すために手を動かそうとした。
しかし、俺の体は完全に雪に固定されており、手足は全く動かない。
熊の魔物の咆哮の直撃を受けてから、マヒしたようにも感じる。
魔術は手から出る。
風魔術を使って酸素を補充するためには、手を口元にもっていかなかればならない。
俺は手を動かそうともがく。
もがくうちにも酸素を消費していく。
やはりびくともしない。圧死しなかっただけでも幸運だったかもしれない。
そう思わされるほど、がっちりと雪の重みに挟まれている。
うろたえるな。考えるんだ。
アドレナリンに溢れた俺の血は、俺に諦めることを許してくれない。
答えは、簡単に出た。
口から魔術が出せれば。
それができるならば、手を口元に持ってこれなくとも呼吸ができる。
水を打ったように静かなこの空間の中で、俺は雪崩に巻き込まれる直前に聞いた雪兎さんの威嚇声を思い出した。
彼女の声は、獣族の固有
喉に魔力を籠め、音に魔力をのせて聞いたものに魔術的な影響を及ぼす技らしい。
あれが、できないか。
そうだ。父さんは言っていた。闘気を全身にまとわせるのが剣術の要だ、と。
ローラは言っていた。闘気とは、すなわち魔力である、と。
そうであるならば、魔力は体のどこへでも纏わせられる。
俺の魔術は体のどこからでも、出せるはずだ。
空間の静けさに心を預ける。
まずは魔力を手に集める。風を出す感覚を思い起こす。
少しずつ、魔力を手から肩へ、肩から首へ。
そして首から喉へと流していく。
できた。喉には今にも魔術を紡ごうとあふれ出しそうな魔力が、集まってきた。
手から風を出す感覚を頭に浮かべながら、口から魔力を解き放った。
最初は、形にならない
「ああ、かっは―― はあああぁぁぁ。」
声とも嗚咽ともわからないような自分の声が、空間の静寂を裂く。
何度目かの挑戦で、もうあと何回もチャンスはないというタイミングで。
俺は感じた。
来る、来る。魔術が、風が、風が吹く――
ぶわっ、と目の前の小さな空間を切り裂いて、俺の口の少し前から風の魔術が発現した。
その魔術は顔の周りの空間を少し広げて、そしてその空間を空気で満たした。
俺は恐る恐る、息を吸った。
吸う。吐く。もう少し深く吸う。
その息を長い時間をかけて吐いたときには、俺は魔術に成功したことを知った。
~
文字通り一息つくことができた俺は、火魔術と水魔術を駆使して、雪を溶かし始めた。
手の周りから徐々に雪を溶かし、たっぷり時間を使って、雪の拘束から体を自由にしていく。
そして土魔術で、周りの雪が崩れないように支え、かまくらのような空間を作り出した。
次に治癒魔術を詠唱して、俺は頭と脚の怪我を治療した。
他の魔術は無詠唱で行使できるようになったのだが、治癒魔術はうまくいかない。
少々こっぱずかしい呪文を毎回詠唱するしかないので、あまり使わない。
これで、酸素の確保と、体の治療まで完了した。
あとは脱出の手立てを考えるだけだ。
このまま雪を溶かして脱出したいところだが、魔力の残りがあまりない。
最悪の場合気絶して、そのまま凍死することになる。
ここは慎重にならないといけない。
やはりローラと雪兎さんの助けを呼ぶのがいいだろう。
先ほどの口からの魔術行使で、喉に魔力を集める感覚を習得したことを思い起こす。
大声をあげて体力を消耗したくないので、ここはうまいことやろう。
当座の危機を脱して、俺は精神的に余裕ができていた。
指笛を使おう。
舌先を上あごにくっつけるように丸め、舌の裏に両手の人差し指と中指を押し当てる。
こうしてできた唇と両手の中指との隙間からは、大きな音が出る。
前世で昔、父親に教えてもらった小技だ。
おまけで、先ほどと同じように喉に魔力を集める。
喉からじわりと、吐く息に魔力をにじませる。
吐く息とともに魔力を指笛に送り込む。
『ピイイィィーーーー!!!』
奇しくも、先ほど聞いた雪兎さんの威嚇と似たような音が出た。
そして、その音には、魔力が乗っているのを感じる。
雪兎さんの聴力は尋常ではない。
直ぐに助けに来てくれるだろう。
そうして待つこと十数分。
土魔術で作ったドームの天井を、スコップか何かで削っている音が聞こえる。
雪崩の後の雪の地面を掘り下げてきたのだろう。
俺はゆっくりと魔術を解除し、天井に穴をあけた。
「エメリオ! 無事か!?」
「エメリオさん!」
うおっまぶしっ!
