キングヘイローまとめ   作:瑞穂国

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連日投稿の二作目です。
キングとお母さまのお話。


あなただけの勝負服

 緊張した面持ちで部屋へと入ってきたウマ娘は、緩いウェーブのかかった綺麗な鹿毛をしていた。

 端正な面持ちと勝気な栗色の瞳が印象的な美少女。あどけなさは残るものの、立ち姿や小さな所作からは気品と育ちの良さが感じられる。名のある良家の令嬢か、あるいはどこかの王族の姫様か、そんな雰囲気であった。

 

「キングヘイローです。本日はよろしくお願いいたしますわ」

 

 綺麗に腰から上半身を折って一礼するウマ娘――キングヘイロー。そんな彼女の横に立つ若い男性も、揃って頭を下げた。どことなく騎士のような雰囲気の、こちらも見事なお辞儀だった。襟もとにキラリと光るバッジから、彼が中央トレセン学園所属のトレーナーであることがわかる。

 短くも素晴らしい挨拶をしてくれた二人。しかし顔を上げても、やはりウマ娘の方は緊張が解けない様子だった。GⅠを勝利した経験のあるウマ娘が、こうした打ち合わせで固くなることは珍しい。最高峰のレースを勝つだけあって、年齢以上に落ち着いた雰囲気で臨む子がほとんどだ。しかし、こと今日のこの子に限っては、それも無理のないことだと思った。

 栗色の瞳が揺れている。その視線は、入室した時からずっと私のすぐ隣へ向けられていた。

 私がパートナーと認めた、一流デザイナーであるウマ娘がそこには立っている。チラリと窺ったその横顔は、普段と変わらず涼やかに見えるだろう。しかし隣の私には、目の前のウマ娘と同じかそれ以上に緊張で強張っているのがわかった。緩くまとめた鹿毛の合間に覗くうなじを冷や汗が通り抜けている。ここがデザイナー事務所の応接室ではなく、行きつけのバーであったら、彼女は真っ先に私へ泣きついてきただろう。

 ようやく、という様子で震える唇を開いた彼女が、二人の来訪者に用意された席を勧めた。

 

「……よろしくお願いいたします、キングヘイローさん。――どうぞ、お掛けになってください」

「……ええ、失礼します」

 

 勝負服デザイナーと競技ウマ娘。本来であれば、互いに仕事上の付き合いでしかない間柄だ。和やかな雰囲気づくりに努めることはあっても、ここまでぎこちない間合いが流れることはない。そんな空気には絶対にしない手腕を、隣の彼女は持っていたはずだ。しかし今日はそのスキルがまったく発揮されていない。

 勝負服デザイナーと競技ウマ娘――母と娘。実に数年ぶりとなる親子の対面を目にした私は、感慨深いものを感じながら、他の同席者と共に席へ着いた。

 

 

 

 

 

 

 勝負服の裁縫師なんて仕事をしていれば、当然のことながらデザイナーとの繋がりができる。人付き合いとか、伝手とか、縁とか、どうやってもそういうのとは切り離せない業界だ。いい仕事をして評価されたければ、いいデザイナーの勝負服を担当する必要があるし、逆にデザイナーも腕の立つ裁縫師とのパイプを持ちたがる。世知辛いようだが、技術や才能だけでご飯は食べられないのだ。

 幸いにして、私には技術と才能も、そしてそれを活かせるパイプもあった。テーラーであり、幼少の頃から裁縫を教えてくれた両親と、業界各所にパイプを持ち、それを私へ引き継いでくれた師匠には、感謝してもしきれない。

 技術も伝手もあり、業界でも一流と呼ばれる私は、それだけに様々なデザイナーと繋がりがある。しかしそんな中でも、取り分けて付き合いの深いデザイナーというのが、一人いた。お得意様、という言い方もできるが、どちらかと言えばパートナーだろうか。お互いにお互いの技術へ惚れ込んだ者同士、という奴だった。何かとウマが合ったこともあり、気づけばプライベートでも友人と呼べるくらいの付き合いになった。

 彼女は元競技ウマ娘だった。それも錚々たるタイトルを獲得した一流のウマ娘。しかし驕ったところは一つもなかった。それはもちろん、デザイナーとしての矜持やプライドはあったし、それが原因で頑固な私と衝突することもしばしばだったが、よく人の話を聞き、そして謙虚で素直だった。一人の仕事人間として、その姿勢には敬意を表していた。

 他方、仕事の関わらない、プライベートな彼女は、どこか抜けたところのある人だった。仕事をしている時の優秀なイメージはどこへやら、どこにでもいるような――いいやどちらかというと常人より不器用でおっちょこちょいな、放っておけない可愛さのある人だった。そして何より子煩悩だった。

 競技者だった頃に結婚し、出産もしたという彼女は、いつも肌身離さず娘さんの写真を持っていた。スマホの待ち受けはいつも娘さんの写真か、娘さんと彼女のツーショット。二人でランチをしている時も、必ず娘さんの話が出る。やれ、かけっこで一番を取っただの、テストで百点だっただの、彼女の似顔絵を描いてくれただの、そんな話を飽きもせず笑顔で話して聞かせてくれた。

