娼館オズマ   作:とりなんこつ

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第十一話 元冒険者が再び立ち向かう話

「…レン! しっかりして、レン!」

 

 声が聞こえる。

 ゆっくりと上げた俺の顔はきっと青ざていたはずだ。

 

 目の焦点が合うと、心配そうにこちらを覗き込んでくるクラーラの顔がある。

 その顔が小さな痩せぎすなものではないことに、俺は現実へと立ち返ったことを知った。

 年齢相応の貫禄と美しさを兼ね備えた貴顕の面立ちは、間違いなくクラウディア殿下だ。

 ただ、その黄金の瞳の色だけは変わっていない。

 

「…っと、済まねえ。ちょいとばっかり昔のことを思い出しちまったぜ」

 

 メッツァーが無言で酒を満たしたグラスを差し出してきた。

 受け取って、気付け代わりに一気に呷る。

 

 正直に打ち明ければ、20年以上前のあの始末を、俺は詳しくは知らない。

 俺が他に撃ち漏らした蝗は、メッツァーがどういう伝手を使ってか引っ張ってきた皇国の軍隊に蹴散らされたようだ。

 

 ついで嬢ちゃんの予言の力は本物だと秘密裡に認められ、皇族の末席へと連ねられたようだ。そんで送り届けたメッツァーは、その足で彼女の近侍に士分として取り立てられたらしい。

 

 そして肝腎の俺はというと、辺境の街で傷を癒すのもそこそこに、自棄酒を呷っていたらしい。

 

 ()()()()()()で申し訳ないが、その時の俺の記憶は曖昧なのだからしょうがない。

 

 気が付いたら俺は深い森の奥にいた。

 傍らにいる少女はミトランシェで、一時(いっとき)深い仲になった妖精族の娘。

 傷心の俺が荒れている、とどこかで聞きつけた彼女が、直々に街まで迎えてに来てくれたらしい。

 

 そんな聖地のような静謐の深緑の中で、俺は彼女の股座(またぐら)に顔を埋めるようにして、ぐずぐずと時を過ごす。

 多少なりとも俺が()()()となったのは、一年以上も過ぎたころだったろうか。

 

 どうにか人前にも出られるようになった俺は、幾つかの街を流離った。

 ただし、元の冒険者稼業や、切った張ったの生活からは完全に足を洗っている。

 大陸の方々を巡り、流れ流れて結局は大聖皇国のお膝元のヒエロの色街へとやってきたとき。

 とある出来事に巻き込まれた俺は、結果として一等地の権利書を手に入れ、たまさか温泉も掘り出したことにより娼館を営むことになったのは、また別の話だ。

 

 空のグラスを置き、俺は決して短くない回想にケリをつける。

 

「それでクラーラよ。今回の予言には、どう対処するつもりだ?」

 

「…今は、何も」

 

 金色の瞳が伏せられた。

 その居た堪れない様子に、メッツァーが口を挟む。

 

「殿下の予言の力は、皇国の秘中の秘だ。それを根拠に軍を動かすのは…な」

 

「だろうな」

 

 俺はあっさりと首肯する。

 ましてや、今は皇国はグルレルフに対峙中だ。

 ここで更に軍を動かそうものなら、余計な詮索を受けるのは必至。

 

 仮に軍を動員したとして、この時点で蝗害が発生していないのならば、西のドライゼン王国も黙っていまい。

 大陸列強の一つに数えられるドライゼンは、西の雄といえば聞こえはいいが、強力で強大な覇権国家である。

 魔王戦役と関係なく、隙あらば周辺諸国を併呑していく貪欲さは、大聖皇国と言えど下手に動けば藪蛇だ。

 一応、グルレルフとは同盟関係を結んでいるってことらしいしな。

 

「むしろドライゼンの方では蝗については把握してねえのかよ?」

 

 前回の事件から立ち直った俺がずっと抱えていた疑問だ。

 発生した場所はほとんどドライゼンの領内と言っていい。

 にも関わらず、連中がアクションを起こした節が見られない。

 むしろ、なんで蝗害は西から東へ、ドライゼンから皇国へと向かったんだ? 

 

「それは、季節がらの風向きが関係しているとか言われたけれど…」

 

 クラーラの返答は歯切れが悪い。

 未曾有の災害ということで、様々な研究がなされている。

 俺が守れなかった村が一番の被害を受けたことには変わりないが、方々へも被害が及んだ結果、巷間でも様々な噂や憶測が流れていた。

 大半は、自然に発生した災害ってことに落ち着いたらしいが、その影で実しやかに囁かれた噂がある。

 

 全てはドライゼンの仕業じゃねえか、って陰謀論だ。あの件で、ドライゼンの領内にはほとんど被害は出なかったらしいしな。

 だからといって、あんな化け物染みた蝗の群れをぽっと出す魔法なんて存在しない。あくまで噂の範囲を出ない話で、かれこれ20年も経て再び起きるとあれば、やはり自然災害に類するものだと思う。かの魔王の出現のように。

