12月31日 作: 三呉
人生、何があるか分からない。
そんな使い古され、出涸らしとなっていてもおかしくないフレーズをこの2年間で実感した。
齢17、現役の高校2年生がそんなことを思うのは早計かつ生意気なのかもしれない。でも、そう思ったのだから仕方がないのだ。
冬休みの一端を予備校で過ごすという、なんとも面白味のない生活を続けていたその日に先輩と遭遇した。
より正確に表現するのであれば、「見慣れた制服とは違い、私服を纏ったマサオカ・マイ。着崩しはなく、きっちりとした雰囲気の制服とは異なり、お洒落なケープやら可愛らしいスカートやらで破壊力は抜群だ」となる。
全てを余す事なく伝えられない貧相な表現力と語彙が恨めしいが、的外れではないはず。
そんなフレーバーテキストめいた阿呆な事を考えていると、先輩は小さく手を振りながら「こんにちは」と言った。
「こんにちは。奇遇ですね」
「奇遇、ですね」
奇遇とですねの間に妙な間があった。
そこに触れるべきか悩んで、結局澄ました顔で「先輩は、なにゆえこんな場所に?」とだけ言った。
「いえ、特に用事があったわけではないんです。ただ勉強の息抜きに散歩を」
「息抜きの散歩に予備校前を選ぶとは」
「それはたまたまです」
「ですよね」
何がですよねなのかは分からない。
意味不明な深読みだ。別にこの辺りは予備校だけ存在する隔絶された地ではないので、当然である。
先輩がほうと白い息を吐いてるのを見て、そういえば戸外の気温は一桁台だったかと思い出す。
「今日も一段と冷え込みますね」
「そうですね」
「~ですね」と言われたら、大抵「そうですね」と返してしまう癖のせいで、そこから話は広がらない。
頭の中に詰め込まれた語彙はそれなりにあるのだが、それが発声器官に到達するまでにとっちらかってしまい、結果として意味不明な単語を発する生命体と化してしまう。
電子媒体でのコミュニケーションも苦手だ。なんとも救いようがない。
12月31日。びかびか光る電飾の下というシチュエーションにはそぐわないことを考えていた。
これで来年最上級生になるというのが信じられない。信じたくもない。
隣を歩く先輩を見ると、余計にそう思う。
なんともなしに隣の横顔を除きこもうとして、視線がぶつかった。
グレイの透き通る瞳に覗かれて、少しだけ動悸が激しくなる。
ただ単に目が合っただけなのに、心の平静が瓦解する。
先に目を逸らしたのは、当然俺であった。
「あの、貴方はこれから帰りですか?」
口を開いたのは先輩が先だった。
「えぇまぁ。寄り道はしない優等生なので」
「……では、そんな優等生さんに一つ提案が」
「なんでしょう」
僅かな間の後。
「私と、少しだけ悪いことをしませんか」
悪戯な眼をして、先輩はそう言った。
○
「もう街は新年を受け入れる準備ができているのか、いいなぁ」
おせちやら伊達巻やらの幟旗を眺めつつ、新年への不安を吐露する。
受験生という重たい肩書きを与えられ、息抜きという口実がなければ外食すらままならないかもしれない。
そしてなにより、先輩が卒業する。学舎で制服の先輩を見ることが無くなる。
先輩後輩としての関係が終わるのは必定でありながら、認め難い何かが胸中に存在していた。
憂いだ。果てしない憂いが、周りを徘徊する浮ついた空気と反比例だ。
「きっと良いこともありますよ」
「宝くじ当選とか、ふとしたきっかけで国家規模に影響を与えるインフルエンサーになるとか、隔世遺伝の呪いから解き放たれるとか?」
「それは極端すぎでは……」
美容師は「禿げない」と言っていたが、一族の男衆はみるみると毛量を減らしている。
恐怖だ。どうか俺に辿り着くまでに新年の朝日で消滅しろ。
別に来年に発生するかどうか分からない悩みを抱えながら、二人で繁華街を辿った。
年末は家でゆっくりしていようという心持ちの人間は意外と少ないようで、老若男女が灯りの下でひしめいている。
先輩の言う「悪いこと」とは、所謂街めぐりの誘いであった。
その小悪魔的誘惑に一も二もなく頷いてみせたが、今更になって誘われた理由が気になってくる。
それとなく聞き出せる話術があれば良かったのだが、生憎と持ち合わせていない。できないことは、やらない。
懸念すべき問題は、もう一つあった。人混みである。
人混みというのは五感をとにかく消耗する場所であり、人体によろしいかと問われれば決して首を縦に振ることはできない。
それに加えて先輩はあまり体が頑丈ではない。『病弱』という言葉を避けたいので、刺激に弱いといっておく。
なので、彼女の身体には酷ではないだろうか。無理はしていないだろうかと。
そんな思いはお見通しとばかりに、先輩は優しく微笑んで言った。
「大丈夫ですよ。いつまでも「慣れない」で済ませておくわけにもいけませんから」
痛々しい笑いだと思った。感じた。
そんなことを言わせたいわけではなかった。
俺の、健康な人間からの気遣いとか同情は、激励の意味だけで受け取れない。
いつも誰かに気を遣われて、迷惑をかけて。そんな自分をいつだって彼女は悔やんでいる
そして、今悔やませたのは俺だ。
けど他にできることなんてなにもなくて、情けなかった。
「……あの」
「はい」
「先輩のフィニッシュブローってなんですか」
「……え、と。決め技、みたいなものでしょうか?」
「そうですね。別にブローじゃなくてもいいです」
非常に困惑した様子。当たり前だ。俺だってそんなこと言われたら困る。
それでもちゃんと考えてくれる先輩の度量に感心しかない。
「特に思い当たるようなものはありませんね」
