「ねえ、ウーティス。あなた、キスの味ってどんな味か知ってる?」
橙色と紫色が溶け合う暮れかけた夕空の下、残照を纏った彼女は、俺にいきなりそんなことを聞いてきた。
「知らないな。俺は今まで一度もキスをされたことなんて……いや、一度だけあったかな」
俺の返答を聞いて、女の子は不満げに口を尖らせた。
「なんですって? じゃあ、その相手は誰で、その味はどんなものだったの?」
遠くの時計台が十八時の鐘を鳴らした。そろそろ彼女を家まで送る時間だ。それを口実にはぐらかすこともできたが、俺はきちんとそれに答えることにした。
「四歳の頃、納骨堂の近くで、それまで会ったこともない女の人から」
「ふーん、美人だったの?」
「ああ、美人だった。この世の人間とは思えないほど、優しそうできれいな人だったよ」
はぁ、と彼女は溜息をついた。亜麻色の縦ロールの髪が、夕方の風にふわりと揺れている。
「で、味はどうだったの?」
「味は、分からないな。道に迷っているようだったから案内したら、あの人はお礼だと言って、額に軽くキスをして去っていったんだ。その後、彼女の姿は見ていない」
俺の返答を聞いて、彼女はいかにもほっとしたような顔をした。
「じゃあ、ウーティス。あなたは本当のキスをしたこともなければ、されたこともないわけね。そして、キスの味も知らない」
「じゃあ、ペネロペ。君はキスの味を知っているのか」
俺の問いに、彼女はほんのりと顔を赤らめた。
「知っているわけないわ! 私だって、あなたが初めての恋びと……いえ、なんでもない。とにかくね、本当のキスはしたことないわ。でも、どんな味かは亡くなったお母様から聞いているの」
彼女は、髪をかき上げつつ、言葉を続けた。
「キスってね、特に恋人同士のキスはね、幸せの味がするらしいわ。甘くて、切なくて、胸がいっぱいになるような味が」
俺は、幸せという言葉を聞いて、やや暗い気持ちになった。
「俺に幸せは無縁だ。『兵士ならば幸せを求めるな、むしろ死ね』と教えられている」
そう言う俺に、彼女ははっとしたような顔をした。そして、しばらく言うべき言葉を選んだ後、諭すように言った。
「ウーティス、あなたは兵士である前に、人間よ。輝く霊魂を持った、れっきとした人間なの。人間として生まれてきたからには、誰でも幸せになれる権利があるわ。いえ、幸せにならなければならないの」
俺は、軽く笑ってそれに答えた。
「じゃあペネロペ、君が俺にその幸せの味を教えてくれるのかい?」
誇り高い彼女にそれは無理だろう、と俺は高をくくっていた。だが、彼女の反応は予想外のものだった。爽やかな蒼い瞳で俺を見つめつつ、彼女はそっと呟くように言った。
「……教えて欲しいの? それなら……いいよ」
えっ? と言う間もなく、彼女は自分から俺に抱きついてきた。柔らかくて、華奢な彼女の体がはっきりと感じられる。
「……ふふ、ウーティスの心臓、すごくドキドキしてる。でもちょっと、身長の差がありすぎね。屈んでくれない?」
俺は言われるままにした。
「目をつむって」
それにも素直に従う。
数秒の間を置いたのち、彼女は「よし!」と声を発して、俺を強く抱きしめた。
彼女の顔がだんだん俺に近づいてくるのが感じられる。俺の心臓は、これまで感じたことがないほど激しく鼓動を打っている。
俺は、彼女と、これから本当のキスを……
その時、チュッという軽い音がした。彼女は俺の額にキスをしたのだった。
「はい、残念。本当のキスはおあずけ。私をからかった罰よ! それに、そもそも今朝の私の占いによれば、今日は本当のキスができない日なのでした! あはは! ウーティス、すごく残念そうな顔してる!」
そう言って笑っている彼女の目尻に、なぜか涙が浮かんでいるのを俺は見逃さなかった。
けれども俺は、それについては訊かず、別のことを尋ねた。
「じゃあ、君と俺が本当のキスをするのは、いつのことになるんだ」
そう問われた時の、彼女の寂しそうな顔が忘れられそうもない。
「……あなたは、遠くない将来、私ではない私と初めて本当のキスをするでしょう。きっとね……」
彼女が残した謎が分かる前に、彼女は俺の前から消えてしまった。
それは遠い日の、淡い思い出。戦争前の、最後の平和なひと時だった。