恋するウイニングチケット   作:まなぶおじさん

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前編

「アタシ、ダービーウマ娘になりたいんですッ!」

 

 晴天の下、スカウト狙いの選抜レース終了後にて、よりにもよってそんな叫びがコース全体に反響した。

 そう、よりにもよって、だ。

 三着を取ったダービーウマ娘(希望)をスカウトしようとした女性トレーナーは、途端にしどろもどろになって、「えーっと」と目まで逸らして、

 

「ごめんなさい……まだ私には、そこまでしてあげられる技術はないわ」

 

 そう、言い切られた。

 その言葉を前に、ダービーウマ娘(希望)は両手で頬を添え、尻尾をタテに振るいあがらせ、顔まで青ざめさせながら「がーん」と口にする。

 正直なところ、女性トレーナーの選択は仕方がないとは思う。

 よほどのベテラントレーナーか、かなりの優秀ウマ娘ではない限りは、ダービーという王座を掴み取ることは叶わないのだから。

 正直なところ、女性トレーナーの選択は仕方がない、とは思う。

 けれども土野勝の足は、ふらりと、ダービーウマ娘を狙う女の子へ寄っていた。

 気配を察したのか、目と目が合う。

 どう反応していいのかわからないのか、そのウマ娘は無表情で土野のことを見つめている。

 話しかける踏ん切りをつけるために、土野はひと呼吸、ふた呼吸置いて、

 

「君。ほんとうに、ダービーウマ娘を狙っているのかい?」

 

 瞬間、そのウマ娘の両目がぎらりと輝く。

 

「うん! アタシ、ダービーを見て、とんでもなくときめいちゃったんだッ! アタシもいつかダービーウマ娘になりたい、絶対になりたい、ずっとそう思ってるッ!」

 

 土野は心から理解する。

 この子は、本気だ。

 土野の手が、ぐっと握られる。

 

「ダービーウマ娘になるためなら、アタシはどんな壁も乗り越える、苦手なことだって学ぶ! アタシは、そうすることしか考えられないから!」

「――わかった」

 

 女性トレーナーの選択は、仕方がないとは思う。

 けれど、自分は、

 

「俺も、ダービーを見てトレーナーになりたいと思ったクチでね」

「え?」

「……子供の頃、なんとなく家のテレビでレースを見ていた」

「う、うん」

「それがたまたまダービーだったんだけれど、その熱気や賑やかさ、そして誰に注目していいかわからないレースに――惚れたんだ」

 

 いまでも、あの瞬間は思い出せる。

 小学三年生の頃、せんべいを食べながら何となくテレビを見ていた時。何処よりもけたたましく何よりも白熱していたダービーをテレビ越しから見届けて、土野の心身はレースの世界へ瞬く間に連れ去られてしまった。

 これといった趣味などなかった土野に、レースという色が憑いた瞬間だった。

 

「だから俺は、トレーナーになった。日本ダービーの中で輝きたくて、しかたがなかったから」

 

 このウマ娘は、よりにもよって自分と同じ夢を抱いてくれていた。

 目の前のウマ娘は、尾も揺らすことなく土野の自分語りに耳を傾けている。

 

「俺はまだ、担当すら持ったことがない新人トレーナーだ。けれど俺は、ダービー好きとして、君の夢をなんとしてもなんとしても叶えてあげたい」

 

 襟のトレーナーバッジに、手を添える。

 

「実績も何もないけど、俺でよかったら、」

「う゛おおお~~~っ!! ありがと~~~~っ! ダービー仲間だったんだねえ~~!!!」

 

 短距離で大声を出されて、思わず腰が引ける。

 

「うんっ! アタシとしても願ったりかなったりだよッ! これからどうか、よろしくお願いしますッ!」

 

 けれども、土野の口元は思わず曲がってしまう。

 だって目の前のウマ娘は、こんなにもけたたましく、こんなにも白熱しているのだから。

 ――土野は、襟を整えて、

 

「同じ夢を持つ者として、君をダービーウマ娘にする」

 

 ウマ娘は、大きくうなずく。

 

「君の名前は、確か――」

 

 ウマ娘は握りこぶしを前に出して、堂々とその名を口にする。

 

「はいっ! ウイニングチケットですッ!」

 

 

――

 

 それから半年ほどが過ぎて、レースへ出走した後の控室にて、

 

「三着か……」

「うん……」

「原因は、わかるな?」

「うん。終盤に向けて足を溜めてたんだけど、焦って前に出ようとして、そのままスタミナ切れ」

 

 ウイニングチケットの分析に対して、土野はこくりと頷いた。

 ウイニングチケットは、差しウマとしての才能は秘めているとは思う。ただいかんせん感情的になりすぎて、掛かり気味になりがちな傾向にある。

 身体能力は決して悪くはない。

 

「この前も、同じミスをしちゃったね……」

「そうだな」

「ごめんなさい……」

「チケット」

 

 強く、その名を口にする。

 

「自分が走っていると、やっぱり焦りが出てしまうんだろう。もたもたしていたら囲まれるかもしれない、いつの間にかゴールに差し掛かっているかもしれない、そう思ってしまうんだね?」

「……うん」

「それはわかる、当事者になってみると、そんなふうに考えこんでしまうんだろう」

 

 チケットは、黙ってうなずく。

 