 

「愛されてるね、キングちゃん」

「……ふふっ、そうかしら」

 

 私がそう言うと、汗を掻いたアイスコーヒーをストローでかき混ぜながら、彼女は照れくさそうに笑った。黒曜石のような液面を見つめる目は、年下には思えないほど大人びて、そして綺麗だった。

 

「あの子には、幸せになってほしいの」

 

 母としての言葉は、願いとも祈りとも取れる響きで、少し息を呑みながら、私も「そうだね」と頷いた。そうすると彼女は、何とも優しく笑うのだった。

 

 

 

 

 

 

 彼女から珍しく飲みに誘われたのは、ファッションショーのために揃ってホテルへ宿泊した時のことだった。

 普段の彼女は「キングが待っているから」と、お酒の席には全く参加しない。こうして翌日にショーを控えて準備に追われた日や、勝負服をデザインしたウマ娘のレースを観に来た日なんかに、ホテルへ泊まることになった時だけ夕食に参加する。しかしそれも、彼女から誘ってくることはなかった。いつも私や、彼女の同僚が連出して初めて、彼女はお酒の席へ顔を出す。

 だから、彼女から声を掛けられるのは、本当に珍しいことだった。

 

「キング……本気で、トレセン学園に入学するつもりらしいの」

 

 イタリアンのお店で腹を満たし、近場の静かなバーへ場所を移すと、頼んだカクテルが届く前に、彼女がぽつりと呟いた。

 トレセン学園と言えば、ありとあらゆるウマ娘レースの最高峰、トゥインクル・シリーズに出走するウマ娘たちの集うところだ。特に選りすぐられたエリートのみが在籍することを許される、競技ウマ娘にとってあこがれの場所。私が生業としている勝負服を着ることができるのも、トレセン学園に所属し、トゥインクル・シリーズでGⅠレースに出走するウマ娘だけだ。

 彼女の娘さんは、その学園に入学し、競技者を目指すのだという。奇しくも、母と同じ道を歩もうとしているのだ。

 彼女の表情はこれ以上なく曇っていた。

 

「……反対なの?」

 

 私が尋ねると、彼女は勢い良く首を振った。綺麗な鹿毛が彼女の心を表すように乱れていた。

 

「……わからない。でも、心配なの」

 

 出されたカクテルをチビチビと口にしながら、彼女は訥々と語った。そこには、レースに関わる者として私が知っていることもあり、また逆にレースを走った者しか知り得ないこともあった。

 競技者を目指すウマ娘は、同じ世代でも七千人前後。上や下の世代も含めればその数は数万人に膨れ上がる。トレセン学園だけでも、その人数は中・高等部合わせて二千人を超える。その中で、レースに出られるのはたったの十数人。しかも一着になれるのは、たったの一人。シニア級になれば、ウマ娘は常に数万分の一という頂点を目指して走ることになる。どれほど才能があろうと、どれほど努力しようと、どれほど挑み続けようと、それだけではもうどうしようもないものがあるのだと、彼女は言った。

 

「娘は……キングは、才能のある子よ。脚は速いし、努力もできる。親の贔屓目なんかじゃない。あの子には一流の素質がある。だけど……だけど……」

 

 それだけで勝てる世界じゃない。元一流競技ウマ娘の語るレースの現実は、どんな言葉より重かった。

 

「結果が出せなくて、走ることが嫌になって……学園を辞めていく娘を、何人も見たわ。同期も、後輩も、先輩も……何人も何人も何人も。私より脚の速い娘もいた。私より努力している娘もいた。私にはない素質を持っている娘もいた。……そんな娘でも、勝てない世界なの。夢を潰されて、涙すら枯れ果てて、走ることすら嫌になってしまう、そういう世界なの」

 

 彼女は震えていた。両の腕で自分自身を抱え込んで、小さく椅子の上で丸まるようにして、青い顔で震えていた。

 

「……それは、やっぱり、入学には反対ってこと?」

「違うっ。違う……違う、けど……」

 

 声は今にも消えてなくなってしまいそうだった。心配そうにこちらを窺うバーテンダーに「大丈夫です」と目配せして、私は彼女の背をさすった。ぽたぽたと雫がカウンターの上に零れていた。

 

「……怖い。怖いの。あの子を応援したい、背中を押してあげたい……でも、すごく怖いの」

 

 娘さんの話をするときは、いつでも太陽みたいに笑っていた彼女。その彼女が今、ぼろぼろと涙を流していた。堪えることも、留めることもままならない様子で、彼女は泣いていた。

 

「キングは、頑張り屋さんだから。私の娘は、誰よりも努力家だから。あの子は、一流のウマ娘だから。――だからきっと、私が『頑張って』と言ったら、本当に頑張ってしまうのよ。どこまでもどこまでも、ボロボロになるまで頑張ってしまうのよ」

 

 そんな無責任なことを、娘には言えない。悲痛な親心の叫びだった。

「娘には幸せになってほしい」、幾度となく彼女が繰り返していた言葉を思い出した。彼女はいつだって、娘さんの幸せを一番に願っていた。娘さんが笑顔でいてくれることが、彼女の何よりの幸せなのだと語っていた。

