世界の最果てに人はほとんど残っていなかった。
エーナクライス部隊が引き上げて間もなく、セレクマ王国はテリーア地方について新しい施策を発表した。
テリーアは影を管理するギルドと一部施設を除いて、領土を破棄する。
この発表はしごく当然のものではあって、テリーアの住民はみな予想していた。
テリーアの住民はエーナクライス部隊の侵攻の以前からレパーラ都に移っていた。とどまるのはギルド関係者と強いテリーアの愛国者ぐらいのものだった。
しかし、テリーアに愛国者などほとんどいなかった。影に呑み込まれなくなる地を愛しても未来に進むことはできない。
半端な愛国者はみなレパーラに移ると、二度とテリーアのことを思い出すことはなくなった。
エーナクライス部隊が引き上げると、ギルドから派遣されていた測量魔道士もセレクマの中央都市に引き上げて、テリーアはすでにギルドがあるだけの地と化した。
寂れた景観には悲しい音を立てて風が吹き抜けた。
晴れの空のもとでも、その地だけは灰色だった。
少女はテリーアの廃墟を歩いていた。
少女の隣には小さなエレメンタルビーストのネズミが音も立てず歩いていた。少女が立ち止まると同じようにネズミも足を止めた。
少女の前方から魔道士の団体4人が歩いて来ていた。
ギルドに所属する魔道士と思われた。影の観測をするためにやってきたのだろう。
魔道士らは少女の隣を抜けて行った。まるで少女の姿に気づいていないかのようだった。
少女は魔道士が抜けていくのを目で追いかけていたが、魔道士が少女に気づくことはなかった。
「パル、もう戻りましょうか」
「……」
得れ面tなるビーストのネズミ・パルは少女の顔を見上げた。
「とても寂しい気持ちになってしまうばかりです。それに私がこの先に向かうと、また世界が消えてなくなってしまうのでしょうし」
「……」
「そうすると、みんなまた逃げ出してしまいます。追いかけても決して届かないのです」
少女はうつむいて、自分の前に伸びた自分の影を見つめた。少女の影はより色濃く地面に張り付いているように見えた。その陰には生命の鼓動を感じた。
「パル、あなたはどうしますか?」
「……」
少女は無言のパルを抱え上げた。
「あなたは光に出会うことができるのです。光の先にはとても素敵な恋が待っています」
「……」
パルはよくわからなかったのか首を傾げた。
「恋……」
少女はもう一度つぶやいた。少女が最も欲した概念だったのかもしれない。
「知っていますか、恋が落とす影はこの世界で最も儚く切ないものだそうです。お母様がおっしゃっていました。それが増えると、世界は消えてなくなってしまうのだと言います」
「……?」
パルはさっぱり理解していなかった。
「知らないほうがいいものなのかもしれませんね」
少女は元気なく微笑むと、パルを地面に下ろした。
「あのお方は私のことを見つめていました。とてもきれいな目でした。彼はいまどこにいるのでしょうか?」
少女は遠い目でテリーアの先の世界に目を向けた。
そこは自分が歩むことのできない場所であり、自分が欲したものがある場所でもあった。
少女は自分の思いを託すようにパルに言った。
「パル、行きなさい。あなたにとってきっとそれが一番いいことに違いありません」
少女がそう言うと、パルは二歩、三歩と歩み、少女のほうを振り返った。少女は微笑みを見せた。
パルはそれを見ると、少女に背中を向けてまたゆっくり歩きだした。
ある程度遠ざかると、パルはまた少女のほうを振り返った。手を振る少女の姿が見え、パルはまた正面を向いた。
パルは走り出し、ついには少女の視界の外へと消えて行った。
◇◇◇
最果ての地テリーア。
魔道士の影研究者たちはたびたびその最果てを見に来た。
テリーアの住宅街を少し離れた高台は、影の地を見ることができる場所として知られている。
知名度はあれど、その地に人はいなかった。
「よっこらせ」
魔道士のイワンジャは疲れた様子で高台に腰を下ろした。老体ゆえに、他の2人の若手に比べて疲労を多く感じていた。