「コースの状況は二転三転する。でも、コースの長さは絶対に定められている。何度も走った君なら、それは分かっているはずだ」

「……うん」

「君の走りはとても良い、差しウマとして、十分なポテンシャルがある」

 

 うつむくウイニングチケット、一歩前に出る土野。

 

「コースの長さを体でしっかり覚えておけば、適切なタイミングですべてを出し切ることができる」

「そう、なの?」

「そう。コースの仕組みを学べば、君は勝てる」

「……ほんとう?」

 

 おそるおそる、チケットが顔を上げる。

 土野は、ためらうことなく首を縦に振るう。

 

「迫りくる状況をどう乗り越えるべきか。それを力任せに解決しようとするのではなく、冷静になって解読する賢さがあれば、」

 

 土野は、きっぱりと言った。

 

「君は、ダービーウマ娘になれる」

 

 でまかせなど言っていない。ウイニングチケットでなければ、こんなことは死んでも口にできない。

 土野の宣告を前に、チケットはおそるおそる首を上げていって、三度ほどまばたき、意を決したように、

 

「ほんとう、なの?」

「ああ」

 

 土野の返答を聞いて、チケットは胸に手を置く。

 これからウイニングライブが始まるはずなのに、会場は嘘みたいに静かだった。

 

「……わかった。アタシ、勉強する!」

「ああ。最後まで付き合うぞ!」

「ありがとうトレーナーッ! う、う゛れしいよお~~!!」

「ああ、いまは泣け。どんと泣け!」

 

 それからのウイニングチケットは、レースに対する知識を積極的に、時には頭を抱えながらで身に着けていった。

 ある日の授業にて、教師が「チケットさん、『さつきしょう』を漢字で書きなさい」と名指ししたところ、ウイニングチケットは「はい!」と席を立ち、「皐月賞、こうです」と躊躇なく力強く書き切り、クラスメートからは「マジかよ」という顔をされたという。

 その報告をしてくれたチケットの顔は、ほんとうに嬉しそうだった。

 

――

 

 それから、一年ほどが経った。

 

 鍛錬と勉強と、時々遊びを踏まえたウイニングチケットは徐々に頭角を現していき、周囲からは「あの子やばいんじゃないかな」と噂されるようになった。

 当のウイニングチケットはといえば、大体は大声で歓喜したり感動したりの繰り返し。レースで勝てばトレーナーとハイタッチを交わしあったりと、何だかんだで本質は変わっていない。

 ダービーに出走するその日まで、ウイニングチケットは元気いっぱいに今を生き抜いていた。

 

 そして、夢のダービー当日。

 

「いってくるよ、トレーナーさん」

「ああ。いってらっしゃい、ウイニングチケット」

 

 控室のドアを開けたウイニングチケットは、親指を立てる。

 

 □

 

 選ばれしウマ娘たちが夢を掴もうと争い合う中、ウイニングチケットは掛からず焦らず、しかして密やかに差すタイミングを計っていた。そして最終コーナーを抜け出した瞬間に溜めておいた足をバク進させ、次から次へと次へと次へとウマ娘を追い越していき、

 あっという間、だったと思う。

 ゴールしていた、と思う。

 ウイニングチケットも呆然としたような顔でゴールラインの先をよたよた走っていて、そこからしゅんと立ち止まり、沸き立つ観客席に目を向けて――お得意のダブルピースをお披露目した。

 

 いっぽう土野は、濁ったうめき声を発しながら大泣きしていたことを書いておく。

 笑顔全開でウイニングライブを舞っているウイニングチケットに対し、緑色のペンライトを片手に大泣きでウイニングチケットの名前を連呼していたこともしっかり書いておく。

 

 □

 

 午後六時。

 ライブも終わり、ウイニングチケットは土野が運転する車の中でただただ沈黙し続けている。

 先ほどまでの熱狂は、もう聞こえない。勝ったという事実も、どこかへ置き去りにしてしまったような気がする。

 正面から白い車がすれ違い、風を切るような音が土野の鼓膜をすこし響かせていた。

 赤くなった信号機。車を止める。

 土野は体の力を抜いて、深くため息をついた。

 

「やったな」

「うん」

 

 助手席に座っていたウイニングチケットが、唸るように返事をする。

 

「君はダービーウマ娘になれた、俺もダービーの中で輝くことができた。もうね、変になっちまうぐらい嬉しいよ」

「アタシも、だよ」

 

 土野とウイニングチケットの夢は、叶った。終わってしまった。

 いまの土野からは、ため息しか出てこない。ウイニングチケットも、無表情で前を見つめている。

 ダービートレーナーとなった今、自分はどうすればいいのだろう。考えようとして――トレ-ナーとしての野心が、男としての欲望が、腹の内から燃え上がってくる。

 あくまで落ち着いたふりをしながら、トレーナーはウイニングチケットに問いはじめた。

 

「これから、チケットは何がしたい?」

「そう、だね」

 

 ウイニングチケットの方を、横目でちらりと見る。

 よく見てみれば、ウイニングチケットの顔色はどこか明るい。余韻に浸っているのか、それとも、

 

「あのね」

「ああ」

「アタシ、これから先の世界をもっと走ってみたい」

「おっ」

「ダービーだけじゃない。日本一のウマ娘に、なってみたい」

 

 土野の口元が、どうしようもなく歪む。

 どうして自分がウイニングチケットに惹き寄せられたのか、この瞬間をもって知った。

 「同類」、だったから。

 