 

「なら、ドライゼンの方に警告して、対処してもらうってのは?」

 

「それも秘密裡に検討されたが、陛下が難色を示していてな」

 

 苦笑するメッツァーに、俺は間抜けな質問をしたことに気づく。

 この時点にドライゼン側に忠告するには、根拠としてクラーラの予言の力を開示しなきゃならない。

 今までクラーラの力を秘密にしてきた以上、それは大聖皇国にとってのネックになる。

 魔王戦役や、先だっての大陸全土の飢饉の危機も予言できなかったのか、ってな。

 当のクラーラにとっては、そこまで便利な能力ではなく、断片的な視覚情報のせいか詳細の把握には時間を要し、対処も後手後手に回らざるを得ないらしい。

 

 詰まるところ、今の段階で皇国は動くに動けない。

 更に言ってしまえば、蝗害が発生するという予言だって、今回も的中するとは限らないわけで。

 

 にも拘わらず、クラウディア殿下と宮廷騎士メッツァーは、前線ともいえるこの駐屯地までやってきた。

 ここで久々に顔を突き合わせた三人は、それぞれがクラーラの力に確信を持っている。

 ってことは、自ずと答えは導かれるってもんだ。

 なんで二人して秘密裡に俺を訊ねてきたのか?

 

「…レン」

 

 クラーラが真っすぐ俺を見てくる。

 

「もう一度、私を信じて貰えますか?」

 

 皇族にあるまじき縋りつくような眼差しは、あの時のクラーラ嬢ちゃんのものと酷似していた。

 だから、俺は苦笑で応じてやったさ。

 

「前も嬢ちゃんのいう事は当たったんだ。だったら今回も外れるわきゃねえだろうよ」

 

 気づけば、ポンと彼女の頭に手を置いている俺。

 我に返れば不敬どころの騒ぎじゃない行動だ。

 慌てて引っ込めようとした手を掴まれた。

 純白のイブニンググローブに包まれた華奢な手で俺の手を掴み、額に当てるようにするクラーラがいる。

 

「あなたに、感謝を―――」

 

「よ、よせやい」

 

 慌てて手を引く俺。

 見れば、メッツァーも複雑そうな表情でこちらを見ていた。

 なんとも愁嘆場染みた空気を嫌い、俺は明るく声を張り上げる。

 

「むしろ、おまえたちの提案は、渡りに舟ってやつだぜ?」

 

 皇国の中枢と関わりの薄い俺ならば、身軽に動くことが出来る。

 娼館の親仁って立場もあれば、斥候と疑われる可能性も低いだろう。

 なにより俺自身も、あの跡地がどうなったか、もう一度見てみたい。

 俺の無謀の果てに、予言を覆すことが出来なかった村。

 今ならば、この目でしっかりと見定められるかも知れない。

 

 そしてもし。

 再びあの災厄と対峙する機会を得たらその時は―――。

 

 

「ならば、いつ出立できる?」

 

「すぐにでも」

 

メッツァーの問い掛けに躊躇う理由はない。

 

「前も、クラーラが()()すぐだったからな。それほど時間の猶予はないはずだ」

 

 そう答えると頷くメッツァー。

 

「では、馬を見繕ってきてやろう」

 

 言いおいて、さっさと出ていってしまう。

 建物には、クラーラと俺だけが残された。

 

 …おいおい、なんだよ、この状況?

 

「レン…」

 

 つと目前にクラーラの姿がある。

 俺の鼻先を掠めるのは、淡く、それでいて奥行きのある香りだ。

 店の娘たちが漂わせているそれとは違う美香は、まとうものを選ぶ高級かつ高貴な品だろう。

 

「なんだよ、ちいとばっかり距離が近いぜ?」

 

 敢えて伝法な口調で俺は告げると、彼女は微笑む。

 

「昔は、私を抱いて馬に乗っていたじゃない」

 

「そんな20年以上前の話をだな…」

 

「あの頃と、あなたはまるで変っていないわ」

 

 熱っぽい視線を受けて、俺はややたじろぐ。

 

「んなわきゃあるか。俺も確実に四十路は過ぎているんだぜ?」

 

 笑い飛ばす風に言ってみたが、気のせいかクラーラとの距離が縮まっているような気がする。

 いや、気のせいじゃない。もはや彼女の身体は、俺の胸に触れる寸前だ。

 見上げてくる襟元から覗く珠のような肌。偉く繊細なレースの眩しさよ。

 俺の粗末な形とは、まさに月とすっぽんてやつだろう。

 

 それはそのまま今の俺たちの立場と言い換えることも出来るだろうに、クラーラは俺を臆さず見上げてくる。

 なぜかその無言の視線に耐えかねた俺は、そっぽを向いて吐き捨てていた。

 

「冗談はよせよ。俺にゃあ、一応女房も子供もいるんだぜ…?」

 

「知っている」

 

 言下にクラーラは答える。

 

「ウェーレイカ・クラフトリリー・ベルク・ミトランシェ。かつて大陸に存在した王国、伝説の多種族国家『ウェーレイカ』の末裔にして、紛れもない王族の直系よ、彼女は」

 

「………」

 

 俺が沈黙したのは、素直に驚いたからだ。

 もっともその驚きは、俺も知らないミトランシェの素性を明らかにされたことに拠る。

 つーか、あいつ、族長ってだけでなく、ガチのお姫様だったってことか…?

