昨年からpixivに投稿していたウマ娘の小説を、ハーメルンでも公開していこうと思います。
まずは一番作品数の多いキングヘイローのお話から。
――あなたは、私だけの一流。
トレーナーが、さらに二人のウマ娘を担当することになった。
まあ、それ自体は当然の成り行きだと思う。チームに所属するウマ娘の人数は、トレーナーの人数よりずっと多い。それ故一人のトレーナーが数人のウマ娘を担当するというのが普通だ。むしろ今まで、彼が私一人を――彼がまだ経験の浅い新人であったことを差し引いても――担当していたことの方が特別なのだ。
――「キングヘイローは素晴らしい結果を残してくれた。君も三年で十二分に経験を積んだことだし、この辺りがいい頃合いだろう」
チームの主任トレーナーから、彼はそう言われていた。
喜ばしいことだと思った。嬉しいことだとも。私たち二人の活躍が認められたからこそ、トレーナーは将来有望なウマ娘をさらに任されたのだから。
同時に身が引き締まる思いもあった。こうして期待されている以上、それに応えるだけの結果を出さなければ。それが一流のウマ娘としての責務だ。ウマ娘とトレーナーは一心同体、私の走りがそのまま彼の評価となる。彼の評価を落とすような、情けない走りはできないと思った。
とは言っても、大して思い詰めていた訳ではない。紆余曲折あったとはいえ、私たちは一流に相応しい結果を出して来たし、それだけの実力はあると思えていた。これまでと大きく変わることなんてない、これからもトレーナーと二人で走っていくだけ。そう思っていた。
……けれど、私の思っていたようにはいかないのだと、しばらくして思い知った。
簡単な話だ。小学生でも解ける算数の問題。担当するウマ娘が三人になれば、一人あたりに割ける時間は今までの三分の一。朝から晩まで私一人に付きっきり、という訳にはいかなくなる。
最初の頃はまだよかった。デビュー前の後輩二人に対して、トレーナーは重点的に基礎トレを行うよう指示していた。平日の練習は三人揃ってペース走や併せをしていたから、あまりそれまでの違いを感じなかった。私以外の子にアドバイスをする横顔を、何だか誇らしく思う余裕もあった。
でも二人がデビューすると、いよいよ状況が変わってきた。当然だけれど、レースがあればトレーナーはそちらへ付き添うことになる。地方のレース場なら金曜日から前ノリなんてこともざらだ。彼はトレーニングのメニューだけを置いて、出走する子と新幹線へ乗り込んでいく。
……それが当たり前。私がレースに出る時だって、彼はそうしてくれる。頭ではきちんと理解しているはずなのに、丁寧に練られたことのわかるメニューと注意するべきポイントがびっしり書き込まれたレポート用紙に、表情が険しくなる。抜けてはいけない力が、肩から抜けそうになる。
トレーナーのいないトレーニングは、なんだか不思議な気分だった。やってることは普段と変わらないのに、妙なところでふっと気が抜けてしまう。一緒に残った後輩へ指導をしている時はいい。けれど例えば、タイムトライアルをした時、ペース走をした時。
「ねえ、今の走り、どうだったかしら」
ゴールして、額の汗を拭いながら尋ね、そこでようやく気づく。私の問いかけに答える人はいない。振り向いたところに人影はなくて、私の声はターフの風に流される。私のパートナーはそこにいない。トレーニングコースの上には他のウマ娘たちの声が響く。思わず吐いてしまう溜め息も、どこにも届かない。
私のレースと、後輩のレースの日程が被った時もあった。トレーナーは随分悩んだみたいで、でも最終的に後輩へ付き添うことを決めた。頭を下げるトレーナーに「気にしないで」と声をかけた。私と後輩では経験してきた場数が違う。それに、彼女にとっては初の重賞レースだ。トレーナーが付き添うべきはどちらかなんて、素人にだってわかる。
「任せなさい。一流に相応しい結果を残して来るわ」
そう胸を張って彼と後輩を送り出した。
けれどまた、一着でレースを終えて気がついた。息を整えながらスタンドを振り返る。外ラチに一番近いところ、最前列に目を遣って「しまった」と思った。そこにトレーナーの姿はない。見つけられたのは、応援に来てくれた後輩と、私の友人たち。