「アタシの中の魂が、もう燃え上がっちゃってどうしようもないんだ」

「そうかそうか」

「……贅沢なことを言っているのかわかってる。けど、アタシは、」

「任せろ」

 

 ウイニングチケットの迷いに、土野はあえて口を挟む。

 

「ウイニングチケットの夢を叶える。それが、俺のやりたいことだからな」

 

 ウイニングチケットの方を見て、土野はうまく笑ってみせる。

 ウイニングチケットはぽかんと土野の顔を見て、「はあ」とひと息つき、両目がすこしずつ輝きはじめ、そして、

 

「う゛ああああ~~~~!! ありがとうトレーナーさ゛ぁぁぁん!!! アタシやるよぉぉぉ! トレーナーさんのためにがんばるよぉぉぉぉ!」

「ああ。どこまでもついてってやる!」

 

 信号機が青になる。土野の車は、どこか陽気そうに前へ走っていく。

 ウイニングチケットの夢は、土野の情熱は、まだまだ終わりそうにない。

 

 必ず、URA(てっぺん)を掴ませてやるぞ。チケット。

 

――

 

 それからというもの、ウイニングチケットは連戦連勝を積み重ねていった。

 何度も一番人気と評され、腕試しにG1レースへ出場してみれば一着は当然。勝利するたびに、チケットは土野に対して泣きが入りながらの大感謝。土野も大歓喜。

 トレセン学園でもすっかり注目株となったウイニングチケットだが、特におごり高ぶることもなく、ダービーウマ娘として今日も全力全開で生き抜いているのだった。

 

――

 

 有馬記念でみごと優勝を果たし、かれこれ2月に差し掛かった頃、

 

「授業、どうだった?」

「もうバッチリ! 最近はね、問題を当ててもクラスメートから驚かれなくなったよ」

「賢くなったんだなあ」

「なれたんだねえ」

 

 昼休み。事務仕事を終えた土野は、トレセン学園の中央ホールに配置されてある自販機から、好物の「ウマソーダ」を注文し、味をぐいと堪能していた。

 そこで元気良く歩いていたウイニングチケットとぱったり出会い、なんとなしに雑談開始。実に平和だった。

 

「トレーナーさんはどう?」

「俺か? いやあ、トレーナー同士の意見交換で忙しいね。みんなチケットの活躍を見て、どう指導しているのか気になってるみたいだ」

「ほんと!? いやあ、なんだかこう、嬉しいなあ。トレーナーさんが輝いてて!」

「正直、俺も気分がいいよ。チケットは俺の誇りだ」

「えへへ」

 

 ウイニングチケットがくすぐったそうに笑う。この笑顔を目にすると、ちょっとやそっとの悩みなんぞはすぐに吹き飛んでくれる。

 ゆらゆらと、ウマソーダが入った缶を揺らしていると、

 

「ねーねーチャージャー、今年はチョコ渡すの?」

 

 中央ホールのひとかどから、ふだん聞き慣れない単語が耳に入る。

 なんとなしに、耳を傾けてしまう。

 

「え!? い、いや……その……」

「あと少しで卒業だよー? いいのかなー? アオハル爆発しなくていいのかなー?」

「ぐうう」

 

 視線を変えてみる。

 

「渡すの? 本命」

「渡す」

「覚悟は?」

「できてる」

「応援してるぜ、リーフリーフちゃん」

「骨は拾ってほしい」

 

 チケットが、階段に目を向ける。

 

「トレーナーの好きなチョコってなんだっけ……甘いやつ? ビター? ナッツ? う、うおお……わからん……泣くか……」

 

 チケットと目が合う。

 真顔だった。

 互いに、まばたきを繰り返す。

 

「そういえば」

 

 先に口を開けたのは、ウイニングチケット。

 

「バレンタイン、近いんだね」

「ああ、そういえばもう、そんな時期かあ」

 

 思い起こす。

 去年まではウイニングチケットと共にトレーニング街道を駆け抜けていたから、バレンタインなんて二の次にしてしまっていた。ウイニングチケットの方も、バレンタインにはこれといって関心を示していなかったし。

 そんなふうに過ごしていたからか、バレンタインなんて頭の中からすっぽりと抜けていた。

 

「んー、まあ、あれだ。いいもんだねえ」

 

 土野の口からは、当たり障りのないコメント。

 そうしている間にも、中央ホールはバレンタインに関するつぶやきがふつふつとあふれ出してきている。ほとんどのウマ娘は、どうやらトレーナーに対して本命チョコを渡すつもりであるようだ。

 ――珍しい話ではない。担当ウマ娘が、自分に寄り添ってくれるトレーナーに恋心を抱く事など、珍しい話ではない。

 いっぽう、ウイニングチケットとの関係はといえば、

 

「恋してるんだねえ、みんな」

「そうだなあ」

「恋ってどこで出会えるのかなあ」

「さてなあ。わかんないなあ」

「トレーナーさんは、恋とかしてみたい?」

「んー……いまは君を導くことに夢中だしなあ。んまあ、いつかでいいかな、いつかで」

「あはは、そっかー」

「チケットは、恋とかは興味あるの?」

「うーん……うーん……どうだろう、よくわかんない。イヤじゃないんだけどね」

「そっか。まあ、恋と巡り合えてから考えるのもいいと思うよ」

「それがいいよね、それが、」

 