 だから、彼女はこれほどまでに心配しているのだろう。レースが娘さんから笑顔を奪ってしまうのではないか、と。ウマ娘にとって生き甲斐にも等しい「走る」という行為を、娘さんが苦痛に感じてしまうのではないか、と。彼女自身がそういうウマ娘をたくさん見てきたからこそ、不安で、心配で、怖いのだ。例えそれが、娘さんの望んだ道の結果なのだとしても。

 

「どうしたらいいか、わからないの」

 

 それは私も同じだった。一人で娘さんの未来を抱え込み、どうしたらいいのかもわからず涙する彼女に、どんな言葉を掛ければいいのかわからなかった。可愛い娘の夢を応援したい、けれど親として無責任なことはできない、二つの心に挟まれ苦しむ友人に、何と言えばいいのかがわからなかった。赤子でも癒すように背をさする他なかった。

 結局その夜は、少しも酔えずにホテルへと戻った。次の日、何事もなかったように仕事をこなす彼女に、一流デザイナーとしての意地と矜持を見た気がした。

 

 

 

 彼女の娘さんが、半ば家出するような形でトレセン学園に入学したことを知ったのは、それから一年ほど後のこと。彼女が初めて、平日に私をお酒に誘った夜のことだった。

 

 

 

 

 

 

 裁縫師という仕事は、デザイナーと違ってトレセン学園に足を運ぶ機会がよくある。担当する子の採寸や、勝負服の修繕と仕立て直し、時にはサポート科の服飾の授業を手伝うこともある。

 トレセン学園を訪れると、仕事の傍ら、私はそれとなく娘さんの姿を探していた。娘さんのことは小さい頃から知っているし、歳は離れているが妹のような存在だ。彼女のことを抜きにしても、娘さんのことは気になっていた。

 とは言っても、あまりにも広大な敷地に各科合わせて数千人の生徒や教職員、トレーナーの在籍する学園内で、娘さん一人を見つけることは難しかった。仕事で来ている以上、方々探し回るわけにもいかず、せめて遠目にでも見つけられればと思っていたが、そう上手くはいかなかった。

 だから、娘さんの方から私へ声をかけて来た時は、非常に驚いた。

 お昼休みのカフェテリア、食べ盛りのウマ娘たちで賑わう空間の一角で、私は娘さんと向かい合っていた。幼い頃から何度も顔を合わせているけれど、娘さんと私の二人だけ、というのは、思えば初めてかもしれない。

 小さい頃から、同年代の子と比べると大人びて、しっかりした子という印象の少女だった。しかし、こうして改めて顔を合わせると、やはり年相応の、あどけなさの残る少女だ。おかわり自由だというカフェテリアのランチメニューを、悩まし気に選ぶ横顔がなんだか微笑ましかった。

 

「裁縫師さんがいらしているとは聞いていましたけれど、知り合いだったので驚きました。思わず声を掛けてしまって……お仕事中にすみません」

 

 頭を下げた娘さんに、「いいのよ」と答えて笑った。私もあなたを探していたのだ、という話をすると、栗色の鮮やかな瞳が真ん丸に見開かれた。「そうですか」と言って、少し照れくさそうに毛先を弄る癖が、小さい時から変わっていない。でも、言葉遣いも声色も、やや大人の色を帯びていて、年の離れた姉としては少し寂しい気もした。

 お互いの近況を話しながら、パスタを巻いた。とは言っても、私の方は変わらずの仕事なので、これといって話すこともなかった。自然、話題は娘さんのこと――トレセン学園とレースの話になった。

 入学したばかりの娘さんには、まだ指導をしてくれる人――トレーナーはついていないという。トゥインクル・シリーズへ出走するためにはまずトレーナーにスカウトされ、どこかのチームへ所属する必要があった。そしてスカウトを受けるためには、年に数回開催される選抜レースへ出走しなければならない。

 

「まずは選抜レースの出走権を獲得します。そしてトゥインクル・シリーズへの出走も、近いうちに、必ず」

 

 真っ直ぐに私を見て語る目は、娘さんの並々ならぬ決意を感じさせた。譲れない夢――それが叶うか叶わないかは別にして――を持っている者の目だ。私の決して短くない人生の中で、その目には何度かお目にかかったことがある。

 ああ、この子は本気なんだ。私だって本気で夢を追いかけてきた人間だったから、それくらいはわかった。そしてはたと気づく。きっと彼女も、この瞳に見つめられたのだろう、と。

 その時、彼女は何を思ったのだろうか。

 

「あの……何か?」

 

 ふとした思考に沈んで黙った私を、娘さんが覗き込んだ。さっきの決意とは裏腹に、少し不安げで寂しそうな目だった。慌てて首を振り、なんでもないと答えた。

 

「頑張ってね、キングちゃん」

 

 少し迷って、でも結局そう告げることにした。友人の娘さんを――随分年の離れた妹を応援したい気持ちは本当だ。でも、それは確かに、無責任な期待と願望であるように思える。

