【完結】人形たちの霊魂戦争   作:ほいれんで・くー

1 / 8
プロローグ

「ねえ、ウーティス。あなた、キスの味ってどんな味か知ってる?」

 

 橙色と紫色が溶け合う暮れかけた夕空の下、残照を纏った彼女は、俺にいきなりそんなことを聞いてきた。

 

「知らないな。俺は今まで一度もキスをされたことなんて……いや、一度だけあったかな」

 

 俺の返答を聞いて、女の子は不満げに口を尖らせた。

 

「なんですって? じゃあ、その相手は誰で、その味はどんなものだったの?」

 

 遠くの時計台が十八時の鐘を鳴らした。そろそろ彼女を家まで送る時間だ。それを口実にはぐらかすこともできたが、俺はきちんとそれに答えることにした。

 

「四歳の頃、納骨堂の近くで、それまで会ったこともない女の人から」

「ふーん、美人だったの?」

「ああ、美人だった。この世の人間とは思えないほど、優しそうできれいな人だったよ」

 

 はぁ、と彼女は溜息をついた。亜麻色の縦ロールの髪が、夕方の風にふわりと揺れている。

 

「で、味はどうだったの?」

「味は、分からないな。道に迷っているようだったから案内したら、あの人はお礼だと言って、額に軽くキスをして去っていったんだ。その後、彼女の姿は見ていない」

 

 俺の返答を聞いて、彼女はいかにもほっとしたような顔をした。

 

「じゃあ、ウーティス。あなたは本当のキスをしたこともなければ、されたこともないわけね。そして、キスの味も知らない」

「じゃあ、ペネロペ。君はキスの味を知っているのか」

 

 俺の問いに、彼女はほんのりと顔を赤らめた。

 

「知っているわけないわ! 私だって、あなたが初めての恋びと……いえ、なんでもない。とにかくね、本当のキスはしたことないわ。でも、どんな味かは亡くなったお母様から聞いているの」

 

 彼女は、髪をかき上げつつ、言葉を続けた。

 

「キスってね、特に恋人同士のキスはね、幸せの味がするらしいわ。甘くて、切なくて、胸がいっぱいになるような味が」

 

 俺は、幸せという言葉を聞いて、やや暗い気持ちになった。

 

「俺に幸せは無縁だ。『兵士ならば幸せを求めるな、むしろ死ね』と教えられている」

 

 そう言う俺に、彼女ははっとしたような顔をした。そして、しばらく言うべき言葉を選んだ後、諭すように言った。

 

「ウーティス、あなたは兵士である前に、人間よ。輝く霊魂を持った、れっきとした人間なの。人間として生まれてきたからには、誰でも幸せになれる権利があるわ。いえ、幸せにならなければならないの」

 

 俺は、軽く笑ってそれに答えた。

 

「じゃあペネロペ、君が俺にその幸せの味を教えてくれるのかい?」

 

 誇り高い彼女にそれは無理だろう、と俺は高をくくっていた。だが、彼女の反応は予想外のものだった。爽やかな蒼い瞳で俺を見つめつつ、彼女はそっと呟くように言った。

 

「……教えて欲しいの? それなら……いいよ」

 

 えっ? と言う間もなく、彼女は自分から俺に抱きついてきた。柔らかくて、華奢な彼女の体がはっきりと感じられる。

 

「……ふふ、ウーティスの心臓、すごくドキドキしてる。でもちょっと、身長の差がありすぎね。屈んでくれない?」

 

 俺は言われるままにした。

 

「目をつむって」

 

 それにも素直に従う。

 

 数秒の間を置いたのち、彼女は「よし!」と声を発して、俺を強く抱きしめた。

 

 彼女の顔がだんだん俺に近づいてくるのが感じられる。俺の心臓は、これまで感じたことがないほど激しく鼓動を打っている。

 

 俺は、彼女と、これから本当のキスを……

 

 その時、チュッという軽い音がした。彼女は俺の額にキスをしたのだった。

 

「はい、残念。本当のキスはおあずけ。私をからかった罰よ! それに、そもそも今朝の私の占いによれば、今日は本当のキスができない日なのでした! あはは! ウーティス、すごく残念そうな顔してる!」

 

 そう言って笑っている彼女の目尻に、なぜか涙が浮かんでいるのを俺は見逃さなかった。

 

 けれども俺は、それについては訊かず、別のことを尋ねた。

 

「じゃあ、君と俺が本当のキスをするのは、いつのことになるんだ」

 

 そう問われた時の、彼女の寂しそうな顔が忘れられそうもない。

 

「……あなたは、遠くない将来、私ではない私と初めて本当のキスをするでしょう。きっとね……」

 

 彼女が残した謎が分かる前に、彼女は俺の前から消えてしまった。

 

 それは遠い日の、淡い思い出。戦争前の、最後の平和なひと時だった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。