 

「ヒエロの街で、娘さんが同じ仕事をしていることも知っているわ」

 

「…なんでそんなことまで」

 

「調べさせたの」

 

 皇国にも、極秘かつ凄腕の諜報組織が存在すると聞く。

 彼らに命じれば、俺の周辺情報を丸裸にすることは雑作もないことかも知れない。

 むしろ気になるのは、こんなしがない娼館の親仁に収まった俺のことを調べてどうする気だったのかってことだ。

 

「おい…」

 

「ねえ? メッツァーは来てくれたのに、なんでレンは来てくれなかったの?」

 

 偉く感情のこもった声でクラーラは言う。

 その声音に、彼女は20年前の事件の直後のことを語っていることに気づく。

 

「…仕方ねえだろう。俺は傷ついていたんだからよ」

 

「待っていたのに」

 

 クラーラの声に、更に感情が籠る。

 

「あなたも来てくれると思ったから、あたしは皇族の一員になることを決めたのに」

 

「…だからそれは、俺の替わりにメッツァーの野郎が…」

 

「あなたがいてくれなきゃ、あたしは皇族なんかには…!」

 

 胸倉を掴まれる。

 顔を伏せ、クラーラの肩が震えている。

 見下ろす俺の目に映るのは、まったく20年前のクラーラ嬢ちゃんの姿そのままだ。

 

 あの時と同じく、抱きしめるべきなのだろうか。

 だが、今はあの時とは違う。

 それなりに長い年月を経て至ったお互いの立場を思えば、軽薄な行動は許されない。

 そんな意識と裏腹に、俺の手がクラーラの肩に触れる寸前―――。

 

「馬を連れてきたぞ、レンタロー」

 

 外からのメッツァーの声に、俺を突き飛ばすようにしてクラーラは身体を離す。

 メッツァーが中へ入ってきた頃には、もうそこにクラーラ嬢ちゃんの面影は微塵も存在しなかった。

 ヴェールで表情を隠す殿下に一礼したあと。

 

「…どうした?」

 

 きょとんとした顔でこちらを見てくるメッツァーに、俺はシレっと答える。

 

「いや、なんでもねえよ」

 

 まったく、いつもいつも間が悪い野郎だ。

 だが、今回ばかりは助かったことも否定できないがな。

 

 

 

 

 

 

 クラーラ、いやさクラウディア殿下を人目に晒すわけにはいかない。

 彼女を置いて、俺はメッツァーと二人で建物を出る。

 

「ここからなら、馬を飛ばせば二日と掛からん。念のため、食料などは五日分積んでおいた」

 

 メッツァーの視線の先には、杭に手綱を繋がれた馬が一頭。

 青みがかった馬体の色艶は良く、中々の駿馬のようだ。

 

「助かるぜ」

 

 礼を言う俺の肩を引き寄せ、メッツァーは言う。

 

「…オレも殿下も、以前みたいなおまえの活躍なぞ期待していない。あくまでおまえの役目は斥候で、その力はもしもの時の保険と思え」

 

「…分かっているさ」

 

「近づこうなどと考えるな。遠目に見て危ないと思ったら全力で引き返せ。

あとはオレたち軍がなんとかする」

 

「分かった分かった。つーか、そこまで念を押さんでもいいだろう? おまえも―――」

 

 ――疑り深くなったな。

 言い終えぬうちに、俺はみぞおちに一撃を喰らい悶絶する。

 衝撃と痛みにげーげーと吐いた。

 

 ちくしょう、朝飯を食べる前で良かったぜ。

 

 涙で滲む視界を上げてメッツァーを睨みつければ、年来の悪友は見たこともない神妙な目つきで俺を見返している。

 逞しい二本の腕が伸びてきて、俺の胸倉を掴んで無理やり立ち上がらせた。

 

「この機会だから言わせてもらおう。

 レンタロー、てめえ、なんでも一人で出来ると勘違いしてねえか?」

 

 全く若いころと同じ口調でメッツァー。

 茶化し返そうにも、その目は真剣すぎる。

 

「俺ァ別に…」

 

「オレの目を見ろ、レンタロー」

 

 鋭い眼光が俺を射る。胸倉を掴む手はブルブルと震えていた。

 

「違うってんなら、なんであの時、おまえは一人で立ち向かったんだ…ッ!?」

 

「………そいつは」

 

「どころか、始末が付いたと思ったら、勝手に尻捲ってへたりやがって…!」

 

「………」

 

「一言も相談なしに、勝手に始めて勝手にやめるって、てめえは何様のつもりだったんだよ!!」

 

 メッツァーの一字一句が的確に俺の中を(えぐ)る。

 

 俺は、自分で思っていたより大した人間じゃあない。

 そのことを思い知らされた俺は、指摘された通り尻に帆を立てて逃げ出した負け犬野郎だ。

 

 翻って、20年以上の時を経て、俺は何が変わったのだろう?