 娘さんは、微かに笑って頷いて、そして真剣そのものの表情で「はい」と答えた。けれど、栗色の目が見つめる先は、目の前の私より少し遠い場所のように感じた。

 

 

 

 

 

 

 トレセン学園へ所用があると、時折、娘さんと会うようになった。とはいえ、それほど頻繁ではない。私が学園を訪れる頻度は不定期で、一週間のうちに三度も足を運ぶこともあれば、数か月特に要件もなしという時もある。そして訪問すれば毎回娘さんと会える、という訳でもない。私には仕事が、娘さんには学業とトレーニングがあるわけで、両方の折り合いが上手くついた時だけ昼食を共にした。

 選抜レースへの出走権を得た、という話を娘さんから聞いた後、しばらく会える機会がなかった。学内開催のレース結果を部外者が知る方法はない。結果はどうだったのか。トレーナーからのスカウトは受けたのか。そろそろ訊いてもいいだろうかと思案していた時、「娘からトレーナーを紹介された」と彼女から聞かされた。

「お寿司が食べたい」という彼女を、幼馴染が大将をしているお店へ連れて行って、話を聞いた。選抜レースの結果が芳しくなかったこと。けれど素質を見込まれて、トレーナーのスカウトを受けたこと。トゥインクル・シリーズへのデビューに向けて練習を始めたこと。チビチビと日本酒を口にする彼女は、時に嬉しそうに、時に不安そうに、時に誇らしげで、時に寂しげで、時に泣きそうに話してくれた。

 

「担当は新人のトレーナーらしいわ。専属でウマ娘を担当するのもキングが初めてだって」

 

 へえ、と少し驚いた。娘さんはトレーナー選びにも妥協しないと言っていた。いくらレース結果が芳しくなくて、他にスカウトを受けなかったとしても、実績も何もない新人のスカウトを受けるとは思わなかった。それとも何か、余程のものが、そのトレーナーにはあったのだろうか。

 

「経験も実力の内よ。トレーナーっていう職業もそう。新人の頃からウマ娘を勝たせてあげられるトレーナーなんて、どんなに強いウマ娘を担当しても、ほんとに一握りしかいないわ。……だから、心配」

 

 でも、と彼女は少し笑う。

 

「キングの素質を見抜くなんて、将来有望なトレーナーね」

 

 親バカ、と思わず呟いてしまったことは、お酒も入っていたので許してほしい。

 

 

 

 

 

 

「似た者親子」という言葉は、彼女と娘さんのためにあるのだと思う。

 

 

 

 とあるレースに娘さんが出走した、次の月曜日の夜。いつもよりお酒の量が多かった彼女は、潰れた饅頭みたいにバーのテーブルへ突っ伏して涙を流していた。

 話を聞くと、レースが終わった直後に娘さんへ電話を掛けたが、余計なことを言って切られてしまったらしい。今回に関してはどうやっても彼女を庇う要素がなく、「それはキングちゃんが可哀想」と私は苦言を呈した。彼女は益々萎んでしまう。

 最初は、レースで負けてしまった娘さんを、励まそうと思ったのだという。

 

「電話に出た時のあの子、声が震えてたわ」

 

 もう、それだけで、訳がわからなくなってしまったらしい。頭が真っ白になってしまったらしい。

 マスターの渡してくれたおしぼりに顔を埋めて、彼女はくぐもった声で吐露した。

 

「あの子が落ち込んでいるのなら、励ましてあげたい。次は勝てる、あなたは強いウマ娘なんだから、って。そう言ってあげたい。……でも、昨日のキングは、傷ついてたわ。負けて、悔しくて、すごく傷ついてた。震えてた」

 

 そんな風になるのなら、もうレースなんてやめて欲しい。それは彼女の、()()()()()()だった。

 

「傷つくのなら、レースなんて出なくてもいい。私はただ、キングが笑って走っていてくれれば、それでいい。走ることが大好きなキングでいてくれれば、それでいい。たったそれだけなの」

 

 でもそれは、娘さんには関係ないことだ。娘さんの望んでいることじゃない。それは彼女もわかっているんだろう。そしてもちろん、彼女の本心だって、違う。

 彼女は、自分で自分を責めている。情けない自分を、誰よりも責めている。娘を励ますこともできず、あまつさえその大切な娘を傷つけた、自分自身を責めている。

 

「キングは、あんなに頑張り屋さんで、すごい子なのに。それなのに私は、大切な娘一人、慰めてあげられない。どうして私は……私はこんなに、へっぽこな母親なの……」

 

 ……本当に不器用なのだ。不器用なのに、真面目で真っ直ぐな生き方しかできないんだ。そういうところが可愛らしいと思っていたけれど、今はひたすらにもどかしい。何より、自身の不器用さに苛まれる彼女が、不憫でならなかった。

 

「こんな私に励まされたって、あの子も迷惑なだけよね、きっと。それにもう、顔も見たくないくらい嫌われてるわ、私」

 

 辛そうに、自嘲気味に泣いて笑う彼女の言葉を、それだけは断じて否定した。

 

