昨年頒布した「キングヘイロー短編集」におまけとしてつけていたお話です。
幼いキングヘイローと、実家のお屋敷にある「開かずの間」のお話。
キングの実家に仕えるメイドさん(ゆーこ)が登場します。
私のお仕えしているお屋敷には、「開かずの間」と呼ばれるお部屋が一つございます。
とは申しましても、本当に開かない部屋という訳ではなく、単に日中ほとんどの時間は鍵がかかっているというだけのお話でございます。お屋敷のお部屋は基本的に、お屋敷の主である奥様のご意向で鍵がかけられていませんから、鍵のかかっているそのお部屋だけが目立ってしまっているという訳なのです。
「開かずの間」を開ける鍵は、お屋敷にたった一つだけしかございません。今はその管理を私が任され、お預かりしております。私の前はお屋敷のメイド長が管理しており、二年前に私が「開かずの間」の掃除を任された際に、鍵も預かることになったという経緯がございました。
それと、鍵を預かるにあたって、奥様よりいくつかの言伝もいただいております。掃除をするとき以外、部屋を開けないこと。奥様を決して部屋に入れないこと。それから――
――「――それから、もしも。もしも、キングちゃんが……娘がどうしても部屋の中を見たいと望んだら、入れてあげて頂戴」
最後のその言伝を特に重大なことであるように告げて、奥様は私へ鍵をお預けになりました。
奥様のおっしゃった通り、お嬢様は「開かずの間」に興味をお持ちのご様子でした。とはいえ、その興味はどちらかというと、得体のしれないものを警戒するそれであったように、最初の頃はお見受けいたしました。私が掃除をしていると、廊下の影から遠巻きにこちらをお窺いになって、心配そうに瞳を揺らしておりました。「おへやにはいってだいじょうぶなの?」とメイド服のスカートを引っ張られたことも幾度かございます。私はその度に「大丈夫ですよ。お掃除をしているだけですから」と答えておりました。お嬢様はそれに納得はされていないご様子で、「わかったわ」とお答えになっても決して「開かずの間」へお近づきになろうとはなさいませんでした。
けれどこのところは、少しお嬢様の興味が変わってきたように思います。小学校へと入学されて、また一段と成長され、しっかりとお考えになるようになったからでしょうか。「どうも怖いものではないようだ」というのにお気づきになったらしく、好奇心に満ちた目で「開かずの間」とそこの掃除をする私を見つめるようになりました。
「入ってご覧になりますか」
何度か尋ねてみたことはございます。けれどお嬢様は、しばらく迷った後に首を振って拒否をされました。最初の頃の、怖いものを恐れる様子ではございません。好奇心を理性で押さえていらっしゃるようでした。お屋敷の中で唯一鍵がかけられている部屋であることも、そして「開かずの間」に奥様が決して近づこうとされないことも、お嬢様は理解しておられるご様子でした。きっと、何か目にしてはいけないものがあるのだと、ある程度わかっているようでございました。
……ですが、部屋の中を知る私としては、そんなことは決してないと思うのです。お嬢様が目にしてはいけないなどと、そのようなことは断じてございません。部屋に鍵をかけている理由は、お嬢様に見せないためではなく、奥様が見ないようにするためなのだと、いい加減理解できてまいりました。
「――ねえ、ゆーこ。このお部屋の中には、何があるの」
ですから今日。掃除を終えた私へそうお尋ねになったお嬢様に、私は隠し立てをするつもりは一切ございませんでした。
「気になりますか、お嬢様」
今まさに鍵をかけようとしていた手を止め、私は身を屈めてお嬢様に尋ねました。目の合ったお嬢様はしばらく迷うようにして瞳を揺らした後、とても慎重に一つ頷かれます。私はそれに微笑んで、差したままだった鍵を抜き、「開かずの間」の扉を開きました。カーテン越しの柔らかな日差しが部屋には満ちております。
「……入って、いいのかしら」
「はい。お嬢様が望まれるのなら入ってもよいと、奥様が」
お嬢様はまじまじと私を見て、それから意を決したように小さなおみ足を踏み出されました。そのお背中に続いて、私もお部屋に入ります。
「開かずの間」は、お屋敷の他のお部屋と同じ洋室でございます。内装もさして変わってはおりません。机と本棚、クローゼット。使う者がいないために布団やシーツこそ備えておりませんが、ベッドも置かれております。このお部屋だけが、まるで時が止まってしまったかのように、生活感のない静けさで支配されております。
お嬢様は一通りお部屋を見回されたあと、ゆっくりと本棚の方へ歩み寄られました。分厚い本がいくつも収められた本棚の、中段あたりはガラス戸になっており、中にはトロフィーや盾が並んでおります。それぞれの横には必ず一枚のお写真が添えられていて、どれも同じ二人組が映されておりました。