いつものように観客席へアピールして、いつものように一流の宣言をして、そしていつものように地下道へ下がった。いつも通りはそこまでだった。いつも私を待っていて、一番に祝福と労いの言葉をくれる人が、そこにはいない。同じレースを走った子たちがそれぞれのトレーナーやチームメイトに出迎えられる中、私は一人淡々と地下道を控室へ歩いた。途中でかかってきたお母さまからの電話にどこか安堵している自分がいて、それを腹立たしく思いながら短い通話をする。交わした言葉はいつもより多かったような気がした。
トレーナーと話ができたのは、レース終わりのシャワーを浴びてからだった。着信にワンコールで出ると、トレーナーの声がした。勝利の報告をすると、いつものように祝福と労いの言葉が返ってくる。あちらのレースも無事勝利を収めたようで、電話越しでも後輩の喜びようが伝わってきた。
ライブの準備があるからと、短く電話を切り上げた。少し元気を取り戻した自分が、我ながら単純で笑えてしまった。
◇
――そうして、しばらくの時間が流れていった。
今日、ターフには私一人が立っている。二人の後輩も、トレーナーも、どこにもその姿はない。チームごとに練習に励むウマ娘たちの中、ポツンと私一人が立っている。
昨日は、後輩二人が揃って出走した。当然、トレーナーもそれに付き添っている。今頃は反省会を終えて、帰路についている頃だろうか。今日中には帰ってくるはずだけど、遠征で疲れているだろうし、きっと練習には現れない。だから今日は私一人でのトレーニングだ。
「……ま、自主トレと変わらないわよね」
柔軟を終えて、誰にともなく呟いた。
トレーニングメニューは彼がきちんと残してくれている。重点的に気をつけるべきポイントもわかってる。あとはそれを、いつもの通りに、一流らしくこなしていくだけだ。
……そのはず、なのに。
実戦を想定した、ペース配分を意識しての走り。コース取りと、集団での位置、そしてゴールまでの距離を測りながら走っていく。残りの距離が四百メートルを切ったあたりから、スパートを切るべきタイミングを待っていた。溜めた脚を一気に解き放つ、私の武器だ。
けれど、スパートが切れなかった。
踏み込んだはずの足に、ターフを掴む感触がない。あたかも雲を踏んだかのような、不可思議な感覚が足裏から伝わる。まだ行ける、ここから上がって行ける、そう思うのに、スピードが上がらない。
「なんで……っ! どうして……っ!」
奥歯を噛み締めて、もう一度スパートを掛ける。でも結果は同じだった。ターフを踏み込む確かな感触がどこにもない。残したはずの脚が動かない。重りはない。枷はない。けれど私の脚は前に行ってはくれない。
結局、スパートらしいスパートを掛けることができないまま、ゴール板の前で膝に手をついた。額から汗が滴る。渾身の走りには程遠いのに、いつもより体に溜まった疲労が大きい。拭っても拭っても、汗は頬から零れ落ちていった。
ダメだ。こんな走りではダメだ。こんなものじゃない。歯を食い縛って天を仰いだ。縮んだ肺を無理にこじ開けて息を吸う。新鮮な空気を吸うと、少し体が冷却された。
「……まだよ。もう一本」
次は大丈夫。そう自らに言い聞かせて目尻の汗を拭い、足を動かしてまたスタート位置に立った。深呼吸を挟んで構える。ゲートの開くその一瞬をイメージして、芝を蹴り上げ、走り出す。
走る。走る。走る。一歩、一歩とターフを踏み締める。腕を振り、腿を上げて、足を前へ。走れば息が上がる。心拍数が上がる。胸が苦しくなる。足が重くなる。前を見ているのが辛くなって、汗と共に視線が地面へ落ちそうになる。
けれどそこで俯けば負けてしまう。だから死んでも首は下げない。意地と根性とプライドで歯を食い縛り、前を睨み続ける。そうしなければ勝てない。それ以外の勝ち方なんて知らない。
一歩ゴールへ近づくたび、ずしりと体が重くなる。一歩前へ踏み出すたび、ぐにゃりと視界が歪んでいく。一歩地面を蹴るたび、絶望に似た苦渋がこの身を苛んでいく。
それでも、私は走るんだ。
なのに。なのに。……それなのに。
「……っ」
足に力が入らない。
走る感覚が薄れていく。ターフの上に立っている実感が湧かない。何かが足りていない気がして、欠けてしまった物の分、力が出ない。