 

 

 

 

 

 娘さんと会う時に、彼女の話をしたことはなかった。どこからか「私が娘さんとたまに会っている」という話を聞いたらしい彼女に、きっちりと口止めをされたというのも理由だけど、そもそも娘さんから「母はどうしているか」と訊かれたこともなかったからだ。

 けれどその日、珍しく娘さんの口から、彼女の話題が出た。娘さんがクラシック級からシニア級に移ってしばらくした頃のことだった。

 

「母は元気ですか」

 

 ミルクと砂糖の入ったコーヒーを混ぜていた私は、びっくりして向かいの娘さんを見た。私と同じようにコーヒーへスプーンを入れていた娘さんが、妙な面持ちで私を見ている。

 

「ああ、いえ、えっと……元気なのは知ってます。毎日のように心配性なメールが届きますから。でもその、仕事とか、最近どうしてるとか……」

 

 あちらへこちらへと目を泳がせる娘さんは、誤魔化すように言葉を募らせた。その度に娘さんの顔がそっぽを向いていった。仕舞いには頬を染めて眉尻を下げ、俯いてしまう。

 

「ごめんなさい、今のは忘れてくださいっ」

 

 慌てた様子で娘さんはコーヒーをすすった。どうにもまだ熱かったらしく、渋い顔をしてすぐにカップから唇を離す。食事中に慌てるということのなかった娘さんには珍しい失敗だった。

 ふっと力が抜けてしまって、頬の緩みを自覚した。端から見れば随分変な笑い方をしたと思う。でもなんだか安心したのだ。

 娘さんは眉間に皺を寄せて私を軽く睨んだ。

 

「わ、笑わないでください」

「ごめん。――キングちゃんからお母さんの話題が出るの、初めてだったから。ちょっと驚いた」

「それは……」

 

 自覚はあったらしく、娘さんはバツが悪そうに視線を落とす。カップの液面を静かに見つめる顔を、私もコーヒーに唇をつけながら見つめていた。しばらく瞳を彷徨わせて、娘さんは溜め息交じりに再度口を開く。

 

「……あの人、自分の話はこれっぽっちもしないんですよ」

 

 これまた娘さんには珍しく、丁寧さの抜けた、少々ぶっきらぼうな言い方だった。呆れているのか、照れ隠しなのか。どちらかはわからないまま、「ああ、そういうところはあるね」と私は相槌を打った。

 

「やれご飯は食べてるかだの、しっかり寝てるかだの、しっぽのケアを怠るなだの、私のことは散々心配するくせに。自分のことは一つも話さないんです。……昔からいつもそう。自分のことは棚に上げて、私のことばかり」

 

 そこまで言って、娘さんはまたそっぽを向いた。カフェテリアの大窓に向かって唇を尖らせる横顔。伏せった目が少し寂し気だ。大人びた表情に、ほんの少し子供っぽい色が宿る。

「直接訊いてみたらどうかな」と提案しようかと思って、けれど留まった。それができていたら、こうしてわざわざ私へ尋ねたりはしない。

 親心があるのなら、子心とか娘心とか言えばいいのだろうか。親心が複雑なように、娘心だって複雑で繊細だ。特に、娘さんの年頃なら、尚更。同じような経験を、随分前のことだが、私もしている。

 

「元気にしてるよ。すっかり仕事人間になってる」

「……母は、昔から仕事人間です」

「そうだね。でも、キングちゃんが学園に入ってからは、もっと仕事してる」

 

 頑張っている娘さんに負けないように。そして、いつか娘さんの勝負服を作れるように。けれどそれはまあ、私の口から娘さんに言うことではないだろう。

 娘さんの瞳がコーヒーへ落ちた。整った顔立ちに明らかな影が差す。唇が震えていた。

 

「……母にとって、私は仕事の邪魔になる存在だったんでしょうか」

 

 心臓が締め付けられる感覚がする。慌てて首を振り否定した。それだけは断じて否定しなければならないと思った。

 

「違うよ。そんなわけない。むしろ逆。仕事しかやることがないんだよ、今のお母さん」

 

 ()()()()()()()、娘には見せてあげられない。彼女はいつもそう言う。キングヘイローの母親として恥ずかしくないように、こんなことしかできないんだ、と。母親としてできることはこれくらいしかないのだ、と。

 ……ああ、ほんと、不器用な愛し方だ。

 

「……親不孝な娘です」

 

 伏せった目で、娘さんはぽつりと呟く。けれど、再び私を見た瞳に、影は残っていなかった。勝気な瞳。眩いばかりの栗色の瞳。それとよく似た目を、私はよく知っていた。

 

「やめません。誰が何と言おうと、私は走ります。私は、私自身が一流であるために、授かったこの二本の脚で走り続けます」

 

 叫ぶような宣言だった。まるで、私ではない、遥か遠くの背中へ投げかけるように。一流を示して立ち続ける誰かに、宣戦布告をするように。

 ああ、ほんと、不器用な愛し方だ。言葉を語るには器用さが足りなくて。けれど切って捨てられないほどお互いを知っている。それゆえ口を出さずにはいられなくて。だけどやはり、本音を語るには不器用が過ぎた。