 そのとき、不意にウイニングチケットとの間に沈黙が生じた。

 無表情のウイニングチケットと見つめあって、一秒、二秒、三秒、四秒、

 

「ははっ、まさかねー」

「まさかなー」

 

 ウイニングチケットは自分の担当ウマ娘であり、誇りそのもの。それで十分だった。

 さて。

 そろそろ話しを切り上げようかと、一気にウマソーダを飲み干す。ウイニングチケットは、にこりとした顔で土野を見ている。

 今日も元気そうで何よりだ。

 

 ぴんぽんぱんぽーん。

 

 その時、お知らせのメロディがホール全体に反響した。土野もウイニングチケットも、反射的に天井を見やる。

 

『今週は安全週間です。ウマ娘もトレーナーも、怪我に気を付けて、健康に今を過ごしましょう。たまには休みをとるのも、正しい判断です。以上、樫木がお知らせしました』

 

 ぱんぽんぴんぽーん。

 それから、しばらくは沈黙が保たれていた中央ホールだが――ふたたび、バレンタインについての作戦会議がそこかしこで再発した。

 それとは裏腹に、トレーナーである土野は「安全週間」という四文字が頭の中で泳ぎ続けている。

 そして、ウイニングチケットに目をやる。視線を感じたウイニングチケットも、土野に視線を向けた。

 土野はうーんと唸り声を漏らしながら、

 

「なあ、チケット」

「なに?」

「ここ最近、休日でリフレッシュとかしたかな?」

「え? うーん……いや、トレーニング尽くしだったね。楽しいからいいけど!」

 

 そう言うウイニングチケットは、実に楽しそうな顔になる。腕を軽く振るう。

 それを聞いた土野は、「だろうな」と頭の中で頷く。

 ここ最近のウイニングチケットは、モチベーションの高さ故にひたすらトレーニングに励んでいる。走ることを至上とするウマ娘としてはそれが良いのかもしれないし、トレーナーとしても模範的と評価すべきなのだろう。

 ――しかし、ウイニングチケットは今の今までがんばりすぎていた。平日はもちろん、休日を返上してまでウイニングチケットは走って勉強しての繰り返しだった。

 安全週間。まったくもってその通りだと、土野は心から同意する。

 

「なあ、チケット」

「なに?」

「この一週間は軽いトレーニングを中心に、しばらくはリフレッシュしてみよう」

「うん!」

 

 間、

 

「え!? いやいやいや、アタシはまだまだいけるよ!」

「体力に問題がないのは分かってる。でも、たまの気分転換もいいかなって」

「走るとスカッとするよ!」

「……最近、学友とお出かけしたり、遊んだりしているかい?」

 

 土野の言葉に、ウイニングチケットの言葉が途切れた。

 ほんとう、感情に正直な女の子だと思う。

 

「いや、会話ぐらいはしているから……」

「友達と、どこかへ出かけたりは?」

 

 目を逸らされる。

 

「羽を伸ばしてもいいんだぞ、ほんとうに」

「で、でも、URAまであと少しだし……アタシはもっともっと頑張りたいんだ!」

 

 ウイニングチケットは、両手で拳をつくって、

 

「アタシは、トレーナーさんの期待に応えたいッ!」

 

 ――俺がウイニングチケットに惹かれるのは、必然だったのだろう。

 なんていい子だ。本気でそう思う。

 だからこそ、意見を曲げるわけにはいかない。

 

「走り続けていると、体力にも響いてくる。安全週間に入ったんだし、今は遠慮なく遊んでもいいんだ」

「うう、でも……」

「チケット」

 

 強く、名前を言う。

 ウイニングチケットから向けられる視線が、より一層と濃くなった。

 

「君には健やかに、元気よく駆け抜けて欲しいんだ」

 

 ウイニングチケットから、返事はない。

 

「君はまだ若い。レースに励むのもいいけど、遊びだって必要だ。俺だってそう生きてきた」

 

 トレーナーになるために、そりゃあ勉強は重ねてきた。

 けれども気が乗らない時とか、上手くいかない日は必ず訪れてくる。そんな時は思い切って遊び惚けたり、何か食べたり、ベッドで横になったりしたものだ。

 気分転換に逃げる勇気がなかったら、今ごろはイヤになってシャーペンを投げ捨てていたと思う。

 そんなふうに今日まで生きてきたからこそ、土野は目を逸らすことなくウイニングチケットに持論を口にすることができた。

 

「……何より、な」

 

 ウイニングチケットは、数々の栄光を自分に与えてくれた。ダービートレーナーになるという夢まで、叶えてくれた。

 そしてウイニングチケットとは、もう三年ほど付き添っている。バカ笑いしあったり、泣きが入ったり、こらこらと指摘したりと、それはもうあらゆる感情が飛び交いあったものだ。

 そんなウイニングチケットにもしものことがあったら、自分はきっと――

 

「チケットには、ケガやストレスを感じてほしくはない。楽しんで欲しいんだ」

「……うん」

「チケットに何かあったら、俺は、とても悲しいよ」

「そう、かな」

 

 視線を逸らしてしまったウイニングチケットに向かって、土野は己が真剣さを伝えるために、

 こう、告げた。

 

「君は、俺の愛バだ」 

 

 チケットの目が、見開かれた。

 

