久しぶりにうっすらキン×トレ風味のキングヘイロー。
キングヘイローが高等部三年になった設定です。
夕食後に訪れたトレーナー室には、案の定今夜も明かりが灯っていた。
「トレーナー、入るわよ」
ノックもそこそこに中へ告げて、引き戸を開く。最近大掃除をしたからか、いくらか滑りの良くなった扉がスルスルと動いた。部屋の中を見遣ると、特に驚いた様子もなくこちらを向いた瞳と目が合う。部屋の主は持っていたペンを傍らへ置いて、私へ部屋のソファを勧めた。
「いらっしゃい、キング。何となく来る気がしてた。――お茶でも淹れようか」
「ええ、そうね――」
すぐさま腰を浮かせかけたトレーナーに、いつものようにお茶をお願いしようとして、ふと思い留まる。左手に提げた袋を一瞥。今しも電気ケトルとティーセットの方へ向かおうとする彼を、私は寸でのところで制する。
「いいえ、いいわ。今夜は特別に、私が淹れてあげる。――だから、仕事は一旦、紅茶が入るまでになさい」
「……ああ、わかった。それじゃあ、お言葉に甘えて」
迷うような素振りの後、トレーナーは頷いて浮かせた腰を席へ落ちつけた。すぐに開きかけだった書類と、パソコンとの同時睨めっこが再開される。もうすぐ使い切りそうなノートに、彼は素早くペンを走らせていた。
仕事を続けるトレーナーを尻目に、私は私でお茶の準備を始める。手にしていた袋をテーブルに置いて、代わりに電気ケトルを手に取る。一旦トレーナー室を出て給湯室で中を濯ぎ、水を入れてスイッチをセット。あとはお湯が沸くまでの間に、ポットとカップの準備をする。
壁際の戸棚を開いて、中からティーセットを取り出す。トレーナーの担当するウマ娘が増えたこともあって、部屋備え付けのティーセットの数も随分多くなった。彼と私、二人分しかカップが並んでいなかった頃が、今は最早懐かしい。
感慨深いものを一先ず頭の隅へ押し遣り、二人分の茶葉を測ってポットへ入れる。後はお湯が沸くのを待つばかりだ。途端に手持無沙汰になった私は、テーブルの上で仕事中の電気ケトルを見つめつつ、ソファへ深々と腰掛けた。視線を少し上にすると、自分のデスクで書類を読み耽るトレーナーが目に入る。チームの後輩たちのスケジュールでも考えているのだろう、時折レースの名前を呟きペンを動かす。かと思えば、何かを考え込むようにして拳を口へ当て、しばらく動かないこともあった。
ゆっくり息を吐いた拍子に目元から力が抜ける。唇の端が緩くなって、慌てて両の手でそれを隠した。だらしのない顔は、どうやら彼には見つかっていないようだった。
お湯が沸くまでの間、ソファからトレーナーの姿を見つめていた。そのうち電気ケトルのスイッチが落ちる。二人分のお茶を淹れている間に、彼も自分の身の周りを整頓していた。持ち込んだ袋の中身を取り出そうとする頃合いで、彼もソファに腰掛ける。角を挟んで隣り合う彼の前に淹れたての紅茶を差し出した。
「どうぞ。――仕事は一段落した?」
「ありがとう。――一応は。もう少しやるけど」
「そう言うと思った」
今年も新加入のメンバーを迎え入れ、私を含めて五人のウマ娘を担当する彼の仕事量は、単純計算で去年の二倍近くになる。私と二人三脚だった頃に比べて慣れてきたとは言っても、そう易々とこなせる量じゃないのはわかっているつもりだ。私たちのトレーニングが終わった後も、このトレーナー室には門限近くまで明かりが灯っている。きっと今日も彼は門限ギリギリまで資料と格闘するつもりだろう。
だからこそ、私はこうしてトレーナー室を訪ねた訳だ。
「はい、これ。差し入れ」
袋から取り出した物をトレーナーの方へ差し出す。プラスチックのカップに入ったプリン。ウララさんに連れ添ってコンビニへ行った時に買った新作だ。疲れた時にはやはり甘い物に限る。