何度試しても上手くいかない。キングヘイローの走りは、今の私のどこにもなかった。滲んだ視界の彼方に見える第四コーナーを曲がった先、スパートをかける自分の姿がどうしても思い描けなかった。
……わかっている。何が足りていないのか、何が欠けているのか、何が必要なのか。それを、この胸が張り裂けてしまいそうなほどの痛みと共に、理解している。
「……どうしていないのよ、ばか」
ウマ娘とトレーナーは、一心同体。一蓮托生。そんな言葉は方々で耳にした。強いウマ娘には優秀なトレーナーが必要で、同じように優秀なトレーナーには強いウマ娘が必要だ。どちらが欠けても成り立たなくて、二つが揃って羽ばたかなければ意味がない。
言いたいことは理解しているつもりだった。事実、私がこれまで一流に相応しい結果を残せたのは、共に歩んでくれた彼がいたからに違いない。二人三脚、彼が共に走ってくれたから、私はここへ立っている。
その言葉の、本当の意味を理解した。
ウマ娘はトレーナーと共に走る。彼の夢と信頼と期待を背に乗せて共に走る。
私はきっと一人でも走れる。でも。だけど。
キングヘイローというウマ娘の走りには、彼が必要なのだ。
欠けた胸が痛い。意地でも下げてこなかった首が、過去感じたことがないほどに重い。前を見ているだけで苦痛に等しい。なにも背負っていない私に意味が見いだせなくて、空っぽの根性で走ることがひどく滑稽に思えた。
こんなこと、気づかなければよかった。
最終コーナーを曲がり切って直線に差し掛かる。もうすぐスパートを掛けるタイミングだ。それなのに、気合いの入れどころも、力の入れどころも、意地の発揮どころも、何一つわからなかった。ゴールへと続く道が、全くもって見えてこなかった。
……ああ、だめだ。唐突に理解して、ふっと力が抜けそうになった。
きっと、私は走れない。
「スパートだ、キング!」
凛とした号令がコースに響いた。ふわり、軽やかに吹いた風に乗って届いた言葉が、私の耳を震わせる。
「……え」
荒れた呼吸の合間に、我ながら間の抜けた声を挟んだ。
コースの脇をチラリと右眼の端だけで窺った。流れていく景色の中に、人影が一つある。スラリとした立ち姿の男性だ。クリップボードとストップウォッチを手に私を見る目は、穏やかでありながら強い意志を感じさせる。私のトレーナーがそこにはいた。
目を見開いた。同時にカチリと、自分の中に最後のピースが嵌ったような、そんな錯覚を抱いた。ぽっかりと空いた穴に熱が宿る。欠けていたところが満たされて、溢れる程の力が湧いてきた。
脚がある。私には脚がある。大地を踏み締め、強く蹴って駆けていく、脚がある。
あなたと共に鍛え上げてきた、脚がある。
キングヘイローは、ここからだ。
奥歯を噛み締める。「ええ、今行くわ」、そう心の中で呟いて、一際強くターフを蹴った。芝が抉れる感覚。同時に、自らがまるで風になったかのような感覚。双翼を得たかのような感覚。
自然と顔が上がった。風の先にゴールが見える。何だかいつもより、足の動きがいい気がした。前へ、前へ、自分でも信じられないくらいの速さで体が前に行く。
……ふふっ。まだ、まだよ。キングはまだ、ここからなんだからっ。
「お疲れ様。さすがの走りだね、キング」
メニューを全て終えた私は、汗を拭いながらトレーナーの前へと足を向けた。労いの言葉を掛けてくれた彼は、ニンジン味のスポーツドリンクを差し出す。受け取ったペットボトルは思わず「冷たっ」と声を出してしまうほどキンキンに冷えていた。きっとついさっきまで氷水にでも漬かっていたんだろう。
首筋に当てると、冷たさが心地よかった。熱くなった血液が冷却されていく。練習終わりの至福の一時。それをしばらく味わって、それからキャップを開け、中身を煽った。よく冷えたドリンクが喉を通っていくと、頭がジンとした。
「ラップタイム管理も申し分ないし、上がり三ハロンはやっぱり驚異的だ」
きっと引くほどメモが取られているのだろうクリップボードを見つめながら興奮気味に話すトレーナーの横顔を、チビチビとドリンクを口にしながらどこかぼんやり眺めていた。
