キングヘイローまとめ   作:瑞穂国

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十三話目です。
タイトルは松田聖子さんの曲から。
帰りの遅いお母さまと、お母さまの帰りを待つ幼いキングのお話です。


「私だけの天使」

 仕事が終わってうちへ帰ると、パジャマの天使が駆けてくる。

 

 

 

「おかあさま!」

 

 心持ち控えめに告げた「ただいま」の声に、待ち兼ねた様子の大きな返事があって、幾ばくか驚いた。パンプスを脱ぎかけていた手を止めて、声が聞こえてきた扉の方を見遣ると、ぴょこぴょこと忙しなく動く耳と、きらきら光って止まない瞳がすぐに見つかる。肩を撫でる鹿毛と、最近お気に入りのリボン、そしてパジャマの裾を揺らして、キングちゃんは真っ直ぐ私の方へ駆けてきた。とてとて、ついてきたメイド長を置いてきぼりにして、脇目も振らずに走ってくる。肩にかけた鞄を傍らに置いて膝を折り、私は愛しい娘を抱いて迎えた。

 ぽすん。私の腕の中にキングちゃんの体が収まると、そんな風に軽やかな音がした。仰け反りそうになりながら小さな体を抱き締める。お風呂にはもう入ったのだろう、シャンプーの香りがふわりと広がって、鼻腔をくすぐった。穏やかな心地に、急速に筋肉が弛緩していくのを感じる。背をポンと叩いて、髪を優しく梳いてあげると、ぴょこりと揺れた小さな耳が頬を撫ぜた。

 

「おかえりなさい、おかあさまっ」

「ただいま、キングちゃん」

 

 明るい声に私が返事をすると、キングちゃんは益々嬉しそうに笑い声をあげる。まだまだ小さな手と腕で、一生懸命抱き着く可愛い娘に、私の方も自然と頬が緩んだ。

 二十秒ほどそうした後、キングちゃんを解放する。胸元から顔を上げたキングちゃんは、やっぱりきらきらした瞳で私を見つめて、そしてニパッと白い歯を見せた。たったそれだけで、今日一日の仕事の疲れなんてすっかりどこかへ行ってしまう。私はもう一度だけ、そっとふわふわの鹿毛を撫でた。

 

「――もう遅いでしょう。起きていたの?」

 

 私が尋ねると、キングちゃんはバツの悪い顔をして、一瞬だけ目を逸らす。小さな両の手の指を絡ませて、しばらく迷う素振りのあと、上目遣いに私を窺いながらゆっくりと口を開いた。

 

「……おかあさまのおかおをみたかったのです。ごめんなさい」

 

 天使は許しを乞うように、両の手を絡めて握り、揺れる瞳で私を見つめていた。チクリとした胸の痛みを感じる。私はもう一度キングちゃんの頭を撫で、ぺたんと寝てしまった可愛らしい耳に触れた。

 

「怒っている訳じゃないのよ。――今夜は、もう少し起きている?」

 

 私がそう言うと、キングちゃんはパッと顔を明るくして、勢いよく二度三度と頷いた。お日様そのものの笑みが可愛らしい顔から零れる。笑顔をそのままにして、キングちゃんはぐいぐいと私の袖を引いた。

 

「おかあさま、ごはんができてますよ。こんやもとてもおいしいです」

 

 キングちゃんに手を取られるまま、廊下を足早にダイニングへと向かう。鞄を預けたメイド長がニコリとして道を開けてくれる。それに、私の方は微かな苦笑い。コートの袖を引っ張って進むキングちゃんに合わせて、私は少し歩調を早めた。

 

「今夜の献立は何かしら」

「カレーですっ!」

 

 尋ねると、元気一杯の返事が返ってくる。メイド長特製のカレーは、今夜はお野菜がたっぷり入っていたらしい。でも好き嫌いせず、全部きちんと食べたと、キングちゃんは誇らしげに報告してくれた。

 

「偉いわね、キングちゃん」

「とうぜんです。キングはいちりゅーなんです」

 

 えへんと胸を張るキングちゃん。少し前まで、「ピーマンはいやです……」って言っていたのが嘘みたいだ。

 