華やかなデザインのティーカップ、その隣にプラスチック容器のプリンが並んだ。一緒に用意しておいたスプーンも差し出す。私たち二人にはお馴染みの光景だ。
新作か、と呟いてトレーナーは早速プリンを手に取った。
「ありがとう。丁度甘い物が欲しかった」
「どういたしまして。そろそろ甘い物が無くなる頃合いだと思って」
トレーナー室の戸棚には、一応菓子の類が常備されている。ミーティングのお供とか、トレーニング中の栄養補給用だ。そのお菓子を、彼が仕事の合間に少し摘まんでいるのは、私だけが知っている秘密でもある。
「買い足さないとな」
トレーナーは呟いてプリンを一口食べた。私もそれに倣おうと、プリンの蓋を開ける。クリーム色の表面をスプーンでひとすくい。一口分のそれを口にすると、濃縮された甘さが舌の上に広がっていった。極上の花のように華憐な香りと相まって私の感覚を支配する。一口でも幸せになれる甘さだ。
「これは当たりね」
「ああ、おいしいね。疲れも吹っ飛ぶ甘さだ」
「体に染みる感覚がするわ」
二人して表情を緩めながら感想を述べて、もう一口味わう。それから、私の淹れた紅茶に手を伸ばした。舌に残る濃密な甘さを、紅茶の爽やかさと温かさでゆっくり溶かし、揃って息を吐く。
そうやって、しばらくは二人でお茶の時間を楽しんだ。プリンを少しずつ減らしながら交わす会話は、いつも通りレースとトレーニングのこと。最近は後輩たちのレースプランやトレーニングメニューについて、彼から助言を求められることも増えた。五年分の経験と、私自身の考えを元に、答えさせてもらう。メモまで取って真剣に聞いてくれるから、私としても満更でもなかった。
いつの間にやら紅茶もプリンも残りがなくなる。最後の一口をすすった私に、カップを置いたトレーナーが尋ねた。
「それで、キング。今夜はどういった用件で来たのかな」
何となくこちらの事情を察しているのか、やや苦笑いしながらの問い掛けだった。わかっているのなら話が早いし、今更遠慮もない。私はほくそ笑んで、傍らのセカンドバッグから参考書とノートを取り出した。
「私の用件はこれよ」
「……やっぱりか」
トレーナーは呟いて、くしゃりと苦笑いを深くした。私はそれには答えず、愛用のペンケースも取り出す。消しゴムと共に取り出したシャープペンは、手が疲れにくいデザインだと言って、彼が誕生日にくれたものだ。
着々と勉強の準備を進める私に、トレーナーはもうわかりきったことを確認した。
「君はまた、俺に門限の延長を申請させるつもりだね」
「あら、よくわかってるじゃない。光栄でしょう。キングの穏やかな勉強時間確保に協力できるんだから」
「……まあ、構わないけど」
適当な理由を考えたのか、トレーナーはすぐにスマホを取り出して、通話を始める。相手は栗東の寮長らしく、手慣れた様子で話を進めていき、二分後には門限延長の申請が取れた。私はそれに満足して笑う。
職権乱用かな、とおどけた様子で呟き肩を竦めたトレーナーは、そもまま席を立った。自分の作業机とその周りをごそごそ探り、しばらくして戻って来る。抱えた資料を机の隅に重ねた。私が勉強する間は、ここで仕事をするつもりらしい。これもいつも通りだ。
「それじゃ、始めるから」
「ああ、どうぞ。俺もここで仕事してる」
「一時間したら紅茶を淹れて頂戴。ミルクティーがいいわね」
「お安い御用だ」
トレーナーが頷いたところで会話を切り、それぞれの作業へ没頭していく。夏休み前の期末試験、それに模試も控えている私は数学の参考書を解いていく。その隣で資料を広げる彼は、時折ペンを走らせ、また時折パソコンのキーボードを打って仕事を進める。