二人分の人影の隙間からは、高く上った日の光が、俺の眼を射た。
「助かった……。」
俺はため息とともに思わずつぶやいた。
そして、ローラが上から延ばす手を握り、その空間から助け出された。
~
「いやあ、やっぱり一番こわいのは、魔物でも竜でもなけりゃ、大自然ってやつだね。」
ローラはすっかり落ち着いた様子で酒をあおっている。
彼女は駆け付けたとき、うまく雪崩を逃れた熊の魔物が襲い掛かってきたので、それを銀
ちなみに銀槌というのは、彼女の二つ名ともなっている彼女の得物、金属製の棍棒のことだ。短めの物干し竿のような見た目をしている。
怪我ひとつない姿はさすがの貫禄である。
俺は助け出された後、もう一度怪我がないことを確認すると、温泉に入った。
雪兎さんは「どれだけ好きなんですか……。」と呆れていたが、温泉は精神的な疲労と肉体的な疲労の両方を癒してくれる。
ゆっくり浸かって落ち着いた後、俺は自分で作ったベッドに横になりながら二人に状況を説明した。
その話を聞いてこぼしたのが、今のローラの言葉だ。
「ところで、エメリオさんのところから助けを呼ぶ
雪兎さんが俺に聞いてきた。
ブレス、というのは雪兎さんが発するあの威嚇声だろうか。
俺はうなずいて、指笛ではなく口笛で、つまりより小さな音で再現してみた。
喉に魔力を籠め、吐く息に魔力をにじませる。
口先からはピィ~っと不思議な響きの音が鳴った。
「わぁ……。その、人族でブレスを出せる人って初めて見ました。さすがエメリオさんです。」
「これがブレス、なんですね。レピュシアさんの出す声と同じなんでしょうか。」
「えっと、詳しいことは分かりません。
同じのような気もするし、違う気も……。
この声のことをわたしたちミルデッドは獣神語で『警叫』って呼んで、ドルディア族の『咆哮』と区別してます。
人間語には対応する言葉がないので、わたしや家族はブレスと呼んでるんです。」
雪兎さんはそういって、
兎獣人は口蓋と歯と、唇をうまくつかって、魔力をのせた音を出しているらしい。
声帯から出す声ではなく、どちらかというと口笛や指笛のほうが近いようだ。
彼らは威嚇や、戦闘の際の連携に
「器用なもんだねえ。
人族が魔術を使って他種族の固有
しかし、あんたの歳で吼魔術を習得っていうのは、まあ聞いたことがないね。」
「吼魔術……を習得って言っていいんですかね。」
「まあ、それはこれから次第かな。
だが、その技は磨くことを勧めるよ。
1対1の戦いならまず不意を突けるし、多数に囲まれても声は全員に効果があるからなおさらだ。
何より、剣と盾で両手がふさがっていても使える。」
そうか、俺は奇しくも全方位攻撃を手に入れたのか。
まさしくケガの功名というやつだ。
ただ、この世界の人間は何かと戦闘や攻撃といったことに結び付けがちだが、この魔術は応用幅が広いぞ。
「レピュシアさん、このブレスで出した声って、どれくらい遠くまで聞こえるんですか?」
「かなり遠いですよ。開けたところならどこまででも。谷底からなら山1つ反対側までは聞こえます。
声自体は聞こえなくても、声に乗せた魔力が耳に届くというか……」
おお、やはり。間違いない。
これは通信に使える。
声という音波は物理的に減衰して届かなくても、魔力はそれより遠くに届くらしい。
すると、魔力の波形に意味をのせて言語にしてもいいし、モールス信号のようなバイナリ形式で通信してもいい。
発信側と受信側の能力次第だが、どちらかというとバイナリ形式が安定しそうか。
研究のしがいがあるな。
~
しばらくしていると、母さんが小屋にやってきた。
母さんは強弓に矢をつがえた臨戦態勢だった。
どうやら熊の魔物に対する雪兎さんの
本当に山ひとつ分ぐらいの距離は、人間の耳にも届くんだな。
いや、母さんの耳もだいぶ人間離れしているが。
状況を説明すると、母さんは安心した様子だった。
そして、毅然とした様子でローラに文句を言った。
「ローラさん。あなたとなら安全だと思ってエメリオを預けているんですからね。
過保護にする必要はないけど、魔物ぐらいはかち合わないようにしてちょうだい。」
「ああ、すまなかった。今後は目を光らせるよ。
あたしはあとふた月ほどして雪が溶けたら発とうと思ってるんだ。
こんなこともあったんだ。もしエメリオが望むなら、先に屋敷に戻ってもいいぞ。」
そういって、ローラは俺に、先に屋敷に帰ることを提案してきた。
しかし、俺は首を振る。
「僕は大丈夫です。