「そうですか。じゃあこの話はナシで」
「……ちなみに、平手打ちと答えたら何に反映されましたか」
「いや、一発僕にかましてもらおうかと。罰として」
一瞬だけ目を丸くした後、「なんの罰ですか」と先輩は言った。
「なんでしょうね」
必死に笑顔を作って、そうとしか答えられなかったのは、本当に情けないと思った。
○
「一度、来てみたかったんです」
足を止めた先には、屋外のスケートリンク。
何度か地元で見かけたことはあったものの、屋根のないオープンすぎるスペースの中に入り込む気はとてもなかった。
「先輩はす……ケートの経験はありますか」
「ありませんけど、その妙な間は一体?」
「脳内変換に口がついていかなかったタイムラグです。気にしないでください」
本来は「滑ったことはありますか?」と何気なく言うつもりだった。
しかし、相手は受験生だと「先輩はす」まで言った段階でようやく気づき、醜態をさらした。
「滑る」だの「落ちる」だの、そういった類の単語に過敏になる風潮は正直得意ではない。
聖櫻学園を受験する決戦の年。凍った道路で足を滑らせ、除雪の雪が頭に落下し、道端で普通に転んだ。
それでも今こうして高校二年生にまでなれたのだから、全く関心を持ったことがなかった。
しかし、あくまでそれは俺の考えであり、先輩に押し付けるわけにもいかない。配慮ができる男。
なんて阿呆なことを考えているうちに、先輩はすでに受付を始めていた。少しだけ小走り。
「高校生二人、お願いします」
「貸靴はご利用されますか?」
「はい」
貸靴と利用料金合わせて1200円。きっちり払って施設に足を踏み入れる。
青白いイルミネーションの光を受け止める氷に、先輩から思わずといった感嘆の声が漏れた。
「綺麗ですね。とても幻想的で」
「ですね」
「この幻想に踏み入れる為にさっき1200円を払ったんだよな」とこの上なく現実的なことを考えながらの「ですね」だった。
形だけの同意とか、嘘というものは全くと言っていいほど向いていない。
それなのにやってしまうのは、見栄っ張りという他にないだろう。先輩限定でなく家族にもやっているので、もはや手の施しようがないと思う。
靴を履き替え、すっかり存在を忘れていた手袋を嵌めてリンクの上に降り立った。
純真無垢な子供の頃に「もし敷いてある氷が割れたら地面に真っ逆さま。そのまま永遠に落ち続ける」という嘘を吹き込まれ、恐怖心と戦っていたことを思い出した。今でもたまに思い出す程度には、根に持っている。
「お待たせしましたっわ、わ」
「あぁ、最初はそうなりますよね」
遅れてきた先輩は、慣れないスケート靴と未知の地面の感覚に苦戦していた。
すぐにでも翻筋斗を打ちそうな足取りだったので、支えようと動いて気づく。
果たして、どこを支えればいいのかと。
腰か?腕か?肩か?というか女性の身体に触れるのはご法度ではないのか?もし触れたら聖櫻に頻出する不審人物連中同様えいやっと撃退されてしまうのでは?
ぐるぐると頭の中でいくら検索をかけども、『もしかして:』の表示すらされない。とんだ欠陥検索エンジンである。
結局、蓄積された17年分の対人ボディタッチ録は全く機能せず、ただ「とりあえず壁に手をつけば安心ですヨ」と助言のみに止めた。要するに、ヘタレだ。
「見苦しいところをお見せしました」
「先輩の名誉は永久保存版なので、問題ないでしょう」
「永久に私の後輩をするつもりなんですか」
「留年回数のギネスを狙う時があれば、やぶさかではない」
「その時は止めさせていただきますね」
壁伝いに歩を進めながら、先輩は言った。
一応経験者である俺が前で、先輩が後ろという構図。
後ろからの客もいるため、距離は随分と近い。
先輩は普段温厚篤実であるが、割と軽口を淡々と一蹴する面がある。
穏やかに、緩やかに。しかし、時としてぴしゃりと。
「時として」の部分に全く予想がつかないし、自分の自虐ネタすら笑顔で言う。
そんな先輩がどんなことを考えているのかという思考に、この物理的な距離は全く意味をなさない。
後ろからナイフか拳銃を向けられているような、刺々しい緊張感で手に汗が滲んできた。
手汗の不快感をねっとりと感じていると、不意に何かが手袋越しに触れる。
そして、不快感をうわがきするような未知の感覚が手を包み込んだ。
幼少の僅かな記憶から「手を繋いでいる」という状況に気づけたのは、その5秒後であった。
誰と?決まっている、先輩だ。他の人だったら怖い。
「あの、これは?」
「私、スケートは初めてなんです」
「それは聞きましたけれども」
「だから教えてください」
「え」
先輩は壁から手を離し、慣性にしたがって滑っていく。
動揺を隠そうとして腑抜けた身体は、繋いだ手を軸に連動する。
なんの予兆もなく、さっきの「時として」に当てはまる事例が訪れた。余計なこと考えなきゃ良かったと後悔したところで、意味はない。
得意分野の一つである現実逃避は、今も繋がれた手といつもよりも過剰に鳴る心音と、顔に集まった熱さが許さない。
「ほら、早くしないと離してしまいますよ」
ともすれば大衆の喧騒に消えゆきそうな囁き声が、耳元に響く。
悪戯な顔をして笑う先輩は、平静としていた。余裕綽々な態度のせいで、やはり分からない。
もし俺の本心を見透かした上でこんなことをしているのならばもしや、と都合の良すぎる解釈を切り捨てられないまま、観念して言った。
「……分かりました」
「ふふ、優しくお願いしますね」
氷上の反射光に照らされる先輩は、美しかった。
スケートリンクでの出来事を語るには、その一言で事足りると思った。