「だからこそ、チケットにはこれからも何事もなく、楽しく生きて欲しいんだ」

「……う、うん……」

「だから頼む。今週は休んで欲しい。一週間ほど遊んだくらいで、ウマ娘としての能力が下がるわけじゃない」

「は、はい。そうします……」

「そうか……」

 

 チケットのうなずきを見て、土野はたまらず、

 

「ありがとう」

 

 たまらず、笑えていた。

 ――そんな土野の顔を、ウイニングチケットはぽうっと眺めている。そんなウイニングチケットを目の当たりにして、土野は「あれ?」と首をかしげてしまった。

 

「な、何か……変なことでも言っちゃったかな?」

「う、ううん! そんなことない! トレーナーさんは正しいことしか言ってないよッ!」

「そ、そか、それならよかった……」

「うん。最近休んでなかったし、トレーナーさんの言う通りにする!」

「ああ。俺の事は気にせずに、たくさん遊んでおいで」

「え……それは、やだな……」

「え?」

 

 ウイニングチケットが、わたわたと手を振るう。

 

「な、なんでもないよっ! あ、あー、そろそろ教室に戻るね! うん!」

「あ、ああ、わかった。元気でなー」

 

 逃げるように、ウイニングチケットは廊下の奥へと走り去っていってしまった。

 何を言うこともなく、土野はぽつんとホールへ取り残される。周りから、バレンタインにまつわる話がたくさん聞こえてくる。

 

 □

 

 間もなく昼休みが明けようとしている最中、教室内は猛烈なひそひそ話が飛び交っていた。

 クラスメートの誰しもが、窓際近くの、とある席をちらちら見ている。

 もちろんエアグルーヴも、その席を注視するほかない。

 

 ウイニングチケットが、深窓の令嬢と化していたのだ。

 

 頬杖をつき、憂いを秘めたような顔になって、ただただ静かに窓ごしから青空を眺めている。

 あの、ウイニングチケットが。

 いつもの明快な声は、少しも聞こえてなどこない。今やトレセン学園における注目株であるからか、クラスメートの誰しもがウイニングチケットの動向を様子見している。

 まるで外界の事柄など無関心であるかのように、ウイニングチケットがそうっとため息をこぼす。

 文学少女だった。

 クラスメートがざわつく。

 日光を淡く浴びているせいか、なんだか神聖な感じがする。

 触れず聞かずの雰囲気が延々と続こうとしたところで、学友であるナリタタイシンがおそるおそる席を立つ。勇気を出すのかと、クラスメートがナリタタイシンを見守る。

 のそりのそりとナリタタイシンがウイニングチケットの隣に立つ。関心を持ったのか、頬杖をついたままのウイニングチケットが、首だけをナリタタイシンに向けた。

 ナリタタイシンの尻尾が、びくりと立つ。

 エアグルーヴは、心の中で応援する。

 

「ね、ねえ」

 

 教室の空気が、変わった。

 

「どうしたの? なんだか……その、えっと、元気がないようだけど。話、聞くよ?」

「え? あ、うーん……んー……」

 

 まるで眠そうな声。悩んでいるのか、ウイニングチケットはしばらく唸ったままで、

 

「あー……いや、なんでもないよ。うん、いやなことがあったとか、そういうのは絶対にないから」

「そ、そう?」

「うん。心配かけさせてごめんね」

「い、いや、こっちこそいきなり声をかけて、ごめんね?」

 

 そして何事もなかったかのように、ナリタタイシンは自分の席へ戻っていく。ビワハヤヒデが、ナリタタイシンの勇気を讃えるように小さくうなずいた。

 それでも、教室の空気は少しも緩和されない。

 だってナリタタイシンと会話している間ですら、ウイニングチケットは一度も「!」マークをつけなかったのだ。これは間違いなく、ゆゆしき事態といってもいい。

 

 ――トップになると、色々悩んじゃうのかな

 ――プレッシャーでも背負っているのかな

 ――もしかして、好きな人でもできた、とか?

 ――そんなわけじゃん。チケゾーはそういうタイプじゃないと思うし

 

 チャイムが鳴った。

 ひそひそ話が瞬く間に霧散して、クラスメートは授業に備えようと机の中から教科書や文房具を引っ張り出す。教師が来てからは、ウイニングチケットも背筋を整え直した。

 ――これは、放ってはおけないな。

 エアグルーヴがそう思う中、午後の授業が何事もなく始まった。

 

――

 

 数日後。昼休みになって、エアグルーヴは気分転換とばかりに図書室へ足を運んでいた。

 生徒会活動はもちろん、日々のトレーニングの積み重ね、そしてウイニングチケットの視察が続くとなれば、こうしたひとときは欠かせないものとなる。エアグルーヴ本人も、図書室が保証する静けさを堪能したり、未知なる本を味わうのは好きだった。

 階段を下りて、中央ホールを少し渡った先に図書室はある。途中で後輩から「こんにちは、先輩」と挨拶され、エアグルーヴも「こんにちは」と返しつつ――図書室の戸を、そっと開ける。

 そうして図書室へ一歩踏み入れた瞬間、これまで聞こえてきた賑やかさがすうっと消えていった。

 やや茶色がかった壁と、隅々まで置かれている本棚と、席で黙々と読書をする生徒たちの姿が、静寂さをより強く演出しているのかも。

 ――こういう雰囲気も、悪くはない。

 エアグルーヴはふっと笑う。受け付けを担当しているゼンノロブロイから「こんにちは」と挨拶されて、エアグルーヴも「こんにちは」と一言。そうして、何を読もうかと適当に本棚をめぐり回っていく。三女神にまつわる本でも読んでみようか、たまには漫画も良いかもしれない。「図書委員オススメコーナー」にある戦記モノにも目を通してみようか。