ほんの少し前まで、こんなやり取りも、二人きりの景色も、当たり前だった。それがなんだか、今は少し懐かしい。二人きりでのトレーニングなんて、本当にいつぶりだろうか。
「――キング?」
こちらを覗き込んで声を掛けてきた彼に、慌てて我に返った。ドリンクのキャップをキュッと閉める。
「……驚いたわ。あなた、帰って来たばかりでしょう。トレーニングに来るなんて、思ってなかったわ」
私の言葉を聞いていたトレーナーは、不思議そうに首を傾げていた。
「もちろん来るよ。当然だろう」
「……どうして?」
「君が走ってるから」
真っ直ぐな瞳の答えに迷いは微塵もない。見つめ合うのが気恥ずかしくて目を逸らし、タオルに口元を隠した。随分子供っぽいことを訊いてしまった気がして、余計に頬が熱い。
そんな私の仕草をどう受け取ったのか、トレーナーはおもむろに頭を下げた。あまりに突然のことで、私の方が面食らってしまう。
「ごめん。最近ずっと、君に、君自身のことを任せっきりだった」
謝罪の言葉に、なんと返せばいいのかわからなかった。
ちゃんと理解してる。これまでみたいに、私一人につきっきりとはいかないことも。後輩たちが、デビューしたばかりで大事な時期であることも。先輩である私なら、自己管理もできるだろうと、彼が信頼してくれていることも。
……ちゃんと理解していなかったのは一つ。私には、自分で思っていた以上に、彼の存在が必要だったこと。
少しの間があった。頬の熱が引く頃に、タオルに向かって小さく息を吐く。
「なあに、そんなことを気にしていたの? 私はキングヘイロー、一流のウマ娘よ。トレーナーがいないくらいで、トレーニングや自己管理が疎かになったりしないわ」
いつもの調子でそう答えた。少しばかり混ぜ込んだ、嘘と見栄と意地。ズキリと、また少し胸の辺りが痛む。
顔を上げたトレーナーと目が合う。口元を緩めた彼の表情は、なんだか少し寂しそうに見えた。
「……そうだよな。さすがはキングだ」
またズキリと、胸の別のところが痛んだ。
彼が何を言って欲しかったのか、わかる気がする。けれどそれは、私の言って欲しい言葉と同じで、私の本音そのもので、彼に告げたい言葉と一字一句違わない。私の勘違いで、都合のいい妄想のような気がしている。
だから、その言葉を口にするのに、相応の勇気が必要だった。
「……だ、だからといって、別にあなたがいなくてもいいとか、そういう訳ではないからっ」
早口で言い切って、彼から目を逸らした。タオルで汗を拭うふりをして、口元と熱い頬を隠す。
一流のウマ娘である私が、世界でただ一人頼るのは、あなただけなのだ。そう告げるに等しいセリフは、ともすれば愛の告白のようで、それに気づいてしまうと、せっかく鎮めた心臓の鼓動がまた早くなった。熱い何かが血液と共に体中へ運ばれていく。でもそれを、不快なものとは感じない。
タオル越しに、一つ息を吸った。
「……一流のウマ娘である私には、一流のトレーナーであるあなたが必要よ。それは、本当のことだから」
もう一度、今度はよりはっきりと口にした。ありったけの勇気と気合いを振り絞って、トレーナーの目を見つめる。真ん丸に開かれた瞳の中に、夕焼けと私が映り込んでいた。
しばし言葉を失っていたトレーナーが、安堵に似た息を吐いた。夕陽を受ける瞳が、ゆっくりと弓なりに細くなる。
「ありがとう。……俺も同じだ。俺には、どうしても君が必要なんだ」
穏やかな表情が告げる言葉には、ほんの少し子供っぽい懇願が混じる。私のものと同じ、愛の告白にも似た響きを聞き届けて、耳が熱くなった。ターフを駆ける時と同じように、ふわりと不思議な心地が胸の辺りを支配する。
「……それは、どのくらい?」
気づけばその不確かな心地のまま、口を開いていた。言ってしまってから、しまったと思っても遅い。慌てて口を塞いでも、言葉は零れてしまった後だ。
また、子供っぽいことを尋ねている。そんなこと、訊いたって仕方がないのに。きっと彼を困らせるだけだ。
慌てて、私は私自身の発言を取り消そうとした。
「ごめんなさい、今のは忘れて――」
「一番だよ」
けれど、私が言葉を募らせるより前に、トレーナーが答えてしまった。