 それを今、ゆっくりと伝える時間はない。まあ、単純に口にするのはちいとばっかり恥ずかしいしな。

 だから、俺はこう答える。

 

「…すまん。今さらだが本当にすまん。俺が全面的に悪かったよ、相棒」

 

「……」

 

 一転、今度は鳩が豆鉄砲を喰らったみたいな顔つきになるメッツァー。

 

「…どうした?」

 

「いや、おまえがそんな殊勝なことを言うのは初めて聞いたからな」

 

「そういうおめえこそ、そんなマジな面、俺ァ初めてみたわ」

 

 百匹はいようかというゴブリンの巣のど真ん中に落っこちても、ヘラヘラとした態度を崩さない肝の太い野郎だ、こいつは。

 

 互いにどちらともなくニヤリと笑う。

 

「ともあれ、今の俺ァ、ただの娼館の親仁だ。そうそう無茶な真似はしねえよ」

 

「…なら、いいんだがな」

 

 たっぷりと疑い深げな眼差しを向けてくるメッツァーは、かつて死ぬほど泥酔した時に、一度だけぽろりと漏らしたことがある。

 

 ―――オレは、ただの田舎村育ちの小僧だ。だが、いずれは士分として取り立てられて、立派な城に勤めてやるんだ―――。

 

 果たして、メッツァーの夢は叶ったはずだ。

 晴れて皇女殿下の側近たる王宮騎士へと就任している。

 

 だが、それでめでたしめでたしなんてのは御伽噺の中だけ。

 夢を叶えたあとにも現実は続く。

 いかな精鋭の真紅のガーヴを纏うとも、そしたらそしたで苦労が付きまとうのが世の常だ。

 娼館の主となった俺とて、それなりの責任が伴う。

 宮仕えなど、さだめし苦労の連続だろう。

 

 (たもと)を分かった俺たちはそれぞれの人生を生き、再び巡り合った。

 それが運命だなんてことは、口が裂けても言いたくはない。

 だが、今この時だけは、20年もの時間を超えて俺たちは昔の感情を共有していたはずだ。無茶で無鉄砲で無責任で、なにより楽しかった冒険者生活の頃の。

 

 過ぎ去った時は決して巻き戻らない。深い感慨に浸り切るには、俺たちは抱えるものが増え、歳を取り過ぎた。

 けれどよ、胸の内を心の中でそっと呟くくらい、許されるだろう?

 

――メッツァーよ。異世界(こっちのせかい)で出来た最高の友人だぜ、おまえは。

 

 馬の前まで歩いていったメッツァーは、積んであった荷袋から酒瓶を取り出す。

 俺の記憶が確かなら、皇国御用達のラベルが張り付いた高級品だ。確か一本で金貨数枚はくだらないはず。

 いきなりそれの封を切ると、自分の懐から取り出した革袋にドボドボと。

 半分ほど移したあと、俺に向かって革袋を放り、メッツァー自身は酒瓶を掲げて見せる。

 

「残りは、おまえが無事戻ってきたときの祝杯用だ」

 

 俺は苦笑で応じる。

 

「ぬかせ。勝手に全部飲んじまうんじゃねえぞ?」

 

「水で薄められるのが嫌なら、さっさ済ませて戻ってくるんだな」

 

「…クラーラのことを、頼んだぜ」

 

「言われるまでもない。それがオレの務めだ」

 

 どちらともなしに、拳を突き出して打ち付け合う。

 若い頃からの誓いの合図。

 

 それ以上、今はもう交わす言葉はない。

 馬の手綱を解き、俺は歩き出す。

 

 

 

 

 兵舎の合間を俺が馬を引いて歩いていても、誰も不審に思うものはいない。

 ここに来て一か月も経てば、娼婦たちの取りまとめ役として、俺の顔も知れ渡っている。

 行き交う兵士たちに愛想よく挨拶を交わして歩いて行けば、前からガヤガヤと来る一団が。

 

「あ、支配人さん」

 

 先頭を歩いていたのはクエスティンだ。

 背後に俺の店の娘たちを引きつれた彼女は、小走りで俺のもとまで来る。

 

「馬なんか引いて、どこか行くの?」

 

「ああ。ちょいと近場の街まで用足しだ。それに、ここ一月、まともに休んでなかったしな」

 

「ふ~ん」

 

