pixivの方では同短編集のサンプルとして公開していましたので、こちらでも公開します。
鼻歌交じりで湯船に浸かり、お母さまが隣に入ってくるのを待つ時間が、毎週末の一番の楽しみだった。
子供心にもわかるほど忙しかったお母さまだけど、コーディネートしたショーや、勝負服を担当したウマ娘のレースがない週末は、ずっと私に構ってくれた。服や靴を買いに行ったり、遊園地や動物園に行ったり、ご飯を食べに行ったり、そういうのも楽しかったけれど。私の一番の楽しみはと言うと、お屋敷のお風呂にお母さまと二人で入ることだった。
一緒にお風呂に入ると、お母さまは必ず私の髪を洗ってくれた。小さい頃はよくメイド長に洗ってもらっていたけれど、私はお母さまに洗ってもらうのが一等好きだった。指先が触れるとくすぐったくて、でもとっても温かくて、不思議と心が弾んでしまって。はしゃぐ私を、お母さまはよく笑いながらたしなめていた。「もう、髪が洗えないわ、キングちゃん」と囁かれるとしばらくはじっとしていられたけど、そのうち我慢がきかなくなって、結局最後にはお母さまをシャンプーまみれにしてしまった。お母さまは苦笑いしながらそっと私の頭を撫でて、丁寧に私の髪を洗い流した後、自分の体についたシャンプーを流していた。
体と尻尾まで洗い終わると、お母さまは私を湯船に浸からせて、自分の髪を洗い始める。肩まで浸かるように言われてたのに、それも忘れて湯船の縁に顔を乗せ、私はずっとお母さまを見ていた。艶やかな鹿毛が白い背中に流れると、とっても綺麗だなといつも思った。
「お母さまの髪、とても綺麗」
湯船から私が呟くと、お母さまはこちらを振り返って、照れくさそうにはにかむ。シャンプーを流し終わると指が伸びてきて、鼻先をツンとつつく。触れられたところがやっぱりくすぐったかった。
「ありがとう。キングちゃんの髪も、とっても綺麗よ。お母さまはその髪が大好き」
優しく笑ってお母さまはいつも頭を撫でてくれた。何度も何度も、飽きる様子もなく私の髪に触れてくれた。それが堪らなくくすぐったくて、嬉しかった。お母さまとよく似た色のこの髪が誇らしかった。
「キングちゃん。一つ約束して頂戴」
湯船の隣に入って来て、私を肩のところまで浸からせながら、お母さまはいつも言った。
「どんな時でも、髪と尻尾だけはきちんとケアすること。いい?」
それが一流の条件だとお母さまは言った。私は威勢良く頷いて約束した。それから、のぼせるまでおしゃべりする間、ずっとお母さまの髪を弄っていた。
幼い頃のその約束を、私は今も守っている。
「――いい仕上がりだね」
ウイニング・ライブ前の控室。スタイリストさんが仕上げてくれた私を見て、トレーナーは納得したように頷いた。彼の言う通り、今日も完璧な仕上がりだ。微塵の綻びもない。たとえセンターでなくても、一流は身だしなみに細心の注意を払うものだ。彼の評価に私も同意すると、スタイリストさんは出番が近づいたら呼びに来ると言って、控室を出て行った。
ふと、私は自分の肩のところに流れる、整えてもらったばかりの髪に触れた。普段からの手入れの甲斐あって、通した手櫛がするりと抜ける。触り心地も申し分ない。トリートメントの広告のオファーが来たって問題ないくらいだ。わざわざそんなことを確かめたのは、支度中に理由もなくお母さまとの約束を思い出したからだった。
「……髪と尻尾はきちんとケアしなさい、って。そういえば昔、お母さまがよく言ってたわ」
「キングの髪も尻尾も、いつも綺麗だもんね。お母さまの言いつけだったんだ」
トレーナーの言葉を否定する理由もなくて、でも少し釈然としないものを覚えながら首肯した。その拍子にまたさらりと髪が揺れる。私の自慢の鹿毛だ。
「急に思い出してね。まったく、どうしてなのかしら」
「さっき、お母さまと電話したからじゃないか?」
「……いつも通り、『頑張ってね』の一言もない電話だったじゃない。むしろお母さまのことなんて思い出したくなくなったわ」
「……君は嘘を吐くと、尻尾と耳によく出るね」
トレーナーからの指摘に喉の奥で声が詰まる。サッと尻尾と耳を隠す私に、彼は微苦笑を向けた。何だか無性に恥ずかしくなって頬が熱い。
「……ひ、ひとの尻尾を観察するなんて、デリカシーがないわっ」
顔の温度をごまかして抗議すると、トレーナーはやはり微苦笑のままごめんと謝った。
ステージの様子が見れるモニターには、障害レースの子たちのライブ映像が流れていた。そろそろ私のところにも声がかかるだろう。椅子を立って鏡の前で一回り。納得のいく仕上がりになっていることをもう一度確認して、トレーナーにもお墨付きをもらう。テーブルに置いたままにしていたスマホを取って、本番前最後のチェック。最近始めたウマッターというアプリに通知がたくさん来ている。それとは別に、ウマインにメッセージが数件。メッセージの方に手早く返事をして、アプリを落とそうかと思って、少し思い留まった。ホーム画面の最新履歴が通話時間の表示になっているトークがある。
……そんなことを思ったのは、髪の件を思い出したからだろうか。
「トレーナー、こっちに来なさい」
「どうした、キング?」
スマホで何かしらやり取りをしていたらしいトレーナーは顔を上げると、私の方へやって来た。その間にカメラを起動して自撮りモードにしておく。のこのこやって来た彼にスマホを手渡した。
「はい、本番前の一枚。撮影よろしく」
「わかった。キング、そこに立って――」
「何言ってるの、あなたも一緒よ」
えっと驚いた顔をしているトレーナーのスーツの裾を掴み、私の隣に引き寄せる。これならきっちり二人揃って映るはずだ。早くカメラを構えなさいと急かすと、彼はこのまま撮るのかとさらに当惑した様子だった。
なによ。このキングが、本番前にあなたと一緒に写真を撮ろうというのよ。素直に喜びなさいな。一流のウマ娘とトレーナー同士、これくらいいいじゃない。
強引に押し切ってスマホを構えさせる。表情と髪を整えて一流らしく一番の笑顔で。その横に映る彼は、いまだ当惑しながらも柔らかな微笑みを見せていた。私としては、もう少し力強く笑ってもいい気がするのだけれど。レース後のトレーナーはいつもこんな感じだし、私はそういう彼の笑い方も好きだ。
一度、二度とシャッターが切られる。映りは上々だ。お礼を言って早速スマホを返してもらう。
「……ウマッターには投稿しないでよ」
「しないわよ」
画像の送り先は一つだけ。通話時間が最新履歴になっているウマインのトーク画面を開いて、画像を貼り付ける。私とトレーナー、二人で笑っている写真が問題なく送信されたのを確認して、そのままアプリを落とした。それから今度は、ウマッター用の写真を撮る。
コメントを添えてウマッターに写真を投稿し、電源を切ろうとしたその時、ウマインに新しいメッセージが入ったと通知があった。画面の上に流れてきたメッセージは一つ。
『髪、きちんと綺麗にしてるのね。素敵よ』
通知はさらに来たけれど、それを確認する暇はなかった。スタッフが控室に現れて、準備をお願いしますと告げる。スマホの電源を落としてトレーナーに預け、彼に見送られながら控室を出た。
「さあ、最高のライブにするわよ!」
会場から吹いた微かな風が、自慢の鹿毛をさらりと揺らして過ぎていった。