 そのとき、戸が開く音が聞こえてきた。

 エアグルーヴは、特に振り向きはしなかっ、

 

「あっ」

 

 静まり返っていたからか、その一声はエアグルーヴの鼓膜を強く揺るがせた。

 いったい何事かと、エアグルーヴの視線が本棚から後方へスライドしていって、

 

「あっ」

 

 エアグルーヴの口から、声が漏れた。

 図書室に、無表情のウイニングチケットが立っていたからだ。

 この情報は音もなく図書室全体に伝達し、利用者全員がウイニングチケットの動向をちらちら見守り始める。

 ――無理もない。相手は図書室とは無縁であるはずの、注目株ウイニングチケットなのだから。

 

「こんにちは」

 

 しかして、ゼンノロブロイは強かった。図書委員として、ウイニングチケットのことを微笑んで受け入れたのだ。

 強い。

 そして声をかけられたウイニングチケットは、能面のままでゼンノロブロイと目が合う。沈黙が僅かに過ぎて、ゼンノロブロイから「何かお探しですか?」と声をかけられ、ウイニングチケットは唸り声を漏らしながらで頬を指で掻く。

 なんだ。何用なんだ。

 突っ立ったままのエアグルーヴも、本を読んでいたはずの利用者も、今はひたすらにウイニングチケットを横目で注目している。

 

「あ、あの」

「はい」

「そ、その……」

「はい」

 

 ウイニングチケットは、はっと息をのんで、

 

「……おすすめの、おすすめの」

 

 ウイニングチケットに視線が集中しているはずなのに、当の本人は気にもかけない。目の前のゼンノロブロイめがけ、何かを訴えかけようとしている。

 おいそれと言えないジャンルなのか、ウイニングチケットは言葉を濁らせている。利用者たちが焦れる中、ゼンノロブロイはにこやかに次の言葉を待っていた。

 ――そして、

 

「れ、恋愛系とか……って、ありますか?」

 

 瞬間、図書室内の空気が音もなく爆発を起こした。

 ある者は隣同士でひそひそ話を展開し、ある者は顔を真っ赤に染め、ある者は無表情を保ちながらも本を震わせている。エアグルーヴはといえば、平静を装いながらで聞き耳を立てていた。

 

「……それは、漫画でも?」

「はい」

 

 ……。

 

「小説でもいいですか?」

「はい」

 

 ……!!!!

 

「……戦記は、いかがでしょうか」

「はい」

 

 ざわわわわわわ!

 

「ッ! わかりましたっ、それではこの」カウンターの引き出しから本を取り出し、「『愛と剣と愛』という本はどうでしょうか? 戦争描写もありますが、主に恋愛要素を扱っているのでウイニングチケットさんの要望に相応しいかと。あ、あと一冊で完結するので、初心者にもおすすめですよ」上機嫌顔のゼンノロブロイは、眼鏡をクイと整え「わからなかったりしたら、飛ばしてしまうか私に聞いてみてください。だいじょうぶ、全てを理解する必要はありません、読み進められればそれで良いんです。なので緊張せず読んでみてください、ね? ね?」

「はい」

 

 猛烈に推してくるゼンノロブロイに対し、ウイニングチケットはごく冷静にうなずく。そして躊躇することなく、赤い表紙が目立つ分厚い本を受け取った。

 そしてウイニングチケットは開いている席へふらりと腰を下ろし、音もなく本を開き、静かにページへ目を通し始める。

 あまりに物珍しい光景であるからか、利用者のほとんどがウイニングチケットから目を離せないでいる。G1レースをかっさらいまくっている期待の星だからこそ、余計に。

 ――エアグルーヴも、最初こそは嘘みたいな場面だと思っていた。

 

「……へえ……」

 

 本の世界へ没頭し始めたのか、ウイニングチケットは真剣な無表情をつくりはじめる。

 少し経ってページをめくり、ウイニングチケットはくすりと微笑む。またページをめくってみれば、深刻そうな表情をして顔が前のめりになる。またページを続けてみれば、何が気に入らなかったのか、口元を不機嫌そうに曲げてしまっていた。

 ――本に対して、ここまで感情を露にするウマ娘ははじめて見たかもしれない。

 刻々と本を読み進めていくなか、ウイニングチケットの目が漫画みたいに見開かれる。色沙汰でも始まったのだろうか、ウイニングチケットの顔はすっかり赤く染まっていた。

 

 佳境を越えて、ウイニングチケットの視線が天井に向く。本は手放していないから、未だ読む気があるのだろう。

 両肩で息をする。ぽつりと「すごいなー」とつぶやきはじめる。

 その姿は間違いなく、文学少女そのものだった。

 その姿は間違いなく、恋をうらやむ乙女だった。

 ――エアグルーヴは、ウイニングチケットを覗き見ることをいったん止めにする。ウイニングチケットには、ぜひ読書の楽しみを知って欲しい。

 そして利用者たちも、ウイニングチケットを盗み見するのではなく、己が本に夢中になることを選んだ。同じ読書家だからこそ、これ以上の干渉は無粋だと判断したのだろう。

 ゼンノロブロイは、すごく嬉しそうな顔でウイニングチケットのことを見守っていたのだが。

 