 鼻を鳴らすクエスティンだったが、特に不審に思った風でもないようだ。

 娼婦たちには交代で休日を設けてはいたが、俺が全然休んでなかったのは本当だしな。

 

「用足しって、本当は羽を伸ばしに行くんじゃないの? なんなら、あたしが相手をしてあげても…」

 

 着ている服の肩ひもをずらし、実に色っぽい流し目をしてくるクエスティン。

 

「バカ抜かせ。娘に欲情する親がいるか」

 

 苦笑で応じつつ、他の娘たちを見やれば、それぞれが兵士の腕を抱えて歩いたり、愛想を振りまいたりしている。いずれも昨晩のお相手だろう。

 クエスティンたちがここまでぞろぞろとやってきた理由は、これから朝風呂を使うため。

 そんで風呂は兵舎を抜けた先にある以上、兵舎へ戻る兵隊さんたちとご一緒するのはアフターサービスってやつだ。

 いずれもご機嫌で蕩け切った顔をしている兵士たちは、今日はそのまま休日だろう。朝風呂を使えないのは気の毒だが、女の匂いを纏ったまま眠るのも乙なもんだぜ。

 

 しかし、この時期はまだ河原に作った風呂を使っても大丈夫だろうが、雪が降ってきたら行き来だけでも辛くなる。

 露天の風呂に屋根をつけるだけじゃなく、脱衣場に相当する小屋とかもしっかり作って湯冷めしないような備えも考えないとな。

 

「風呂使ったら、風邪引かないように温かくして寝ろよ?」

 

 言いおいて、クエスティンたちと別れる。

 

「支配人さんも気を付けてね」

 

 その声に送られながら、俺が向かったのは娼館の近くに設けられた関係者の詰め所だ。

折よく居たマイネールに、ちょっと所用で一週間くらい不在になるからと伝え、その間の留守を頼む。

 もし、留守の期間が長引くようなことがあれば―――。

 言葉に含みを持たせた物言いに、マイネールは眉一つ動かさず、詮索の素振りなど欠片も見せない。いつものにこやかな表情で頷いてくれる。

 

「承りました。道中、くれぐれもお気をつけ下さい」

 

「頼むぜ」

 

 握手を交わし、俺は馬を引き街を出る。

 荷袋に積んであった外套を纏い、さっそく馬へと跨った。

 朝飯に来る途中で買ったパンをくわえ、俺は手綱を振るう。

 

 予想以上の素晴らしい足で、馬は街道の土を跳ね上げる。

 考えてみりゃあ徹夜明けの上に空きっ腹に酒も飲んでいたな。

 眠気が来る前に、行けるとこまで行っちまうとするか。

 

 

 

 馬の動く気配で目が覚める。

 ちょうど焚火も消えかかっていたが、辺りはまだ薄暗く、夜は明けきっていなかった。

 だが、出歩けない暗さじゃないし、出発するには差し支えないだろう。

 

 ゆっくりと上体を起こす。案の上、腰あたりに痛みが走った。

 単独での野宿なんて久しぶりだからなあ。

 

 駐屯地を発ったのはまだ朝の時分だったはずだ。

 そこから飛ばしに飛ばして、夕方には街道添いに寝床を拵えた。

 疲れていたのだろう。寝酒とばかりにメッツァーから受け取った餞別の酒を呑んだあと、記憶が飛んでいる。

 目を覚ましてそれなりに体力は回復していたが、やっぱり若い頃のようにゃ行かねえか。

 

「どっこいせっと」

 

 焚火に砂をかけ、俺は馬に飛び乗る。

 そのまま夜明け前の街道を走らせていれば、なんとも懐かしい感じがしてくるのだから不思議なものだ。

 20年前と比して、明らかに景観は変わっているように思えるが、朧げに記憶を刺激するものがある。

 

 岐路に差し掛かり、積み荷の中にあった地図を広げた。

 ここから東に行けば街があり、西へいけば因縁深いあの村だ。

 もちろん、俺が真っ先に目指す場所は決まっている。

 早朝に発ったのが功を奏したのか、村に到着したのはまだ昼前。

 だが、目の当たりにした光景は、俺の心を錆びつかせるに十分すぎる。

 

 かつての倒壊した建物はそのままに、村全体が廃れていた。

 もう誰も済まなくなって久しい道を歩き、例の広場に辿り着く。

 中央にある井戸が流石に封鎖されているところを見ると、それなりの手続きを経て廃村になったことが見て取れる。

 未曾有の蝗害の再発生を恐れた村人たちが自発的に出ていったのか、それとも御国が差配したのか、それは分からないけれどな。

 

 だが、20年前までには確かに営まれていたのだ。

 平凡極まりない、平和な日常が。

 

 もはや荒れ放題の広場の中心。

 俺はそこに、駐屯地で買い付けてきた花を置く。うちの娘たちに負けないくらいの別嬪の花だ。

 

「…せめて綺麗な花だけでも、あの世から見てくれよな」

 