「そうね。キングちゃんは一流だわ」

 

 私が頷くと、キングちゃんは頬を緩めて相好を崩した。えへへ、と笑う顔が「もっとほめて」と言っている。娘に求められるまま、何度も飽きることなく頭を撫でた。艶やかな鹿毛に指を通すたび、小さな耳がパタパタとして、私も思わず唇の端が緩んでしまう。

 洗面所で手洗いとうがいを済ませ、脱いだコートをメイド長に預けてからダイニングへ向かうと、先に席へ着いていたキングちゃんが、まだ床へは届かない足を揺らして私を待っていた。手招かれるまま向かいへ腰を落ち着けると、すぐにメイドが夕食を持って来る。大根とキャベツのシンプルなサラダ、それからキングちゃんの言う通り野菜がたっぷりのカレーライス。キングちゃんが食べやすいようにだろう、お店で食べるものよりいくらか小さく揃えられた具材が、ルウの中に溶け込んでいた。

 向かいに座るキングちゃんには、爺やが湯気を立てるマグカップを差し出す。中身はココアだと爺やは言った。それを聞いたキングちゃんが、真ん丸の瞳を輝かせて両耳をパタパタと動かす。小さな両手でマグカップを受け取ったキングちゃんは、「じいや、ありがとうございますっ」と笑顔でお礼を述べた。爺やがニコリとして下がっていく。

 

「いただきます」

 

 手を合わせて、遅い夕食を取り始める。サラダを一口。瑞々しいトマト。それと、スプーンにすくったカレー。すっかり空っぽのお腹にゆっくりと夕ご飯を入れていく私を、向かいからキングちゃんはずっと見つめていた。両手で持ったマグカップに、小さな唇から息を吹きかけ、ゆっくりココアをすする。私と目が合うと、にへっと笑った。

 

「おかあさま、おいしいですか」

「ええ。とてもおいしいわ」

 

 目元を緩めながら答えると、キングちゃんは満足そうにまたココアをすする。それから、今日の出来事をあれやこれやとお話してくれた。朝、私を見送った後に、メイドとお庭の花壇に水をやったこと。保育園ではお絵描きが上手だと褒められたこと。お迎えの車の中で爺やに歌を聴かせたこと。夕ご飯はきちんと噛んで残さず食べたこと。お風呂はメイド長に入れてもらったこと。そして、おしゃべりをしながら、私の帰りを待っていたこと。あのね、あのね、と飽きもせずに話してくれることを、私は相槌を打ち、時折食事の手を止めて聞いていた。

 キラキラしたキングちゃんの一日が、ただただ耳に心地よく、そして愛おしかった。

 

 

 

 キングちゃんのマグカップに注がれた二杯目のココアは、結局半分ほど余ってしまった。

 カレーが三分の一くらいになった頃から、随分眠そうにしていた。一生懸命おしゃべりしてくれた唇が、言葉の代わりに寝息を吐き出すまでの時間はさほどかからず、数分もしないうちにキングちゃんは目を閉じた。今はテーブルの上にお行儀よく突っ伏して眠っている。

 元々、眠かったのだと思う。普段ならもうベッドで愛らし寝顔を見せている時間だ。それが、私の顔を見たいからと、眠いのを我慢して起きていた。そこへ怒涛のようにしゃべったから、いよいよ疲れてしまったんだろう。

「起こして、寝室へお連れいたしましょうか」とメイド長は言ってくれたけれど、起こしてしまうのは何だか可哀想な気がした。それに、これは私の身勝手だけれど、キングちゃんの天使みたいな寝顔を、もう少しここで見ていたかった。だから起こさないようにと、メイド長の申し出は断った。

 眠る天使のすぐ隣へ席を移し、食後の紅茶をすすりながらそっと髪を梳いていた。時折、小さなお耳がぴくりと動くけれど、キングちゃんが目を覚ます気配はない。柔らかなほっぺと唇を艶やかな鹿毛の間に覗かせて、愛らしい寝息を奏でている。その寝顔以上に大切なものなんて、この世にないように思えて、だからずっと髪を撫でていた。