 もどかしい。けれど私にはどうすることもできない。私はただここで、大好きな友人と、大切な妹分が、いつの日か向き合えることを祈る他ない。

 その日がきっと遠くないと、私は信じて疑わない。

 挑戦的に笑った娘さんは、それからまた気恥ずかしげにそっぽを向く。頬を紅潮させて、尖った唇で語ったのは、さっきまでの勢いとは程遠い、ささやかな声だった。

 

「それに……いつかあの人に、私の勝負服を()()()()()()()のが、私の夢ですからっ」

 

 それは、なんとも反抗的な、親孝行だった。

 

 

 

 

 

 

「キングヘイローの勝負服を製作して欲しい」、URAから彼女と私に依頼があったのは、大接戦となった有記念をキングちゃんが制した、その年明けだった。

 こうした依頼はままある。URA賞や顕彰ウマ娘、年度代表ウマ娘など、最も高い格付けの賞をウマ娘に授与する際、記念品として勝負服を贈ることがあるのだ。そうした場合、URAの認定した勝負服デザイナーに依頼が来る。それも、ごく一部の、選りすぐられた一流デザイナーにだけ、だ。彼女は史上最年少でその依頼を打診され、以降ほぼ毎年、この栄誉ある仕事を請け負っている。

 そんな彼女に、黄金世代の一人として中央レースを盛り上げる娘さんの勝負服製作依頼が来るのは、当然と言えば当然の成り行きだった。

 この時の彼女の乱れっぷりは、十数年来の付き合いになる私でも見たことがないほどのものだった。メールチェックをした直後にかけて来たらしい一回目の電話は、あまりに興奮していて八割以上何を言ってるのかわからなかった。鼓膜が破れそうだったので遠慮会釈なく途中で切ると、十分ほどして二回目の電話がかかってきた。鼻息は荒かったものの若干落ち着いたらしく、仕事上のやり取りをあれこれと二十分ほどして切った。……が、そのさらに二十分後に三度目の電話があって、今度は明らかな涙声で不安を語られた。再び二十分ほど慰めて電話を切り上げ、さあ今度こそ仕事にとりかかろうと思い直したところで、四回目の電話がかかってきた。

 感情のジェットコースターに結局六回も付き合わされた私は、今夜飲みに行く約束だけ取り付け、問答無用で電話を切った。以後の着信はことごとく無視。

 いつものバーで適量を見計らってアルコールを摂取させると、彼女は潰れた牡丹餅みたいになって静かになった。水を与えて落ち着かせると、ようやく話が聴けるようになる。

 

「……私で、いいのかしら」

 

 結局のところ、彼女の悩みはそこへ集約されるのだろう。薄々気づいていたけれど、酔いに任せてぽつぽつしゃべり始めた彼女の話を、いつもの通り相槌だけで聴いていた。

 

「私は嬉しいけれど……キングはきっと、そうじゃないはずよ。――私が勝負服を作ること、キングはどう思っているのかしら。きっと他に……私以外に、作ってほしいデザイナーが、いたんじゃないかしら」

 

 口を開くたびに萎んでいく声。どうやら、娘さんの今の勝負服をデザインできなかったこと、彼女はいまだ引き摺っているらしかった。乗せられた不安と寂寥は、なんだか遠い恋人に想いを馳せる乙女のようだと、そんなことを思わずにはいられない。

 さすがに堪えきれず、口へ当てた拳に私は小さく吹き出した。テーブルに突っ伏す彼女が、恨めし気な瞳でこちらを軽く睨む。端正な顔が台無しで、だけど無性に可愛らしくて、やはり笑ってしまった。

 

「わ、笑わないでっ」

 

 抗議の声にごめんと返す。彼女の不安への答えは、きっと顔合わせの時に娘さんが答えてくれる。だから私にできることは、彼女をその場に送り出すこと。数年ぶりの対面の場に、彼女を着かせること。

 すれ違っていた――のかどうかすらよくわからない、けれど確かに開いてしまった距離を埋めるきっかけになるのなら、これくらいのお節介は許されてもいいだろう。そう思うくらいには、私はこの親子が大好きだ。

 

「いくらURAでも、一存でデザイナーを決められないでしょ。勝負服を着て走るのはウマ娘なんだから。候補を何人か提示するか、少なくともこのデザイナーで良いかどうか確認は取る。それくらい、知ってるでしょ」

「……うん」

「だから大丈夫。少なくともキングちゃんは、あなたのことを嫌がってない。あなたに勝負服のデザインを任せてもいい、ってそう思ってる。……そういう風には考えられない?」

 

 彼女は何も言わなかった。頷くことも、首を振ることもなかった。チビチビと、半分ほどになったコップの水に口づける。それからグイッと、残った水を一息に煽った。コップを置いた彼女は、ここではないどこか――誰かを真っ直ぐに見つめていた。落ち着いたバーの照明を受けて、栗色の瞳が瞬く。宝玉そのものの輝きを、ただただ美しいと思った。

 