 そっと両手を合わせて黙祷し、俺は広場を突っ切って廃村を出た。

 あとはここから西へひた走れば、俺が大立ち回りをやらかした平原が見えてくるはず。

 

 丘陵を越えた時の感慨が蘇る。あの時と違って腕の中に少女はいない。

 20年の月日を経て同じ場所に立ったのは、徒手空拳の親仁が一人きり。

 

 果たして、俺の目前に広がったのは、拍子抜けするくらい平穏な光景だ。

 しかし、街道こそきちんと再整備されていたが、景観はかなり寂しい。

 道端にはチョロチョロと草木が生えているのなんか返って物悲しいもんだ。

  

 20年前の惨状の爪痕は、未だ色濃く染み付いているらしい。

 なにせ大量の蝗の死骸を処分するだけでも一苦労だったというし、あんなことがあった縁起の悪い跡地に好んで住み着きたいヤツなんていないか。

 

 周囲を見回しながら、ゆっくりと馬を走らせる。

 平原の先には、またなだらかな平原が続く。

 

 だが、草木がしっかりと生い茂るここいらは、既に皇国の領内じゃない。

 だからといってドライゼン領でもないここは、両国の国境の狭間に存在するどの国の支配も及ばない領域だ。国から手配された犯罪者たちが逃げ込み、山賊や追剥など徒党を組んでいるのはもちろん、双方の国どころか第三国まで間者を派遣し、それぞれが秘密裡にお互いの動向を監視したり、政治工作に勤しんでいると聞く。

 まあ緩衝地帯と言えば聞こえはいいが、要は何でもアリの無法地帯ってことだろう。

 どちらにしろ物騒なだけに、冒険者の護衛依頼の需要が維持されているのは皮肉だが、なんにせよさっさと抜けちまうのが吉だ。

 もっとも俺はドライゼン領に用はないがな。

 

 ってなわけで、ここから先はドライゼン領ってあたりまで来て引き返すことにする。

 街道の両脇に広がる草原に、蝗のイの字も見当たらない。

 

「…こりゃ、クラーラの予言ってヤツが外れたのかね?」

 

 まあ、当たるも八卦当たらぬも八卦というし、基本的に凶事が的中しないのは良いことだろう。

 ホッとして、どこか残念に思う気持ちが―――って、なに言っているんだ、俺は。

 

 しかし、前の予言と同じだからといって、全てが準ずるわけもなかろう。

 となれば、何かしらの時差が生じている可能性も否めない。

 もしくは出現する場所がズレている可能性もあるな。

 

 空にはまだ太陽が高い。

 ちょいと早いが、今日も野営が出来そうな場所を探すか。

 泊りで二、三日様子を見て、何事もなけりゃそれが一等だ。

 

 さすがに無法地帯で野宿を決め込むほど俺も度胸は良くない。

 皇国の国境へ戻ることにする。

 くるりと馬を反転させ、元来た道を戻り始めた時だった。

 

 背後から飛んできた何かが俺の頬を掠める。

 痛みに反射的に振り払った手応えは、過去に覚えがあるもの。

 

「…おいおい、冗談だろッ!?」

 

 勢いよく振り返った俺の視線の先。

 そこには――――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 時に、普通飛蝗(バッタ)となれば地べたの上を飛び回るもんだろう?

 だが、俺が振り返った先。

 黒い巨大な飛蝗は、何もない宙空から次々と沸いて出てきている。

 傍目にはシュールな光景は、空間移動魔法なんかじゃねえ。これは、これはまるで―――!

 

「くッ!」

 

 一斉に襲い掛かってくる飛蝗。黒い巨体は群生相の証で、紛れもなく(イナゴ)だ。

 だが、道端の草木に目もくれず、チキチキと羽を鳴らして一目散に俺に追いすがってくる連中が、ただの蝗のわきゃあねえだろ!?

 

 ヒヒーン!! 

 馬がいななく。

 てめえの身体に集られるのを例の力で振り払うのに気を取られて、よもや馬にまで齧りついてやがるとは!

 

「ちッ!」

 

 馬の身体に取りついたやつを払おうとして―――馬がつんのめる。

 空中に放り出される俺。

 

「…くそッ!」

 

 どうにか受け身を取って振り向けば、地べたに転がった馬が凄惨な鳴き声を上げていた。その全身は蝗で黒く覆われている。

 

 草食じゃなくて肉食の蝗なんて、蝗じゃねえ。化け物だ。

 

 そんな考えを巡らせるうちにも、黒い群れは俺の全身を包もうとしている。

 背筋が粟立ち、全身が震えた。

 走ってでは到底逃げ切れないだろう。

 まさに絶体絶命のピンチのさなかで―――俺は笑った。

 

 決して絶望したわけじゃない。自棄になったわけでもない。

 それでも自然と笑みがこぼれてくるを止められない。

 