 さて、

 エアグルーヴは、本棚から「やさしい相談マニュアル」を引っ張り出し始めた。

 

――

 

 二月も半ばを過ぎた頃。

 放課後が訪れて、土野はトレーナー室から一旦離れることにする。気分転換のためだ。

 向かう先はトレセン学園の中央ホール。目的はウマソーダを自販機から購入し、一杯かっ食らうためにある。アルコールはてんでダメだが、炭酸はいけるタイプだ。

 そうして土野は自販機の前に立ち、財布から小銭を取り出し、小指でウマソーダのボタンを押す。足元から缶が転がる音が響き、喉が一気に乾いてきた気がする。

 ウマソーダとウイニングチケットなしじゃあ生きられませんなあ。

 そんなことを思いながらウマソーダを拾い上げ、軽やかにプルタブを開けて一気飲み。たはーとオヤジ臭い声を漏らし、

 

「こんにちは」

 

 体がびくりと強張る。聞き覚えのある声に振り向いてみると、

 

「桐生院さん! どうもどうも」

「こちらこそ。いまはお休み中ですか?」

「ええ、まあ…………あ、そうだ」

 

 瞬間、土野の脳ミソが「オン」となる。

 

「この前のG1レースで、ハッピーミークが一着を取ったみたいですね。さすがです」

「ありがとうございます。ミークは、とても立派になってくれました……」

 

 桐生院葵とは、トレセン学園へ赴任したての頃からの付き合いだ。

 出会いのきっかけは、ここで「あのハッピーミークってウマ娘、チケットと同じくらいすごいなー」とつぶやいてみて「本当ですか?」と笑顔の桐生院から話しかけられたからだ。

 それからというもの、桐生院とは時おり意見交換を交わしあったり、時にはダービーについて盛り上がったり、時々は一緒に昼飯を食べあったり、隙あらばウイニングチケットと競い合わせたりと、良好な同僚関係を築き上げられている。

 

「いやホント、立派だと思いますよ。全距離を選ばないウマ娘に仕上げるなんて、俺にはできない」

「それはミークの才能です。適正距離ばかりは、トレーナーの腕ではどうしようもありませんからね」

「そうですか……でも、その能力を腐らせず、仕上げてみせたのは桐生院さんですよ」

「そう、ですね。はい、今ではそう言えます」

「俺も見習わないと。舞い上がりやすいからなあ」

「そんな。そこは、あなたのいいところではないですか」

「え、そうですか?」

「はい。あなたが喜べば、ウイニングチケットさんも一緒になって感情を全開にするじゃないですか。正直、見ていてとても楽しい気持ちになれます」

 

 くすりと、桐生院は微笑む。それに対して土野は、なんだか恥ずかしい気持ちになってしまう。

 

「こ、子供っぽい……ですかね?」

「いえ! 一緒に感情を分ちあえるだなんて、トレーナーとして優秀ですよ、とても!」

「は、ははあ、そうですか。いや、桐生院さんが言うんだから間違いないか……」

 

 桐生院は真面目だ。生まれてこのかた、ウソなんてついたことが無いと思わせられるぐらいには。

 それにしても、桐生院が相手だとついつい口が回る。同じトレーナーだからというのもあるだろうが、やはり言動や返事が素直な点が大きい。桐生院と話してみて、不快な気持ちを抱いた事は一度たりともない。

 

「ウイニングチケットさんというウマ娘は、あなたと一緒だからこそあそこまで走れるんでしょうね。人バ一体とは、あなた達のためにある言葉なんでしょう」

「そ、それを言ったら桐生院さんもハッピーミークもそうだと思いますよ。ミークを育て上げあげられる自信は、俺にはないなあ……」

「光栄です」

 

 桐生院はふふりと笑う、土野はたははと苦笑い。

 ほんとう、桐生院とは良い関係になれていると思う。口にはしていないが、内心では良き友人と思っていたり。

 

「ほんと、ハッピーミークの存在はチケットにとって良い刺激になります。……あ、そうだ、また今度競い合わせませんか?」

「いいんですか?」

「こちらからお願いしたいくらいです」

 

 桐生院は、両手を一つに重ねて、

 

「ありがとうございます。ダービーを制したトレーナーさんと戦えるなんて、ワクワクしますね」

 

 トレーナーの血が騒ぎ始めたのか、桐生院が挑戦的な笑みを露わにする。土野の口元も、つい釣りあがってしまった。

 さて、勝負はいつにしようか。内ポケットから、メモ帳を取り出そうとして、

 

「あの」

 

 聞き慣れた声。首だけを振り向かせてみれば、

 

「チケット。どうした? 何か用か?」

 

 ウイニングチケットがいた。どこか、表情に陰りをつくりながら。

 あまり見ないウイニングチケットの一面を前にして、腹の内から緊張感が走り始める。

 

「……問題でも、あったか?」

「う、ううん、そういうことじゃないんだけれど……その……」

 

 ウイニングチケットが言いよどむとは、とても珍しい。いつもはハッキリと本心を口にするはずなのに。

 

「え、えと……」

 

 桐生院も、心配そうにウイニングチケットを見る。

 そんな桐生院のことを、ウイニングチケットはちらりと一瞥して、

 