「……作るわ。キングの勝負服。どんなデザイナーにも負けない、一流の仕事をして作るわ。あの子の走りに相応しい勝負服を、必ず、きっと」

 

 力強く宣言して、清々しく言い切って、そうして彼女は私を見た。眉を下げて少し恥ずかしそうに、けれど確かな意志を宿して彼女は手を差し出す。

 

「だから、お願い。裁縫師として、あなたも一流の仕事をして頂戴」

「――元からそのつもりです」

 

 彼女の力強さに負けないくらい、勢い良く手を握って、ぶんぶんと振った。彼女はくすぐったそうに笑う。思えば、そんな風に笑う彼女を見たのは、随分と久しぶりのことだった。

 カクテルのおかわりを二人分頼む。マスターが準備してくれる間、私は彼女に尋ねた。

 

「それで、デザインはどうする? もうアイディアの一つや二つ、あるんじゃないの?」

「……さ、さすがに、今日依頼があったばかりで、何もないわよっ」

 

 彼女は何かを隠すように白を切り、そっぽを向く。だけど不器用ゆえに、やっぱり嘘が下手だ。

 ……これは今夜こそ、三年近く温めたとっておきの秘密道具を出す時が来たんじゃないか。そんなことを考えて、湧き出る悪戯心を押さえながら出されたカクテルを受け取る。彼女が口をつけたところで、私は何気ない風を装って呟いた。

 

「……『極秘』の棚の中身、出さないの?」

「んぶっ!?」

 

 雰囲気のいいバーには全く似つかわしくないむせ方を隣の彼女がしている。見事に不意を突くことに成功したようだ。ゴホゴホと激しく咳込む彼女は、涙目を白黒させながら私を見た。アルコールのせいにしては、随分と鮮やかな赤に頬が染まっている。

 (くだん)の棚は、彼女が普段仕事をしているデスクに存在する。五年ほど前から存在しているその棚の中身については、誰も知らない――という体になっている。

 鍵付きのその棚を、彼女は日に何度か開けては中身を取り出し、百面相をしているらしい。

 

「なんっ……なんで、知ってるのよっ!?」

「言っとくけど、知ってるのは私だけじゃないから」

 

 そもそも、この件の情報源は彼女の同僚だ。

 しれっとして更なる爆弾を投下すると、彼女は最早声も発することができなくなってしまったらしい。パクパクと金魚みたいに言葉にならない声を上げ続ける。それから元の通り、テーブルに突っ伏して潰れてしまった。「もういっそ殺して」と、くぐもった声が訴える。

 

「今更だよ」

 

 そう、今更だ。

 不器用だけれど。少し臆病だけれど。世間一般の差す「いい母親」とは間違っても言えないけれど。

 娘さんが大切で、大好きで、懸命に愛している。ただそれだけの点をもって、彼女は「一流の母親」だ。そんなこと、当の昔に、私も彼女の同僚も知っている。

 だから、彼女がその不器用な愛し方を隠していたつもりなら、今更だ。

 

「……あの中身は、出さないわ」

 

 しばらく悶え苦しんでいた彼女は、そう言ってようやく顔を上げた。カクテルグラスを手繰り寄せ、けれどその中身を口にすることなく見つめている。そこに映る誰かへ――彼女によく似た誰かへ微笑みかけながら。

 

「今の……いいえ、これからのあの子に相応しい勝負服をデザインしたいから」

 

 とびきり優しい笑顔を向けられると、私の頬も勝手に緩む。今夜は久しぶりに気持ちよく酔えそうだと、そんなことを思った。

 

「それは、これからもずっと走ってほしい、ってこと?」

 

 私の言葉にぱちくりと彼女は瞬きをした。そんなこと思いもしてなかったんだろう。けれど、それほど考える時間はなく、彼女は赤い頬を掻きながら答えた。

 

「そ、そういうことっ」

 

 じゃあそれも、伝えられるといいね。私の提案に彼女はまた言葉を詰まらせて、「善処します」とそっぽを向いて答えた。

 

 

 

 

 

 

――そうして、親子は対面した。

 

 

 

 六人掛けの応接室の机に、六人が腰掛けている。私たち勝負服デザイナー側が三人――彼女、私、そして彼女の同僚。娘さんたちウマ娘側が三人――娘さん、トレーナー、URAの担当者。彼女と娘さんは、それぞれの真ん中の席に腰掛けて、対面していた。

 始めに、URAの担当者が企画の趣旨を説明した。中央レースを盛り上げる黄金世代――スペシャルウィーク、グラスワンダー、エルコンドルパサー、セイウンスカイ、そしてキングヘイローの五人に、特別賞が贈られること。今後のさらなる活躍を期待して、全員に勝負服が送られること。そこまで説明して、「あとはお願いします」とURA担当者は頭を下げた。

 あとを任された彼女は、チラリと手元のメモへ目線を落とした。それから正面の娘さんへ目を向けた時、その横顔はもう仕事人間のものになっている。私の横に座るのは一流の勝負服デザイナー。今は、目の前にいるウマ娘を輝かせることに、全身全霊をかけている。

 