 

「すっかり、眠ってしまわれたようですね」

 

 声を潜めた爺やに頷く。多分もう、ちょっとやそっとのことでは、キングちゃんは目を覚まさないだろう。すっかり夢の国の住人になっている。もうそろそろ、ベッドへ移しても大丈夫だ。

 

「……ベッドへ移しましょう」

「かしこまりました。では、ここは私が――」

「いいえ。私が連れて行くわ」

 

 私が答えると、爺やはぱちくりと瞬きをする。それ以上何かを言い募ったりはせず、目元の皺を何本か増やして「かしこまりました」と返事をし、その場を辞した。残った紅茶を飲み干し、物音を立てないよう細心の注意を払って、私は席を立つ。

 すやすやと心地よさそうに寝息を立てるキングちゃんを、起こさないようにゆっくり抱え上げると、両腕にその存在感がしっかりとかかった。まだまだ幼いとはいっても、日々信じられないくらいの早さで成長している。小さくか弱い、という表現を使うには、今のキングちゃんは随分大きい。

 廊下を進み、階段を上がって、キングちゃんを寝室へと運ぶ。腕の中のキングちゃんは、時折身じろぎをしたけれど、もうすっかり深い眠りの中らしく、瞼を上げることはなかった。全てを私へ預け安心しきった穏やかな寝顔に、つい見惚れてしまいそうになるけれど、それを堪えて足元を探りながら歩く。ベッドへ辿り着くほんの二分ほどの時間が、とてもゆっくりと流れるものに感じられた。

 おひさまの香りがするベッドへ静かにキングちゃんを寝かせ、掛布団をかけようとしたところで、小さな手が私の袖を掴んでいることに気づいた。抱っこして運んでいる間に、無意識のうちに掴んでいたらしい。起きている様子はないから、右手でそっと解いて、そのまま掛布団の中へ仕舞おうかと思った。けれどふと、私は思い留まって、動きを止める。

 

「……さま」

 

 ほんの微かに漏れた、吐息みたいなキングちゃんの寝言が、私を呼んだのだと理解できた。心臓を鷲掴みにされるような感覚がして、私は息を呑み、たった今私を呼んだキングちゃんの顔を見る。

 天使は相変わらず、純粋で愛くるしい顔をしていた。悲しみなんて何一つ知らないみたいに、穏やかな呼吸と共に眠りについている。きっと今夜も、いい夢を見る。そうわかっていても、今この時、キングちゃんの手を離すつもりにはなれなかった。

 小さな手を、私の右手で包む。反対に左の手で、キングちゃんの顔にかかった前髪を払った。そうして、もう一度キングちゃんの頭を撫でる。今夜何度目になるのかは、もうわからない。

 ……きっと、寂しい思いを、させている。キングちゃんは、そういうことを私に感じ取らせまいとしているけれど。ふとした瞬間の表情や仕種でわかってしまう。

 いつも一緒にはいられない。それはもちろん、今時四六時中子供と一緒にいるという親の方が珍しいとわかっているけれど。それでも、私がキングちゃんに割いてあげられる時間は、きっと周りにいる子たちの親に比べて、ずっと少ない。

 

「……お母さまはここよ。ここに、いるわ」

 

 柔らかな鹿毛にそっと触れた。

 ……初めて、あなたをこの腕に抱いた時、誓ったのだ。世界で一番のお母さまになると。あの人が亡くなった時、約束したのだ。何があってもあなたを守る、決して不自由はさせないと。

 あなたを想わない日はない。私の心はいつだってあなたのそばにある。でも……それが、言い訳だって、わかってる。あなたが決して口にしない、あなたの本当の望みを叶えるものではないって、わかってる。

 私にできることは、私に許されたすべての時間を、あなたのために使うこと。こうしてそばにいられる間は、ずっとあなたと手を繋いでいること。暖かなベッドで眠りにつくあなたが、楽しい夢を見れるように見守っていること。

 

「ここにいるわ。――安心して、おやすみなさい」

 

 前髪を上げて、そっと額にキスをする。キングちゃんの寝顔が、ほんの少し、笑ったような気がした。

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