「え、えと、トレーナーさんは、トレーナーさんは……」

「ああ」

 

 目を逸らされる、ウイニングチケットの耳がへこみ始める。尻尾が不安げにゆっくりと揺れて、「えと」、「あの」、「その」、

 

「……桐生院さんと、どんなお話を、してたの……かな?」

 

 上目遣いで、おそるおそる、そう質問された。

 ――疑問が解けた土野は、軽やかな声で「ああ」と返事し、

 

「ハッピーミークとチケットはすごい、互いにそう言ってただけだよ」

「ほ、ほんと」

「本当だよ。ですよね、桐生院さん」

 

 桐生院はにこやかに、「はい」と返事をする。

 事実を知ったウイニングチケットは、胸に手を置きながらで「そっか」とつぶやく。

 

「あとは……そう、都合が合えばハッピーミークと競い合わせたいって思ってるんだが……いいか?」

 

 無言。

 何かまずいことでも言ってしまったのだろうか。いつもとは違うウイニングチケットを前に、これ以上の言葉が思いつかな、

 

「ねえ、トレーナーさん」

「う、うん?」

「そ、その……アタシがミークに勝ったら、トレーナーさんは嬉しい?」

「え? ああ、すごく嬉しいよ」

 

 即答。

 ――ウイニングチケットの耳が、ぴんと立った。

 

「そ、そうなんだ……そう思ってくれるんだ……」

「当たり前だろ」

 

 もしかしたら、ウイニングチケットは自分との関係に唐突な不安を抱いてしまったのかもしれない。

 気持ちはわかる。

 自分だって不意に、これまで築き上げてきた対人関係に疑問を抱くことがある。眠る前だとか、思考に余裕がある時とか、きっかけは色々だ。

 まずいことを言ってないだろうか、愛想笑いをされているだけなのかも、嫌われているんじゃあ――実際は、単なる思い込みに過ぎない。今日も同僚や家族は笑って応えてくれる。

 ウイニングチケットも、そんな恐怖が音もなく押し寄せてきたのだろう。

 だから自分は、ウイニングチケットのトレーナーとして、こう言った。

 

「言っただろう、チケットは俺の愛バだ。それは、間違いないよ」

 

 瞬間、土野の体はびくりと震えたと思う。

 ウイニングチケットの瞳が、きらきらと揺れていたから。

 

「そう……そうだよね」

「ああ。チケットと出会えて、本当に良かったと思ってるよ」

「そうなんだ、そうなんだ……」

 

 ウイニングチケットはその場でうつむいて、消えそうな声で「そうなんだ」と言う。

 中央ホールからそこかしこに聞こえてくる、バレンタインにまつわる雑談。

 

「わかった」

 

 ウイニングチケットは、そうっと顔を上げた。

 目と目が、合った。

 

「ありがとう、トレーナーさん。アタシもトレーナーさんと出会えて本当に、本当に、ほんとうによかったよ」

「そうか」

 

 ウイニングチケットの言葉に、土野は自然と笑えていた。

 

「……うん、やっぱりそうなんだ。アタシの気持ち」

「え?」

「う、ううんっなんでもない。じゃあ早速トレーニ……ううん、ハヤヒデたちと遊んでくるね!」

「あ、ああ、わかった」

「うんっ。それじゃあ、またあした」

 

 そう言って、ウイニングチケットはホールを後にしていった。

 しばらくは、ウイニングチケットの背中を目で追うことしかできなかったと思う。

 ――あ。ハッピーミークといつ競い合わせるか、聞くのを忘れた。

 

「土野さん」

 

 声をかけられる。振り向けば、すごい上機嫌そうな桐生院が居て、

 

「とても、仲がいいんですね」

 

 まるで自分のことのように、桐生院は嬉しそうに言う。

 土野はただただ、力なく苦笑するほかなかった。

 

 □

 

 そしてエアグルーヴは、中央ホールにある柱の影からウイニングチケットの動向をずっと見守っていた。

 

 ――偶然だったのだ。

 生徒会員としての仕事を始める前に、エアグルーヴは花壇へ水やりをしようと外に出向こうとしていた。そこでたまたま土野トレーナーと桐生院葵、そして気まずそうな顔をしているウイニングチケットの三人が集合している場面に遭遇して、エアグルーヴは思わず柱の影に隠れてしまったのだ。

 それからというもの、ウイニングチケットから発せられる一語一句を何としてでも耳に入れた。もしかしたら、悩めるウイニングチケットを何とか出来るかもしれないと思ったから。

 やがて会話が終わり、ウイニングチケットが中央ホールから姿を消していく。何とかやりすごせたようで、たまらず胸をなでおろしてしまった。

 

 ――思い返す。

 との会話への割り込み、会話内容の聞き出し、「愛バ」という尊き言葉に対する反応、そして図書室での一件から察して、エアグルーヴの頭脳は何の迷いもなくこう判断する。

 

 恋か。恋なんだな。

 

 これは難しい問題になりそうだ。

 しかして、ウイニングチケットのことは放ってはおけない。

 日を改めて、ウイニングチケットと対談する機会を設けよう。

 それがいい、それが。

 

 花壇に向かっていく中、トレーナーへチョコを送ろうか送らまいかで激論しあっている二人のウマ娘とすれ違った。

 そういえば、もうそんな時期だったか。今年はいくつ貰えるんだろうな。

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