門限までの二時間弱。一週間に一度程度、不定期なこの時間が、最近の私のお気に入りだ。
夏が近づいてきた六月の夜は、日中の熱を残すように生温い。梅雨が始まればここに湿気も混じるだろう。あと、虫も。それを思うと少し憂鬱だけれど、これからの季節特有の夜の雰囲気を、私は嫌いになれなかった。
「少しずつ夏になってきたね」
トレーナー室から寮までの帰り道。隣で歩くトレーナーはポツリと呟いた。丁度同じことを考えていた私は、妙な同調に思わず笑う。
「そうね、また今年も夏が来るわ」
当たり前のことを、何の変哲もない言葉にしただけだ。トレーナーの言葉をそのまま写し取ったとも言える。でも不思議と、それだけで心躍らせている自分がいた。別に特別好きな季節という訳でもなく、むしろあのうだるような暑さは苦手な方だけれど。まったく、変な私。
「夏は伸び時だし、みっちりトレーニングを積まないとよね。まあそれに、先輩として後輩たちもビシバシ指導しないと。特に新人二人はデビューしたてだし、気合いも入ってるでしょう。鉄は熱いうちに打て、よね。そうなると、私も負けていられないわね。学生生活最後の夏だし――」
そこまで言って、はたと気づいた。今更だけれど……私にとってはこれが、最後の夏だ。トレーナーにスカウトされて、レースもトレーニングも重ねて、これが五回目の夏。当然の時間の流れに今更思い至る。
「……来年は、もうないのね」
夜に溶かした呟きは、多分彼には聞こえなかったはずだ。
横のトレーナーを窺う。初めて会った時は少し頼りなく感じた顔立ちも、この五年で随分印象が変わったように思う。それはそうだ、今や五人のウマ娘を担当するトレーナーで、学園内でも注目されている若手の一人だ。選抜レースの時にウマ娘側から声をかけられていた場面も二、三度目にしている。そういうのを見ると、私も我がことのように誇らしい。まあ五年も一緒にいるわけだし、その相手が評価されているというのはいい気分だ。
けれど、トレーナーの隣にこうして立っていられる時間は、決して長くはないだろう。レースの世界を離れるという選択肢は、今のところ私にはないけれど。この世界にいる限り、彼と走り続けるつもりでいるけれど。それでも学園を卒業すれば、こうして彼と歩く時間が減ることくらい、理解している。
胸の辺りが、ほんの少し、チクリとだけ痛んだ気がした。
「……トレーナー」
寮の玄関まで送ってくれたトレーナーを、無意識のうちに呼び止めていた。彼の方へ伸びそうになった右手を左手で留める。次の言葉を考えていなくて、目線を斜め下へ落とした。
「ごめんなさい、なんでもないわ。それじゃ、おやすみなさい」
「キング」
踵を返そうとしたところで、反対にトレーナーが私を呼び留める。口角を吊り上げて彼は笑っていた。私と一緒にレース前インタビューを受けている時の、あの挑戦的な笑顔だった。
「最高の夏にしよう。君らしく」
一切の躊躇いを感じさせず、トレーナーはそう言い切った。真っ直ぐ私を見つめて、真っ直ぐな言葉で、真っ直ぐに想いを口にする。
胸の痛みなんて、きっと私の気のせいだ。
「――おーっほっほっほ! いい心掛けじゃない、さすがは私のトレーナーね。ええ、ええ、最高の夏にしてみせるわ。あなたも私も、この先一生忘れられないくらい、とびっきりの夏にね。あなたにはその権利をあげる」
「光栄だね」
笑ったトレーナーと、まるでレース前みたいに拳を突き合わせる。何か面白そうなことを探しておくと、トレーナーは約束してくれた。
お互いに「おやすみなさい」と言って、今度こそ踵を返す。部屋への道すがら、人のいない廊下でスキップした拍子に、脱げたスリッパが明後日の方へ飛んでいった。