一つひとつ、お嬢様は煌びやかなトロフィーとお写真とを、交互に食い入るように見つめておりました。やがて全てをご覧になったのか、本棚に収まった本の背表紙をなぞっていきます。どれもウマ娘のトレーニングに関する本ばかりでございました。それも終わると、今度は机の方へと歩み寄っていかれます。ほとんど物の置かれていない、真っ新な机でございますが、たった一つ使い古された写真立てだけが伏せて置かれております。それを、まるで本のページでもめくるように丁寧に、お嬢様は表にされます。収められた写真の中身は、私の位置からでは光が反射してよく見えませんでした。けれど、先程と同じような二人組が映っていたようにお見受けいたしました。それと、写真のお二人が、何かとてもとても大切なものを抱えていらっしゃるようにも。
お嬢様は黙ったまま写真を見つめておりました。指先がガラスの上を滑り、写真を一撫でされます。それからまた、元のように写真立てを伏せて、お嬢様は私を振り返りました。
「……お父さまの、お部屋だったのね」
お嬢様の問いかけに、私は黙ったまま頷きました。
お嬢様のお父様――旦那様とは、私は直接の面識はございません。私が奥様に雇われるより前に亡くなられたと聞いております。その頃、お嬢様はまだ、随分と幼かったということも。
このお部屋には、お嬢様の知らない旦那様の思い出が、詰まっているのです。
「お母さまの思い出がたくさんつまっているわ」
お嬢様はポツリとそう呟かれました。
部屋の中を一通りご覧になったお嬢様は、入口で待っていた私のもとへと、ゆっくり近づいてまいりました。私を上目遣いに見つめるお嬢様が、クイッと小さな手で私のメイド服を引っ張ります。私は再度身を屈め、お嬢様と目線の高さを合わせました。
お嬢様は真ん丸でキラキラとした瞳をわずかばかり揺らし、とても慎重に言葉を選ぶようにして私へ尋ねました。
「……ねえ、ゆーこ。お母さまはどうして、このお部屋に入らないの」
お嬢様のとても純粋な問いかけは、しかし答えようとすると少し難しいことのように思えました。私は「そうですね」と一度目線を床へ落とし、言葉を考えます。お嬢様はそれをじっと待っていてくださいました。
聡明なお嬢様へきちんと伝わるよう、私はその瞳を真っ直ぐに見つめ、つとめて優しく映るようにと表情を緩めます。
「思い出が詰まりすぎていると、それに甘えたくなってしまうのですよ」
私自身にも少し覚えのあることを、私はお嬢様へのご説明の言葉として選びました。
どういうこと、とお嬢様は私を見つめたまま首を傾げます。陽の光を浴びて艶やかな輝きを見せるお嬢様の鹿毛を、私はそっと手で撫でました。
「思い出は大切ですが……過去ばかり振り返っていても、前には進めないのです。ですから奥様は、このお部屋に入りたがらないのだと思います。――前を向いて、一生懸命、今を生きるために」
「……でも、それはとても寂しくないかしら。――私はいやよ。お母さまとの楽しかったこと、思い出せないなんて」
小さなお手を胸の前で拳にして、お嬢様は悲しそうなお顔をします。とてもお優しい方です。奥様が悲しまれるのを、お嬢様は一番嫌われます。「お母さまには笑っていてほしいの」といつもおっしゃいます。
私はお嬢様に「大丈夫ですよ」と語りかけ、柔らかな髪を撫でながらもう一度笑って見せました。
「大切な思い出は、いつでも胸の内にあるのです。例え触れられなくても、ちゃんとあるのです。――それに、寂しくなどございませんよ、奥様は。こんなに可愛らしい、奥様のことが大好きなお嬢様がいらっしゃるんですもの」
私の言葉の意味を確かめるように、お嬢様はその栗色の瞳を揺らして、私を見つめておりました。拳をそっと開くと、手のひらを胸に押し当てて、ゆっくりと瞼を落とされます。やがて納得したように、一つ、二つと頷かれました。
お嬢様はにこりと、あたかも春の花を咲かせるように笑いました。
「ありがとう、ゆーこ。このお部屋に入れて、よかったわ」
ぺこりと頭を下げたお嬢様に、私も一礼で返します。これでよろしかったでしょうか、奥様。今日も帰りの遅いという依頼主に、私は心の中で尋ねます。いずれにせよ、ご報告は差し上げなければ。
「ゆーこ」
お部屋を出て、鍵をかけたところで、お嬢様は再度私を呼ばれました。私を見つめるまあるい瞳に、決意の光が宿っております。それは丁度、私に鍵をお預けになった時の、奥様の瞳にそっくりでございました。
「私、これからはもう、お父さまのお部屋には入らないわ」
「……よろしいのですか」
「ええ。キングは過去を振り返らない。前を見て、一生懸命生きていくわ。――それに」
お嬢様は今一度、ご自身の胸に手のひらを重ねました。一秒、二秒、ゆっくりと呼吸をしながら目を瞑ったお嬢様は、やはり柔らかな笑みを浮かべます。
「お母さまの大好きな人だもの。きっと私のここにも、お父さまはいるわ。お部屋に入って思い出す必要なんて、ないじゃない」
優しい色の瞳に微笑まれると、私はどうしようもなく頬を緩めて、「はい」と答えてしまうのです。