「キングヘイローさん」

「はい。何でしょうか」

 

 彼女に呼ばれた娘さんも、真っ直ぐに見つめ返した。部屋に入って来たばかりの、やや緊張した様子の少女の姿は、すでに影を潜めている。そこに座るのは一流の競技ウマ娘。磨かれた二本の脚でターフに立ち、世代を輝かせている。

 よく似た栗色の瞳が、しばらく静かにお互いを見つめていた。

 

「最初にお伺いします。――あなたの勝負服のデザイン、私が担当してよろしいでしょうか」

「……え」

 

 おそらく、この場の誰もその質問は予想していなかっただろう。勝負服の打ち合わせで、彼女がそんな弱気とも取れる発言をしたことなど、私の知る限りない。

 娘さんも驚いたように目を見開いた。半開きの唇からすぐに返事は出てこない。

 その娘さんを彼女は微動だにせず見据えている。瞳の色は変わっていなかった。娘さんの勝負服作成が決まった日に見せたような、彼女の内の不安からではない。いや、もちろんそれもあるにはあるのだろうが。真っ直ぐな目線に感じるのは、不安よりも決意の色が強かった。

 それが、娘さんに伝わったのかどうかは、わからない。

 

「――ええ、もちろんです。構いません」

 

 娘さんも強い瞳でそう返事をした。やや不安げに推移を見守っていたらしい娘さんのトレーナーが、ふっと力を抜いて笑う。そんな彼をチラリとだけ見遣って、娘さんはわずかに目を細めた。

 

「確認するまでもないことですわ。私は、あなたが私の勝負服を作るのに相応しい、一流のデザイナーと考えています」

 

 ほんの少し言い淀む間があった。開きかけた唇から、一瞬だけ声が出てこない。けれど娘さんは、はっきりと、前を見据えて言い切った。

 

「私は、あなたに、私の勝負服を作っていただきたいのです」

 

 目を見開くのは、今度は彼女の番だった。

 栗色の瞳がきらりと光る。柔らかな煌めきは一瞬瞼によって隠された。再び開かれた時、雫の兆しはもうどこかに消えていた。

 

「ありがとうございます。光栄です。――そのご期待に沿えるよう、精一杯の仕事をさせていただきます」

「ええ。よろしくお願いいたします」

「では早速、勝負服の方向性ですが――」

 

 勝負服の打ち合わせが始まる。彼女のイメージ。娘さんのイメージ。トレーナーにも意見が求められ、裁縫師の私にも意見が求められる。けれどやり取りは終始、彼女と娘さんが中心だった。お互いの主張を真っ直ぐにぶつけ合う、端から見れば随分と白熱した議論になっていた。

 持ち込んだ画用紙に、彼女が凄まじい速さでイメージ画を描く。そうすると、娘さんの意見がすぐに飛んで来て修正が入る。二人の意見に、私も裁縫師として口を挟む。トレーナーが娘さんと二言三言意見を交わし、それもまた反映される。実に忙しない会議だ。

 でも不思議と、楽しい二時間だった。

 

 

 

「キング!」

 

 予定時間を一杯まで使った打ち合わせを終え、娘さんは応接室を後にした。事務所を後にする娘さんたちを、私たちも見送る。エントランスへやって来たエレベーターへ、娘さんが今まさに乗り込もうとした時、彼女が娘さんを呼び止めた。

 ぴたり。エレベーターへ乗せかけた足を娘さんが止める。「少し待っていて」と囁いた娘さんに「わかった」とトレーナーが微笑して頷いていた。ヒールを美しい調べで鳴らして、娘さんは彼女を振り返った。

 

「……キングヘイロー、さん」

「……はい。なんでしょうか」

 

 彼女に言い淀む間があった。開きかけた口から言葉が出なくて、グロスを引いた唇が震えている。けれど、彼女ははっきりと、真っ直ぐに娘さんを見つめて言い切った。

 

「……いつも、応援しています。――きっと、あなたに相応しい、勝負服にします」

 

 短い言葉に目を見開くのは、私であり、娘さんだった。「応援しています」、その言葉が彼女の口から出ることなど、本当に初めてだった。

 驚きを隠せない様子の娘さんは、ぱちくりと長い睫毛を震わせた。栗色の瞳が揺れている。淡い光が宿って、それが流れて瞳の端へ溜まっていく。けれど、娘さんが少し長い瞬きをすると、水面のような揺らめきはすでになかった。

 一流ウマ娘はシャンと背筋を伸ばして答える。

 

「……応援、ありがとうございます。――はい、あなたならきっと、素敵な勝負服にしてくださると、確信しています」

 

 浮かぶ笑顔は、一点の曇りもない、正しく太陽のような明るさだった。そんな風に笑う娘さんを、随分と久しぶりに見た気がした。

 そして娘さんは――キングヘイローというウマ娘は、力強く宣言する。

 

「そして必ず、勝負服に相応しい走りをすると、お約束しますわ!」

 

 

 

 エレベーターの扉が閉じたあと、彼女が滂沱のごとく泣いたことを、私も彼女の同僚も、気づかなかったことにした。

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