 クラーラやメッツァーは、俺の役割を斥候といった。

 メッツァーに至っては、俺のこの力を保険とも言ってくれた。

 二人とも本当にそう思い、俺の身を案じてくれているのは痛いほど分かる。

 

 その上で、こんな展開になっちまったのは誓って不可抗力だろう。

 だが、これこそが、俺がずっと待っていた流れ。

 

 ここから先には、俺が守れなかった村がある。その先には街もあり、もっと行きゃあ例の駐屯地だ。

 そこに、今俺が何より守るべき娘たちもいる。

 

 何もかもが二十年前の状況と瓜二つ。

 それでいて、違うこともたった二つだ。

 

 一つは、俺は決して俺のためだけに逃げないと誓ったこと。

 もう一つは―――。

 

「…来やがれ、こん畜生どもッ!」

 

 俺は両手を振るう。

 まとわりついていた蝗の群れが続けざまに地面に落ちる。

 更に振るう。

 またもや襲い掛かってくる蝗を、次々と払い落とす。

 力を使っているので、化け物どもはいずれも一瞬で絶命している。

 しかし、以前と違って、目から血の出るような激痛はない。

 確かに頭の奥がカッカと熱く燃えてはいたが、昔に比べれば屁でもねえ。

 

 伊達に娼館で、夜ごと娼婦の(はら)に入った子種を殺し続けてきたわけじゃあない。

 訓練と言えば不謹慎かも知れないが、しかし、殺し続けた数と機会だけ、俺の力が強化されたとすれば。

 

 

 ―――黒い塊が、次々と地面に落ちる。だが、抉った穴を埋めるように、新たな蝗が飛来する。

 

 

 

 20年前の出来事は、俺の人生にぶっ刺さったままの太い棘だ。

 あれが俺の生き方を変節させたことは間違いねえ。

 

 

 

 ―――懐に飛び込まれた蝗まで文字通り手が回らない。幾匹かに皮膚や肉を食いちぎられるも、構わず俺は力を振るい続ける。

 

 

 絶望的な状況の中でも、俺は奇妙なまでの活力に満ちていた。

 贖罪のため? 復讐のため?

 どちらも間違いで、どちらも正解だ。

 

 

 

 ―――視界が赤く染まる。どうやら額の切り傷の血が目に入ったようだ。大丈夫、まだまだ行けるぜ。

 

 

 昂ぶる感情のまま、吠える。

 

「てめえら!! 全部まとめて殺し尽くしてやるから覚悟しやがれ…ッ!」

 

 きっと俺は、凄惨な笑顔を浮かべていたことだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 気づいた時には、俺は地べたに横たわっていた。

 真横に見える視界には、無数の蝗。

 どれもこれもピクリともしない。

 

「…旦那、旦那…ッ!」

 

 身体を揺すられる。

 

「…おお?」

 

 身体を起こそうとして、腕から力が抜けた。

 うつ伏せから仰向けにひっくり返れば、身体を覆うようにしていた蝗の死骸が滑り落ちる。

 見上げた空はまだ青いままだ。とっくに日が暮れたとばかり思っていたが、意外と時間は経っていないらしい。

 続いて、こちらを見下ろしてくる痩身の黒服と目が合う。

 

「…サイベーか」

 

「だからあたしの名前はサイベージで…ってそんなのどうでもいいです! 早く立ち上がって下さい。逃げますよッ!?」

 

「まさか、蝗はまだ来るのか…?」

 

「そいつは旦那が皆殺しにしたでしょう! 来るのはどっかの国の軍隊ですよ!」

 

「…なんだとッ!?」

 

 俺は視線を真横に向ける。

 ぶっ殺した蝗の山の隙間から、整然と進んでくる隊列が見えた。

 

 あっちの方角はドライゼン領だ。

 ならば、来るのはドライゼンの兵たちで間違いないだろう。

 

 だけに、俺は眉を顰める。

 このタイミングで兵を動かすだと?

 蝗への対抗措置だとしても初動が早すぎる。

 クラーラの予言で先行した俺でさえ出会い頭だったんだぜ?

 

 なんにせよ、一気にきな臭くなってきやがった。

 もっとも今の俺の鼻は、てめえの流した血の匂いでバカになっているがな。

 

「…逃げろ、サイベージ」

 

 震える手でサイベージの胸倉を掴む。

 

「この距離じゃ、もう俺らは捕捉されている。よしんばおまえと一緒に逃げたとしても、この身体じゃあ足手まといだ。だが、おまえ一人ならどうとでもなるだろう?」

 

「だからって旦那を置いていけるわけが…!」

 

「黙って聞けッ! 今の俺は単なる娼館の親仁だ。捕まったっていきなり殺されることはねえよ」

 

 多分な、と心の中で付け加え、俺は続ける。

 

「むしろ、この軍隊が引き返せばいいが、このままグルレルフの方へ向かうってなったら、事だぜ?」

 

 ドライゼンとグルレルフは一応の同盟関係にある。

 仮にドライゼンの援軍が向かっているとすれば、前線に行く前にかち合うのは例の駐屯地だ。

 