言いかけた取り消しの言葉が詰まる。開いたままの唇から呼吸をすることもままならず、高鳴る心臓のまま彼を見つめていた。私を捉えて離さない瞳が、彼が真剣そのものであることを物語る。
迷いなく動いた唇が、彼の言葉を語った。
「君が一番だ。一番信頼してる。一番応援してる。一番期待してる。――他の誰でもなく、君が一番必要だ」
遮ることも、目を逸らすことも、できなかった。ターフの風だけが私たちの間を駆けていく。しばらくそのまま時間が流れた。一瞬のことだったはずだけれど、なんだか随分と長い時間に感じられた。
先に目線を逸らしたのはトレーナーだった。夕焼けの茜とは別の色で染めた頬が苦笑いする。
「ごめん、すごく恥ずかしいことを言ってる気がする」
羞恥で頬を掻く彼の姿に、私の方も一気に力が抜けた。思わず頬が緩む。随分締まりのない笑い方をしている自覚はあったけれど、それを直せる力まで今の私からは失われていた。せめて口元だけでもと、拳とタオルで綻んだ唇の端を覆い隠す。
「ええ、まったく。……お互いに、ね」
随分恥ずかしいことを口にしたのは、私も同じでしょう。私にはあなたが必要で、あなたには私が必要で、そんなわかりきってたはずのことを改まって確認していることが気恥ずかしく、頬が熱い。
妙な時間が流れていた。それ以上に告げる言葉が見つからず、緩みの引かない頬を隠しながらも、ただ彼を見つめている。たったそれだけのことに、無上の喜びを見出している。
この感情を、何と例えればいいのだろう。
「キング。何か、俺にして欲しいこととか、ないかな」
長い沈黙の後、一つ咳払いを挟んで改まったトレーナーが、私に尋ねた。
彼の考えていることはすぐにわかった。私を一人にしたことの、埋め合わせでもするつもりなんだろう。
彼も戸惑っているのかもしれない、そう思った。これまでの三年間は、何をするのにも一緒だった。どんな時でも共に走った。だから、ほんの少しでも別の道を歩んだ後に、どうしたらいいのかわからない。
微かな息が唇の隙間より漏れた。まったく……そんなこと、いちいち気にしなくたっていいのに。
「埋め合わせのつもりなら、必要ないわ。埋め合わせてもらうようなことでもない。あなたはデビューしたての二人に付き添うべきと判断して、私もそれを支持した。それだけのことでしょう」
そう、それだけのことだ。まだ二人で走り出したばかりだった頃、彼が私に付きっきりだったのと同じ。それを埋め合わせてもらおうなんて、そんなことは思いもしない。
でも……でも、そうね。これくらいは許されるかしら。
「……ああ、それにしても。今日は何だか、いつもより頑張った気がするわ。脚もパンパンだし、もう一歩も動けないかも」
ウララさんが嬉しそうに話していた、「トレーナーにおんぶしてもらったんだ~!」という言葉を思い出しながら、私はトレーナーに告げる。
トレーナーから視線を外して、もうほとんど乾いた汗を、わざと拭うふりをした。足首を回したり、腿をマッサージしたり。我ながらあまりにも滑稽な演技をしていると、そう思う。
まあでも、疲労があるのは事実だし、全てが全て噓という訳ではない。誤魔化すように自分へ言い聞かせると、それがさらに私のやっていることへの恥ずかしさを増す。
……こういう時は、素直に甘えられる娘が羨ましい。
「でも、トレーニング後のミーティングは、きっちりこなさないとよね。一流のウマ娘は、自身の振り返りも疎かにしないもの。――ああ、誰か私を、トレーナー室まで連れて行ってくれないかしら」
最後は早口に捲し立てた。熱い顔に手で風を送りながら、片目でチラリとトレーナーを窺った。
豆鉄砲を喰らった鳩、とでも言えばいいのだろうか。ぽかんと間の抜けた顔をトレーナーは見せている。それがさらに頬を熱くした。
慣れないことはするものじゃない。安易にウララさんの真似をしたのはよくなかった。やっぱり取り消そうかと唇を開きかける。
「俺でよければ、連れて行こうか」
トレーナーの返事に、一瞬頭が真っ白になった。ぽかんと、しばらく間抜けに口を半開きにするのは、今度は私の番になる。「……そう」と、ほんの一言短い言葉を返すのに、随分と時間を擁してしまった。
「そうね。あなたは私のトレーナーなのだし、それじゃあお願いしようかしら」
内心でガッツポーズを握った。