「イワンジャさん、お飲み物を用意しましょうか」
「構うな。それよりもまずは測量じゃ」
「了解です」
女性は飲み物ではなく測量のための魔動機を取り出した。
それは球形をしていて、それを設置すると、何かに反応するようにグルグルと回り出した。
女性は球に触れないように、それでいて優しくなでるように球を操った。
この魔動機は測量のために開発されたものである。
離れたところからでも、観測物がどれぐらい動いているかを詳細に把握することはできる。
原理は、例えばテリーアの最果ての地にある影は他の場所に比べて強く漆黒である。その漆黒がどれぐらい濃いかを魔力的に記録する。
例えば、ある漆黒点に「R」という値が与えられると、それ¥の値が単位時間あたりにどれぐらい変化したかで影の移動速度を割り出す。
いま女性の目の前には漆黒が広がっている。
大地に大きな穴が空いたように地平の先まで黒くなっている。ちょうど女性が少し見上げる高さまで漆黒に包まれており、相対的にそれより上に見える空の光が眩しく見えた。
壮大な景観だった。
畏怖を感じさせるようでもあり、美しさを感じさせるようでもあった。
「昨日よりも早く近づいてきています」
女性は観測結果を発表した。
一休み中だったイワンジャが「ウーム」と声を上げた。
「ワシも昨日よりずっと強く漆黒を感じておるところじゃ。このままではまずいな」
イワンジャは休んでいるわけにはいかないと立ち上がった。
「イワンジャさん、これはどういうことを意味しているのでしょうか? テリーアの魂に何か変化が起きたのでしょうか」
「テリーアの魂を持つ者を探さねば……そして」
イワンジャは影に背中を向けて、寂れたテリーアの町を見つめた。
「復興せねばならんだろうな、テリーアの地を。活気のある街並みを。それが影を止めることにつながるかもしれません」
イワンジャは難しそうな顔をした。
テリーアの復興。それは無理難題だった。
影が覆いつくそうとする地にどうして人が集まるだろうか。
このような地にやってくる者がいるとすれば破滅を望むような者たちだけだろう。
もしかしたら、そうした破滅を望む者たちによって影は動いているのかもしれない。
人がどうして破滅を望むのか、それは真に破滅を望みたい境地に立った当事者にしかわからないことでもあった。
◇◇◇
イワンジャらを残し、女性の魔道士はテリーアの荒廃した居住区にやってきていた。
戦火があったとはいえ、これほど寂れた地は世界広しと言えども、この地ぐらいしかないような気がした。
「テリーアの魂を持つ者か……」
女性は影の研究者として、テリーアの魂を追い求めて来た。それがどこにあるのかはわからない。
影の中に隠されているのか、この近くに住んでいるのか。
追い求めても、手掛かりはなかった。
そんな途方に暮れた女性のもとにエレメンタルビーストが小走りで近づいてきた。
「あら……なんて珍しいエレメンタルビーストなのでしょう」
女性は近づいて来るエレメンタルビーストを迎え入れるようにその場に腰を下ろした。
特に危険は感じなかった。
やってきたエレメンタルビーストは女性の手に飛び込んできた。
「まあ、とてもかわいい子ですね。あなた、名前はなんというのですか?」
「クルクル」
「クルクルさんですか。初めまして、私はアルーレです」
アルーレはそう名乗って、エレメンタルビーストを可愛がった。
よく人に懐いているので、どこかの魔道士に飼われていたものと思われた。
「この先にあなたのご主人様がいるのですか?」
尋ねると、エレメンタルビーストは首を横に振った。
「違うのですか? それともひょっとして……」
アルーレは目の前の廃墟が並ぶ景観を見つめた。
この地はまだ影に包まれていないが、アルーレの先に広がる世界は半分ぐらい影に包まれてしまっているかのように暗く感じた。
アルーレはこの先にテリーアの魂があるような気がしたが、その先に足を踏み入れてはならないような気がしたので、足を踏み出すことをやめた。