「お前は即行で駐屯地へ戻ってこのことを伝えるんだ。まだメッツァーがいるだろうから、なんとか差配してくれる」

 

「それこそ旦那が直接伝えてくださいなッ!」

 

 半ば叫ぶようにしながら、俺を抱え上げようとするサイベージ。

 その手を振り払い、俺は笑って見せた。

 

「てめえ、俺に対する借金はいくらくらいあった?」

 

「なに言っているんですか、藪から棒に」

 

「そいつを全て棒引きにしてやる。だから行けッ」

 

「は!? 言っている意味が…」

 

「てめえに依頼するってんだよ、アルクダの黒鳥さんよ」

 

「ッ!?」

 

 アルクダの黒鳥ってのは、冒険者や亡八どもの間でまことしやかに囁かれる凄腕の傭兵の通り名だ。

 通り名だけで個人なのか集団なのか、男なのか女なのかすら不明。

 だが、神業じみた手管を用い、持ち込まれたあらゆる依頼を完遂するとか。

 長い大陸史に延々と登場するところから、その名を冠する組織、もしくは個人が代替わりを繰り返し、その通り名だけが襲名されていると思われる。

 

 なんで俺がそんな眉唾のような存在に詳しいのかと言えば、まだ冒険者稼業をしていたころに、メッツァーとともにやりあったことがあるからだ。

 俺たちの護衛していた依頼人を襲撃したのは黒鳥を名乗った老人だったが、恐ろしいまでの剣の冴えだった。

 二人がかりでも彼我の実力差は歴然で、それでも勝てたのは完全に偶然が味方した結果でしかない。

 まあ、サイベージの野郎が当代の黒鳥としてメッツァ―に面が割れているのはどういう理由かは分からねえけどよ。

 

「な、何を言われているのか、あたしにはさっぱり…」

 

「この期に及んで四の五の抜かしてるんじゃねえよ」

 

 あからさまに狼狽えるサイベージを叱り飛ばしてから、俺はきっぱりと言う。

 

「それが嫌なら、俺を殺せ」

 

「何であたしが旦那を!?」

 

 素っ頓狂な声をあげるサイベージに苦笑する。

 なにを今さら。

 娼館に居着いてからこのかた、常に俺の隙を窺ってやがったくせによ。

 

「あたしは誓って旦那を殺すような依頼は受けてませんよっ!」

 

 傭兵は金で依頼を受けるのが当たり前。

 サイベージの台詞は、当然で本当のことだ。

 

「そりゃその通りだろう。誰も俺を殺すようにおまえに頼んじゃいない」

 

 一呼吸ついて、俺は微笑んで見せる。

 

「けれど、俺は覚えているぜ? 死んだ妹にすがりながら、俺を睨んできた痩せたガキのことをよ」

 

 あのガキの恨めし気な眼差しは、俺が冒険者稼業を辞めて逃げ出した要因の一つでもある。忘れたくても忘れられない。

 

 そして、いつの間にか俺の娼館に居着いた得体の知れない野郎と、あのガキの目がピタリと重なったとき。

 全ては明白ってやつさ。

 

「っと、ちいとばっか長話が過ぎたな」

 

「旦那…」

  

 俺が守れなかった村から去ったサイベージがどんな人生を辿ってきたものか。

 娼館に居着いたところで、若い娘を死んだ妹と重ね合わせて抱くことも出来なくなっちまったんだろ?

 その原因を作った俺としちゃ、詫びる言葉もねえ。

 だから、殺せと言ったのは本心だ。少なくともこいつにはその権利はある。

 

「どうした? 早くしねえと時間がねえぞ」

 

 俯いたままのサイベージを見上げる。

 

「けどよ、俺を殺したあとでも依頼は有効だからな。どうか娘たちだけは、全員無事にヒエロまで帰してやってくれや…」

 

 ここまで喋り、俺は強烈な疲労に襲われている。

 くそ。やはり無茶をしたツケが回ってきたか。視界が滲む。

 

「おい、サイベー…」

 

 気合で視界の焦点を合わせたとき。

 もう黒衣の野郎の姿はどこにも見当たらなかった。

 ふっ、と我知らず口元が緩むのを感じる。

 神出鬼没のヤツのことだ。無事逃げおおせるかどうかなんて心配する方が野暮ってもんだろう。

 

「頼むぜ…」

 

 状況とは裏腹に、胸の中は満ち足りていた。

 そいつを抱えたまま、全身が大地へと沈みこんでいくような感覚に身を委ねる。

 ざわめく人の気配が近づいてきたが、もはや顔を上げる気力さえ残っちゃいない。

 地べたに片耳を着けたまま、聞こえてくる幾つもの足音を聞く。

 

 薄れゆく視界。

 まぶたを落として暗闇にし、俺は今度こそあっさりと意識を手放していた。

 

 

 

 

 

 

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