まあでも、流石におんぶという訳にはいかないだろう。それに、学園内でそんなことされたら、私が恥ずかしさで死んでしまう。いつも一緒にいる娘たちにでも見られたら、明日からどんな顔で会えばいいかわからないもの。
でもきっと、肩くらいは貸してくれるだろう。それでいい。それで十分。それだけで、私は彼とこれからも走っていくのだと、そう思えるから。
「それじゃあ、キング。少し失礼するよ」
「ええ、どうぞ」
歩み寄ってきた彼の方へ手を伸ばした。やっぱり気恥しくて目を瞑る。夕方の風は、少し涼しい気がした。
次の瞬間、予想もしなかった感覚がした。
ふわり。まるで翼でも得たかのように、私の脚がターフを離れた。宙に浮かぶ感覚。不安定に思えた浮遊感は、しかし別の何かに支えられていて、すぐに安心感へ変わった。ふと懐かしい心地になったのは、子供の頃、お母さまが同じようにしてくれたのを思い出したからだろうか。
「……え」
自分の身に何が起こったのか、ゆっくりと理解した私は、間抜けな声とともに瞼を上げた。
夕陽を背にしたすぐ側に、こちらを覗き込むトレーナーの顔があった。
これは……っ。これ、は……っ。
「ど、どうしてお姫様抱っこなのよっ」
自分で叫んだ言葉に、顔から火が出るほどの熱を感じた。
私は今、トレーナーの腕の中に収まっている。肩と膝裏を支えられて、彼の腕に抱かれている。俗にお姫様抱っこと呼ばれるそれは、確かに誰かを運ぶための一つの方法だ。
けれど、全く心の準備ができていなかった私には、それはあまりにも強すぎる刺激だった。何より、普段より圧倒的に近い距離感と、夕焼けの中で微笑む彼の表情に、一瞬でも惚けてしまった自分が恥ずかしかった。
彼が困ったようにオロオロと視線を動かす。
「え、今のはお姫様抱っこの流れじゃなかったか?」
「今のはおんぶの流れでしょう!?」
「そ、そうだったのか」
「いやでも、おんぶだと足に負担が……」「安全かつ負担のない運び方ならこっちの方が……」なんて、彼はしばらく早口で理屈を並べた。そっぽを向いてしまった顔が、少しずつ赤くなっていく。最後には眉を八の字に下げて、彼は苦笑いした。
「……ごめん、降ろすよ」
……もう、へっぽこ。降ろせなんて、言ってないでしょう。
……ああ、ううん。この場合、へっぽこは私の方かしら。
「――ばか。ばか。ばか、ばかっ」
足をばたつかせ、軽く握った拳で数度彼の胸を叩いた。それから腕を伸ばし、彼の首を絡め取る。落ちないためとはいえ、あまりにも恥ずかしい格好にまた足をばたつかせる。きっと夕焼けなんかじゃ誤魔化せないほど真っ赤になっている顔を隠そうと、彼の肩に頭を埋めた。腕に力を込めたことで、図らずも彼を抱き寄せる形になる。
私が暴れている間も、彼は私を落とさずにいてくれた。
色んな感情がごちゃ混ぜになっている。今日はただでさえ、心の整理が追い付かないほど、色んなことがあった。色んなことを思い知って、色んなことを確かめて、色んな感情が溢れて。自分の心がどこにあるのかも、今の私にはわからない。
けれど一つだけ、確かなことがある。
私とあなたは二人で一流。私とあなたのどちらかが欠けても、キングヘイローにはなれない。私にはあなたが必要で、あなたには私が必要。大空を舞う鳥の羽が二枚あるように。豊かな緑の二本の枝が互いを支え合っているように。……私に、二本の脚があるように。
私はあなたを離さない。これからも共に走っていく。……だから、お願いよ、トレーナー。
「――決して、離さないで」
埋める肩に、我ながらどうしようもなく頬を緩めて呟いた声は、自分でもよく聞き取れなかった。だからきっと、トレーナーにも聞こえていないはずだ。
「――うん、わかった」
一体、何がわかったのだろうか。私を抱える腕の力が、少し強くなった気がした。
トレーナー室へと、彼がゆっくり歩きだす。風は涼しいはずなのに、どくどくと鳴る心臓が熱い血液を送り出し続けるせいで、一向に体は冷えない。けれど不思議と嫌な心地はしなかった。
トレーナーの耳が、私の声を埋めた肩のすぐ傍にあることへ思い至ったのは、それからしばらくしてのことだった。
投稿した内容を見直しながら、一日一作ずつくらい公開していきます。