それに、まだローラさんに見てもらっている修行が終わってません。」
そうだ。
美女二人との混浴温泉生活をそう簡単に手放すわけにはいかない。
ついでに闘気についても、今回の臨死体験で魔力操作の足掛かりを得たので、ひょっとしたら今後進歩がみられるかもしれない。
しばらくはローラと修行を続けたいところだ。
「まあ、あなたがそういうのなら止めないわ。
でも、これだけは覚えていてちょうだい。
本来、山というのは恐ろしい場所よ。
あなたが少しばかりの魔術を使えるからといって、安全なわけじゃない。
慢心や好奇心で無理をすると、今日みたいに山は必ずあなたに牙をむきます。
少しの坂道を躓いただけで崖下まで真っ逆さまということもあるのよ。
気を抜いてはダメ。いいわね?」
母さんは俺に、山暮らしの心構えを改めて伝えてくれる。
俺は分かったような気でいたが、実際のところは何もわかっていなかったのだ。
今回は運がよかっただけだ。
魔物がゆっくりとではなく、素早く襲い掛かって来ていたら。
雪崩で致命傷を負っていたら。
気絶から目が覚めるまでにもっと時間がかかっていたら。
口からの魔術行使が間に合わなかったら。
俺はあっさり死んでいた。
「はい。母さん。
無理はしません。気を抜かず、暮らします。」
「いいわ。あと少し、頑張りなさいね。応援してるわ。」
そうやって母さんは俺を抱きしめると、別れを告げ、山を降りて行った。
~
残りのふた月は平穏に、けれど実り多く、過ぎた。
俺は剣を握る手に闘気を発現した。
両手に宿る魔力で、細胞の一つ一つを押し固めるようなイメージだった。
ローラはめちゃくちゃ褒めてくれた。
素振りの型もきれいになってきたらしい。このまま続けよう。
俺は口から魔術を放つ練習もした。
風魔術はやはり相性が良く、口からであっても中級までをすぐに放てるようになった。今後メインで使っていくことになるだろう。
風魔術師エメリオ・ベリリオン。なかなかカッコいいじゃないか。
ただし魔術は口から出る。
頑張れば尻からも出せるか? いや、さすがにやらないが。
水魔術もなかなかいい。敵に唾を吐く要領で口から水魔術を打てば挑発に使える。いや、これは冗談だ。
水をぴゅーっと吐く姿はなかなか滑稽らしく、ローラと雪兎さんからの受けはいい。
水芸に使えるな。
火魔術は最悪だった。目のすぐ前に発生する閃光と熱風で危うく失明するところだった。危険なので火魔術は口から出さないことに決めた。
土魔術もだめだ。砂で口の中がじゃりじゃりになって不愉快極まりない。これも今後は使わないだろう。
そしてもう一つ、これが俺にとって一番大事だ。
俺は最高の技能を手に入れた。
歌だ。
魔力をのせた歌は、聞くものの感情を強く揺さぶるらしい。
試しに前世で有名だった童謡を人間語に翻訳して歌ってみたら、ローラも雪兎さんもいたく感動していた。
雪兎さんに至ってはすこし涙を流していた。
これは強力だ。
しかし強力すぎる。歌詞や発声の上手い下手を無視して、聴者を感動
俺はこの技能を『呪歌』と名付け、しばらくあたためることにした。
まずは作詞と発声の技術を磨く。その裏で呪歌も練習しておき、ここ一番の大舞台で使おう。
俺はそう決意した。
~
そうして冬が明け、春になった。
ローラの旅立ちの日の朝、家族総出でローラを見送りに来た。
ローラは以前と同じように放浪の旅に戻るらしい。
まずはラノア王国に立ち寄り、赤竜の上顎から西回りでアスラ王国を目指す予定だという。
行きつく先で迷宮にもぐったり、戦争に参加したりするそうだ。
「アイザック、世話になった。
レピュシアとエメリオも長い期間ありがとう。
おかげで最高の湯治になったよ。
ウォルターもよく励んだな。」
ローラは俺たち一人ひとりの眼を見て、労ってくれた。
俺たちは思い思いに感謝の言葉を返した。
ローラはうなずくと、続けた。
「お前たちの一族は、勤勉で、才に溢れている。
才に驕らない謙虚さも備えてる。
そのまま修行を続ければ、北神剣士として、領主として、大成することを請け合うよ。
また近くに来たら立ち寄らせてもらうからね。その時まで元気でな。」
そういうと踵をかえし、代名詞の銀槌を杖にして、歩き始めた。
ローラとは遠くない未来、また再会します。
次話からはしばらく別の登場人物との話です。
原作でシャンドル(棍棒アレックス)が北帝を名乗っているので、棍棒だと強さランクが一つ下がるという設定。シャンドルっていつから棍棒縛りしてるんだろうか、ご存じの方いらっしゃったら教えてください。